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天晴れを通り越して変態的

 ピチャッと、冷たい液体が頬に飛ぶ。その衝撃にさえ負けたかのように、体が椅子の上に落ちる。

 それで、小夜は我に返った。


「……えっと、落としましたよ?」


 まだ耳に陶器が砕け散る音が残っている気がすると思いながら、濡れて色の変わった床を指さす。辺りには大小の鋭利な破片がいくつも散らばっていた。実家のぺちゃんこと違い、毛足の長い絨毯だと細かい破片は拾うのが大変そうだなと、見当違いな懸念が頭を過ぎる。

 しかし落とした当の本人は、恐らく掃除などしたことがないのだろう。可愛らしい笑顔で、こう訂正した。


「うん。意図的にね」


「…………」


 まぁ、小夜からもそう見えた。本音を言うとその水差しで殴られるのかと思ったのだが、それはお互いのために伏せておく。

 疑問なのは、何故水差しをわざわざ小夜の前まで持ってきて割ったのかということだ。

 他に人が残っていたのであれば、更なる人払いにとは考えられる。だがここには二人しかいない。小夜が見る限り。


(ここに本物のイデオフィーアさんがいるとか?)


 しかししばらく待っても誰かが突然現れることはなかった。今まで人違いをしていた相手にそう聞くのは重ね重ねの失礼であり、小夜は何度も周囲とイディオの顔色を観察した結果、無難な質問をすることにした。


「えっと、水差し、割って良かったんですか?」


「うん。もう何度も割ってるから」


「もったいな!」


 つい叫んでいた。小夜の中の庶民が。

 いかんいかんと話を戻す。


「もしかして、お嫌いなんですか? その……中身が?」


 水差しというものが嫌いなら、イスヒスか誰かがとっくに別の容器などに変えているであろう。となると消去法で中身となるが、頬に触れたものを指先で拭ってみても、小夜にはそれが何か判別できなかった。味は分からないが、その他は無臭無色透明の――水にしか見えない。

 そしてイディオは、今までで一番良い笑顔でこう言った。


「うん。大っ嫌い」


「それは……致し方ないですね」


 たかが水をとか、この世界で既に軟水硬水への拘りでもあるのかとか思わないでもなかったが、嫌いならば致し方ない。そんなに嫌っている水を懲りずに用意しているのは何故かなど、触れてはならない。

 しかしイディオは、不思議そうに首を傾げた。


「何でとか、この水なんなのとか、聞かないの?」


「いやぁ……」


 聞いても絶対良いことないでしょ、とは思ったが、もちろん声には出さない。今すぐお暇したい小夜としては面倒事も余計な情報も聞きたくないのだが、そう口にすればこの少年はいい笑顔で教えてきそうだと思ったのだ。

 しかしその警戒も徒労であった。


「これ、命の水なんだ」


「…………」


 にっこりと教えられてしまった。案の通り、全然美味しそうな名前ではなかった。

 だが一方で、ふと繋がるものがある。

 聖泉と神殿。命の水。神の子は病気も治す。


(まさか、イディオさんが……?)


 断片的な情報が突然一ヶ所に集まってきたような気がして、小夜はめまぐるしく考えた。

 乙女ゲームでは後ろ姿しか出ていなかったが、説明では男の子だったし、神の「子」というのだから、少年だろうと勝手に思っていた。

 だが情報収集担当のフィオナによれば、神の子は経歴も年齢も不詳らしい。もし二十年前の戦争以前からいるという情報が正しければ、子供という可能性は消えてしまう。それに、神の子は神殿から一歩も出ないと言う話もあった。しかしイディオはがっつり出ていた。何なら溺れていた。

 何と聞いて確かめれば良いものか、小夜は思いあぐねた。今までの態度からして、イディオが小夜の質問に嘘を言っているような感じはしない。だが全てを正直に答えているようにも見えなかった。

