殺してやる
死にそうだった。
それは、目の前の男に言われずとも分かっていた。
「いや、分かっていないな」
自身も傷だらけの体を晒して、男が言う。南部の男に多い金髪に碧眼の、弱そうな見た目であった。曲刀で一突きすれば簡単に殺せるだろう。いつもの自分ならば。
「瀕死の状態でここまで逃げてきたことは大したものだが、この先もそうとは限らん」
「……それをお前に決められる謂れはない」
ぽたぽたと、口を開くたびにしつこく血が滴り落ちる。それを冷めた目で眺めながら、男が目尻に皺を寄せた。
「これは慈悲だ。ヒュベルの糞共に捕まって、犯されなぶり殺されるよりは余程マシだと思うがな」
「このおれが、そんなことを許すとでも?」
「……山の民が総じて勇猛果敢だとは聞いている。女子供でさえもな」
「ならばそこを退け。退かぬなら、お前も殺す」
「それは出来ない。あんたが行けば、あいつらがまた山狩りをする。それから逃げる余力は、もう俺にはない」
面倒なやり取りであった。男の言い分は分かる。だが自分には、もう追われる仲間はいない。自分が突撃した後のことなど知ったことではない。
何より、血を失いすぎて頭がくらくらし出していた。肉を食べねばならない。
「臆病者など、死ねばいい」
苛立ちに殺意を混ぜて吐き捨てる。山では、臆病者に生きる価値はなかった。
男が、垂らしていた右手をゆっくりと持ち上げる。まるで拭っても拭いきれないとでも言うように、刀身が赤く滲んで見えた。
「最後に言い残すことは?」
まるでどこぞの執行人のように、男が宣う。
腹が立って腹が立って仕方がなくて、盛大に口端を持ち上げて嗤ってやった。
「……殺してやる」
◇
(なんか……物騒な夢を見た気がするんだけど……)
カーテン越しの朝陽が小夜の横顔を照らすたびに、記憶が薄れていく。
代わりに蘇ったのは、昨日のやり取りであった。
泊まっていけと発言したイディオに、全員が反対した。イスヒスとフィオンは一階の監視可能な小さな個室を勧め、小夜は帰宅を希望した。だがイディオは反対側の隣室で寝るようにと言って、頑として譲らなかった。
その理由として挙げたのが、「彼女」なる存在である。
『小夜も、きっと会わないと後悔するよ。彼のためにもね』
(彼女って、結局誰なんだろ)
何度も聞いたが、結局はぐらかされてしまった。だがどんなに考えても、思い当る人物など一人しかいない。
神殿長の許可が必要な、会わないと後悔する、神殿で神服を着ない唯一の女性。
(ファニ、かな……)
隣室の客間に案内され、寝間着を渡されてすぐ、小夜は夜中の脱出を試みた。ついでに、可能ならファニの居場所も突き止めようと思った。
結果から言えば、大言壮語であった。
寝静まったふりをしてドアをこっそり開けたら、その隙間でイスヒスが仁王立ちをしていた。お手洗いの場所を聞いていなかったと言い訳した。
(スパイ映画みたいにはいかないもんだなぁ)
寝間着から再び白いドレスに袖を通しながら、まだ上手く働かない頭を振り動かす。
ちなみに、ずぶ濡れになった服は窓際の椅子を拝借して干してあった。冬ということもあって、あまり乾いてはいない。
白いドレスとは、まだお別れ出来そうになかった。
(胸はともかく、お腹が入って良かったけど……)
唯一の救いは、細身とはいえぴったりした縫製ではないため、薄い胸もたるんだ腹もどうにか収まったことであろうか。
などと考えながら、肩掛けを羽織って贅肉を隠す。従者のルディアが小夜を呼びに現れたのは、朝食を平らげて少ししてからであった。
「面会の時間が決まりました。昼食後、白の広間にてお会いできます」
じゃあそれまで自由にしていいですか、と聞いたら、仕事を増やすなとでも言いたげな冷ややかな眼差しで見られたことは言うまでもない。
果たして、昼食後にルディアとイスヒスに挟まれて案内されたのは、同じく応接室のようであった。しかしその特別な様子は、入ってすぐに感じられた。
「すっご……」
小夜は樫の扉が押し開かれた瞬間、そう言って止まってしまった。
白の広間と言われる通り、その部屋は壁も天井も白を基調とした装飾で統一されていた。特に真っ白な漆喰装飾で立体的に描かれたレースのような模様は、青みがかった灰色の壁から天井に向かうにつれて密度が上がり、やはり聖泉を思わせる空白で集約していた。
この部屋には明確な人物造形はなく、いくつかの空白が見えない誰かを想像させるような余地がまた見る者の好奇心を掻き立てた。
そんな中で最も目を惹くのが、扉や壁掛け燭台以外には唯一の色と言える、暖炉の上の巨大な絵画であった。全体的に仄暗い色彩を背景に、毛先が透き通った水色の髪や、服というよりも領巾を纏った、人間とは思えない神秘的な人物が水滴の中に浮いている構図である。
(女性、かな? なんか胸とかお尻とか薄いけど……)
