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帰っていいですか

 イスヒスに横抱きにされたままイデオフィーアの私室に戻ると、主人と従者の三人は早速額を付き合わせた。


「イディオ様。イスヒス様が早速隠れて本性を現したようですよ」


「イディオ様。イスヒス様がついに主人のものでも構わず手を出したようですよ」


「やっぱりイスヒスだけに任せちゃダメだったかな?」


下種げすはやめろ!」


 全然口許を隠す気のない手の向こうでヒソヒソと話す少年たちに、イスヒスがくわりと怒鳴る。それでも小夜を一人掛けの椅子に下ろす手付きが丁寧なものだから、こういう所が彼らにおちょくられる――もとい、好まれる要因なのだろうなとしみじみ思う。


(お父さんは大変ですな)


 苦労性と確定したイスヒスに、心の中だけで労りの言葉をかけておく。しかし他人事だったのもそこまでだった。

 椅子に座った小夜の前に膝をつき、イスヒスが早速足の裏を点検する。その姿勢がどうにも気恥ずかしくて、小夜は視線を意味もなくさ迷わせた。

 隣室から戻ったから分かるが、この部屋は圧倒的に装飾が少なかった。来客者に威光と信仰を余すところなく訴えようという明確な意思をもつ応接室に対し、この部屋には絵画の類いがないどころか、壁も天井さえも無地である。

 あるのは部屋の奥にある天蓋付寝台と、マントルピースに何も置かれていない暖炉。濡れてしまった猫脚の長椅子に、小夜が座っているような一人掛けの椅子も三つだけ。

 長椅子とセットらしい丸テーブルも猫脚で、その上に置かれた水差しらしき陶器だけが花柄で彩色華やかだ。


(寝る部屋があんなんじゃ、目がチカチカするもんねぇ)


 などと思っていたら、チッと舌打ちされた。びくっと視線を戻す。


「靴擦れもしてんじゃねぇか」


「す、すいませ」


「ルフィア」


 反射的に謝る小夜を遮って、イスヒスが従者の一人に声をかける。


「こいつ、足裏を怪我してる。薄い余り布をもらってきてくれ」


「かしこまりました」


 柔らかな少年の声が一言、低頭して再び部屋を後にする。こんなことなら、最初から要望を伝えておけばよかったと申し訳なくなる。


「そう言えば、森の中を裸足で歩いてたね」


 自身も乾いた服に着替えたイデオフィーアが、万端用意された茶と菓子を摘まみながら言う。要約されると何とも阿呆のようだと思いながら、「えぇまぁ」と頷く。と、すっかり失念していたことを提案された。


「治してあげようか?」


「え?」


 ぱりぽりと、クッキーのようなものを齧りながら言われ、小夜は一瞬何のことか分からなかった。魔法だ、と思い出したのは少ししてからだ。


(そう言えば、この世界は外科医いらず)


 本当に要らないかどうかは確かめていないので分からないが、小夜も前々回、イデオフィーアに帰りがけの駄賃のように魔法で怪我を治してもらっていたのだった。あの時と今のこの怪我を比べても同程度に思えた小夜は、深く考えずに頷いていた。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


「ダメだ!」


「!」


 あまりに鋭い一喝に、小夜はびくりと体を震わせた。イスヒスだ。


「えっと、あの……」


 ただでさえ鋭い三白眼が、更に険しくなっている。そこにただならぬものを感じて、小夜はそれ以上言葉を続けられなかった。何故なら、残ったアデルからも同じ気配――敵意のようなものを感じたから。


「や、やっぱり、いいです」


 ぎこちない笑顔でどうにか辞退する。少しだけ距離が縮まったと思ったのだが、どうやら思い違いだったらしい。

 一方、当の発言者であるイデオフィーアは、そんな三人を一通り満足そうに眺めて、また話題をころりと変えた。


「そう言えば、彼女にはそろそろ会えるかな?」


 実に呑気な声に、イスヒスが眉間に皺を寄せて息を漏らす。だがすぐに切り替えたように、小夜の前から立ち上がると主人に向き直った。


「それは神殿長がお決めになるでしょう」


「ちょっと聞いてきてよ。フィオンならきっと知ってるから」


「結論が出たらフィオンの方から知らせに来ます」


「いい知らせがあるんだって伝えてよ。会わないと後悔するよって」


 絶対にね。

 と、十四歳とは思えない色気を滲ませて囁く。その視線が意味深に小夜に向けられていたが、当の本人はあまりの美声に顔を覆って悶絶していた。


(このっ、この語尾が掠れて響く感じが堪らんのよっ!)