 そもそも、魔法を使えないと言ったのに小夜の傷を治そうかと提案したのも矛盾しているはずだ。医療行為ができるというのならまた別の話だが、仮定ばかり考えていても、名探偵ではない小夜には分かりようもない。

 とにもかくにも確かめなければと、小夜が口を開いた時であった。


「イディオ!」


 バンッと扉が開いて、イスヒスが鬼の形相で飛び込んできた。傍らには侍従のフィオンもいる。

 三白眼がぎろりと室内を睨み、イディオの無傷と、無残な水差しと、その前に座ったままの小夜を確認する。そして、イディオが先手を打った。


「小夜が割ったんだ」


「へ?」


 何故そんなことを、と考えた時には、右頬と左腕に鈍い痛みが走っていた。ガタンッと、遅れて椅子が倒れる。それを真横に見ながら、小夜は思った。


(……何で押し倒されてんの?)


 しかも少女漫画の最終ページ直前で見るようなヤツではなく、刑事ドラマの冒頭でよく見るようなヤツである。つまり、背中に膝を乗せられ、左腕を背中まで捩じ上げられ、顔を右手で床に押し付けられていた。


「やはり、イディオが狙いか」


 すぐ耳元でイスヒスが凄む。大変良い声ではあったが、小夜は一瞬で背筋が冷えた。絨毯に擦れて動かしにくい口をどうにか開いて弁明する。


「……あ、あの、違い」


「では命の水か」


「っ」


 ぐっと頭を押す手に力が加わり、骨が軋む。最早聞く気などないではないかと言いたかったが、その声も出なかった。


(だから! そんな美味しくなさそうなミネラルウォーターなんか要らないって!)


 しかし小夜が唯一自由な右手で床を叩こうとも、イスヒスは尋問の手を緩めなかった。


「どうやって結界内に入った。誰の指示だ。仲間はあと何人い」


「イスヒス。冗談だよ」


 イディオがそう言うまでは。


「る…………は?」


 イスヒスが、普段は鋭い目を極限までかっ開いて横を見た。入口からすごい速さですっ飛んできて、椅子に座っていた小夜の左腕を掴んで床に組み伏せて容赦なく尋問するまでを、他人事のように眺めていた主人を。

 その驚いた顔を満足そうに見下ろして、イディオは胸を張って続けた。


「ぼくが割ったんだよ。決まってるだろう?」


「決まって……!」


 るわけあるかバカ! くらい続くかと思われたが、イスヒスはそのまま無言で打ち震えていた。小夜を押さえる手からどんどん力が抜けていく。


(なんか、可哀想になってきた……少しだけだけど)


 そしてついに頭からも背中からも重みが消え、イスヒスは小夜を挟んで反対側に正座する。小夜がそろりと膝を立てる横で、三十半ばのおじさんは悲しげに項垂れていた。


「お前はそういう奴だよ……!」


「毎日割ってるのに、そんな誤解ができることがすごいよ」


 最早どちらに突っ込めばいいのか分からない、と小夜は思った。

 水が嫌いだからと毎日高価な水差しを割る方も割る方だが、毎日割られているのにここで小夜を疑う方も疑う方である。もしその原動力が健気な忠誠心だというのであれば、天晴あっぱれを通り越して変態的と言っても差し支えあるまい。