一言で言えば、中性的という感じだろうか。
「大精霊クレーネーだよ」
立ち止まっていた扉の後ろから良い声がして、小夜は本能的に振り返った。聞き間違えるはずもない、イディオである。
「イディオさん」
「やぁ。お待たせ」
軽く手を挙げて、小夜を室内に導く。一人では気後れして座れなさそうな椅子を示され、諦めて浅く腰を下ろす。イディオは流石に堂に入った姿で隣に腰掛けた。そう感じるのは、衣装の豪華さもあるかもしれない。
昨日の簡素なものとは違い、ゆったりとした作りの白地に赤と青の差し色が大きく入った服で、赤には金糸、青には銀糸の精緻な縫い取りが施されている。同様に豪華な肩掛けは、生地の厚みが三倍くらいはありそうで、絶対に肩が凝ると小夜は思った。
十四歳という外見には全く釣り合っていないはずなのに、不思議とよく似合った。
しかしそれも、次に上がった声に全て奪われた。
「お待たせしました」
「ファニ!」
別の扉が開き現れた姿に、小夜は迷わず駆け寄っていた。
普段から他人と過剰に接触しない小夜ではあったが、躊躇は一瞬、ファニの顔を見た瞬間に抱き締めていた。腕の中で、ファニが戸惑うのが分かる。
実際、ファニには前回の誕生会では会えずじまいであったから、実に一年以上振りの再会となる。しかも最後は負傷した後で、エヴィエニスにお姫様抱っこをされての別れであった。ずっと元気な顔を見たいと思っていた。
それでも、再会の抱擁をする程に仲が良いかと言えば、違うだろうという自覚もあった。ファニは常に引け目や負い目を感じ、なるべく周囲との関わりを避けているようでもあったし、それはエヴィエニスの予防線のせいだけとも言えないとも思う。
だから、不穏な情報を聞いていての無事な姿に大きく安堵しても、抱きつくつもりはなかった。
今にも泣きそうな、けれど必死に感情を押し殺そうとするファニの、ラピスラズリの瞳を見るまでは。
「小夜さん……本当に……」
小夜の背に触れるか触れまいかと迷いながら、ファニが小さく呟く。それを遮って、小夜は最初に伝えたいことを伝えた。
「すぐに会いに行けなくてごめんね」
「!」
ファニが同じ場所にいるかもしれないと知った時の小夜の焦燥以上に、ファニはきっと気を揉んだはずだ。ここに来た経緯がどんなものかは分からないが、喜んでいないことだけはその顔から明らかである。間抜けだっただけの小夜の存在に、少しでも責任を感じてほしくはなかった。
だがそう伝える前に、小夜はあっさり引き剥がされた。
「ぅわっ」
「聖泉の乙女様に軽々しく触れないでください」
「あ……」
振り向くと、まるで視界に入っていなかった黒服の男が小夜の首根っこを掴んで睨んでいた。イスヒスと揃いの作りで、どうやらファニの護衛ということらしい。
「すいませ」
「バリュ。彼女に気安く触るな」
そう言えばまだ不審者認定が撤回されていなかったと思い出して素直に謝ろうとした小夜であったが、言い切る前にイディオが牽制してきた。バリュと呼ばれた黒服が、困惑したようにその手を放す。
そうしてファニも静かに対面の椅子に腰を下ろし、扉が締められる。主要人物は出揃ったということらしい。
改めて室内にいる人間を見る。小夜の背後にはイスヒス、イディオの背後には従者のアデルとルフィア。そしてファニの両脇にはバリュを含めた黒服二名がいる。
そこで気が付いたが、ファニもまた小夜と同じような服に身を包んでいた。しかも十六歳という真性の乙女である。黒髪と星空のような瞳との対比もあって、白さが神々しさに変わっているようにさえ見えた。
(えらい違いじゃ)
今更ながら似合わなさに恥じ入ってしまう。今すぐにでも着替えたいが、扉の外にも護衛が立っていたことは、入室時に確認していた。
(なんか、重装備)
首脳会談に間違って民間人が紛れ込んでしまった気分である。特にファニとイディオが心なし暗いというのもある。誰も口を利かないまま、侍従のフィオンも給仕を終えてイディオの後ろに控える。
何から話したものか、と思っていると、ファニがおもむろに口を開いた。
「小夜さんまで攫ったの」
それは、質問というよりも断定であった。イディオが、冷めた口調で応じる。
「まさか。ぼくを助けてくれたから、お礼にご招待申し上げたのさ」
この回答に、ファニが信じられないというように小夜を見る。経緯はともかく、発端は間違っていないので、なんとも否定のしようがない。
苦笑いでごまかすと、益々ファニの可愛らしい顔は険しくなった。それはいつかクィントゥス侯爵邸で見た必死で作った敵意とは違う、明確な怒りを灯していて。
「私は違うわ。さらわれたのよ、突然、力ずくで」
細かな光が遊ぶ夜色の瞳を細めて、尊大に背もたれに体を預けるイディオを睨み据えた。
「フィイア先生――あなたにね」