 小夜が節操もなく感動している間に、イスヒスは溜息一つ、部屋を出て行った。どうやら主命に従うらしい。

 パタンと、扉が静かに閉まる。それに続く沈黙は居たたまれないものであったが、長くは続かなかった。


「アデル」


「嫌です」


 主人からの呼びかけに、忠実な従者は迷わず即答した。しかしそれはまるで聞こえなかったもののように、イデオフィーアは要求を続けた。


「甘いお菓子が食べたいな。溺れたから疲れちゃった」


「今お召し上がりになっております」


「りんごのパイが食べたいなぁ。とろっとろのあまーいやつ」


「りんごの収穫期に連日お出ししたら、来年まで見たくないとの仰せでした」


「じゃあさっくさくのシュネーバル! お皿に山盛りで」


 小夜が反射的に謝罪する隙間もなく続いた応酬が、イデオフィーアの笑顔で止まる。

 鉄壁の無表情と思われたアデルが小さく息を吐いたのは、その数秒後であった。


「……かしこまりました」


「ゆっくりでいいからねぇ。山盛りだよぉ」


 背もたれに寄りかかって、退室するアデルにひらひらと手を振る。貴人に仕えるというのはどこでも大変らしい。

 しかし。


(好機!)


 イデオフィーアが意図的に全員をこの場から排除したのは明らかだし、その目的が何かは全く推察できないが、とにもかくにも好機である。


「あ、あの! 助けてくれてありがとうございました」


「いえいえ、こちらこそ」


 にこにこと、イデオフィーアが引き続きお菓子を摘まみながら応じる。少しだけ沈黙を挟んだが、イデオフィーアが用件を切り出す様子がなかったため、小夜は焦る気持ちのまますぐに本題に入った。


「それで、やっぱりルキアノス様たちも心配なので、今のうちに帰っていいですか」


「だから、彼らは無事だって」


「それは聞きましたけど……! でも、その……根拠って、何かあるんですか?」


 あまりにも呑気な言い草に、小夜は苛立ちさえ覚えながら言葉を紡ぐ。少しでも安心したくて、それ以上の言葉を求める。しかし返されたものに、安心できる要素は一つもなかった。


「うん。彼らを襲ったのはぼくの兄だから」


「…………はい?」


 兄というと、イデオフィーアの逃走癖に革手錠を提案した人物のことであろうか。つい先程知った情報に、街の外れで見た覆面姿が重なる。だがその先の理解へと至る前に、イデオフィーアが言葉を続けた。


「兄は無用な殺しはしないんだ。ここの一番上トップが命じさえしなければね」


「そ……」


 それは、命じれば殺すということと同義ではないか。そう思ったが、声が出なかった。

 殺せという命令が出ているのかと、聞けばいいのは分かっている。だがもしそれで肯定されてしまったら……。

 小夜は怖くなって、知らず手が震えていた。回らない頭で、どうにか言葉を絞り出す。


「で、でも……私が無事だってことも伝えたいし」


「大丈夫。それもそのうち伝わるから」


「へ? 何で……」


 予想外の回答に、またも言葉に詰まる。神殿と王家とでは対立しているという話だったのに、何故小夜の無事について連絡がいくのだろうか。

 しかし今回の出来事以前の両者の関係性をよく知らない小夜には、推察のしようもない。数少ない知識は乙女ゲームの中の一文で終わるようなもので、しつこいほどに役に立たない。

 小夜は最早、名目も理由付けも関係なく叫んでいた。


「と、とにかく! 私は今すぐここから出たいんです。イデオフィーアさんなら、光の魔法で姿を消すとかで、気付かれずに外に出られますよね? だからっ」


「使えないけど?」


「え」


「兄は得意だけど、ぼくは魔法はからきしなんだ」


「で、でも、宮廷魔法士、ですよね?」


 何故さっきからこんなにも会話が噛み合わないのかと、頭が痛くなる。それでも、必死で言い募る。今の小夜には、彼しか希望がないのだ。

 しかし返されたのは、


「ぼくはここから出たことなんてないよ」


 残念ながら、全く望んでいない答えであった。



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