「小夜、怪我はない?」


 まだ膝の感触が残る背中をさすりながら体を起こした小夜に、部下をからかい終わったらしいイディオが声をかける。意地悪してても良い声だなと思いながら、小夜は頷いた。


「はい。破片は避けてくれたみたいなので」


 実際、椅子の正面に引き倒されていたら、体の前面は陶器の破片で血だらけになっていたことであろう。それを避けた辺りは、やはりイスヒスの常識人としての配慮かとは思う。


「そっか。じゃあ何も問題はないね?」


「いや、あるだろう! 何でこんな」


「ぼくにお説教するよりも前に、すべきことがあるんじゃないの?」


「何が……ハッ!」


 敬語も忘れての応酬が、そこでぴたりと止まる。イディオの緑眼が、小夜を見ていたからである。


「え? 今度はなに……」


「すまなかった!」


 土下座された。ごっちんと、おでこが鈍い音を立てるくらいに。


「は? あの、何を」


 小夜はいい加減これ以上の疑問符の増産はやめてほしいと思いながら、イスヒスの顔を上げさせようと手を伸ばす。だがその先を聞いて、手が止まった。


「目的が読めず奇行を繰り返す怪しい人物だからと早とちりしてしまった!」


「…………」


「怪我をしていた女性に乱暴をして、本当に申し訳ない。この通り、許してほしい」


 行動に許しを求める前に発言に許しを求めてほしいと思わないでもない小夜であったが、悪意あってのことではないことは分かっている。小夜は短い逡巡の末、口を開いた。


「許すわけないじゃないの。断りもなく突然押し倒してあーんなことやこーんなことをしようとしたこと絶対に忘れないわよ。神殿中に言い触らされたくなかったら一生私の言うことを聞くと誓いなさい」


「かわいいぃっ」


 少しぶりっ子の入った作り声に、小夜は言うべき言葉も忘れて悶えていた。少年らしい声や凄味のある低い声も勿論良いが、実は色気ある大人の女性としても素晴らしかったのだと改めて思い出す。


「それはその女性の心の声の代弁ということでよろしいのですか?」


「んハッ!」


 背後からの新たな美声に、小夜はハッと正気に返る。見ればイスヒスと共に戻ってきていたフィオンが、いつまでやるのかと言いたげにこちらを見ていた。


「よく分かったね、フィオン。小夜も、間違ってないよね?」


 あー、楽しかったと言わんばかりの顔で、イディオが元の椅子に戻りながら問いかける。土下座のまま打ちひしがれているイスヒスのつむじを眺めては、はいともいいえとも言い難いなと小夜は思った。

 実際、痛かったし怖かった。どんなに美声でも、疑われれば好印象も薄れるものである。

 などとまごついていると、何故か満面の笑みでウインクされた。


「これで、イスヒスに貸しが一つできたね?」


「うっ」


 ぐさりと、誰かの良心に言葉の刃が突き刺さる音が聞こえた気がした。

 しかしそれを慮るよりも、驚きの方が大きかった。


(もしかして、私のために……?)


 小夜が帰りたいと言ったから、協力してくれたのだろうか。だがそれなら、誰もいないうちに帰らせてくれればそれで良かったのだが。


(なんか、違う気がする)


 だが、イスヒスに無理を言える権利はあって損はない気はするので、ありがたく頂戴することにした。

 何より、小夜には先程から他に気になっていることがあった。


「それはそうと、私、名前言いましたっけ?」


 出会いが慌しかっただけに、小夜はまだここの誰にもきちんと名乗ってはいなかったはずだ。しかしイディオは、まるで忘れてしまったのかとでも言いたげに自信満々に断言した。


「言ったよ。初めて会った時にちゃんと『小夜・畑中と申します』って」


「そ……んな悠長な挨拶、しましたっけ?」


 そんな暇はなかったような気がするのだが、言われてみると発言したような気もするから困る。

 しかしイディオはこれには答えず、フィオンを振り向いた。


「それはそうと、会えるって?」


「えぇ。神殿長の許可は既に出ていましたから。本人にもきちんと伝えて、了承を頂きましたよ」


「そう。じゃあ、明日にでも訪ねようか」


 何のことかと思ったが、そう言えばイスヒスはフィオンに「彼女」に会えるかどうかを確認するために出て行ったのだったと思い出す。小夜には何のことかさっぱり分からないが、まぁ自分には関係なさそうだ、と思っていたら、イディオと目が合った。


「ということだから、今日はここに泊まっていって?」


 本日二度目の爆弾が落とされた。


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