ハーレムでも始まる
イリニスティスは、その日何度目かの溜め息をどうにか喉奥に押し返した。
「殿下は誰よりも神と精霊に愛されています」
目の前のソファーに座ってそう言うのは、ここ数日で早くも見飽きた顔である。
白地に赤と青の差し色が目を惹く神服の上に乗っているのは、細面ののっぺりした顔である。目は常に笑っているかのように細く、白髪混じりの眉尻も下がっている。目元にも頬にも笑い皺があって、大抵の人間はこの男を人当たりの良い円満な神職者だと思うだろう。
だがイリニスティスが挨拶に出た瞬間頬を緩めたのを、イリニスティスは見逃さなかった。
(与し易し、ね)
明るい栗色の髪と青灰色の瞳というぼんやりとした色合いのせいで、イリニスティスはいつも気が弱く頼りない人間に見られがちだ。それが嫌で、偏屈な人嫌いという噂をあえて否定しないできた。
だからこそ、本人を目にした時の反応に相手の本心が透けて見えると、イリニスティスは思っていた。
「いえいえ。もし愛されているならば、このような有り様にはなりませんよ」
なんて空虚な会話だろうと思いながら、絶対に返しに困る言葉を返す。案の定、男は僅かに詰まり、それを誤魔化すように笑みを深めた。
「神は……人が見るようにはご覧にならなりません。人は上辺を見るが、神は心をご覧になります」
「それなら、今まで神様に見向きもされなかった理由も分かるというものですね」
「そんな、そんな……」
男が面倒臭いと言わんばかりの皺を眉間に刻む。その様は、執事であり護衛でもあるセルジオを遠ざけられ腹に据えかねていたイリニスティスにとって、少しだけだが溜飲を下げさせた。
それでも、使命を背負ってこの離宮までやってきたらしい男は、しつこく食い下がる。
「神は常に殿下のお望みをご存じです」
「でもあなたは、僕の望みを分かってはいないようですね」
「そんなことはありません」
呆れを隠しもしないイリニスティスの声を言下に否定して、男は笑う。
「王太子に――王に相応しいのは、殿下の他にありません。もし王太子の位が空いたら……神殿は殿下を推薦しますよ」
毎日毎日、この言葉で会話が終わる。
誰がいつそんなことを望んだと言ったと、反駁するのさえ億劫だ。
傍迷惑な好意に見せかけた醜い我欲。
いい加減、胸焼けしそうだ。
(義兄上。だから、早くしてくれと言ったのに)
◆
小夜の思考は、停止していた。
イスヒスが抜け目なく少年と小夜の腕を取って聖泉から離れる時も、途中で待ち構えていた誰かと合流する時も、ぽけーっとしていた。
「本日もお疲れ様です、イスヒス殿」
「あぁ、今日も本当に疲れた」
「あんなに走って追いかけなくても、居場所はいつも決まっているでしょうに」
「死ぬことはないのですから、慌てる必要はないでしょうに」
「双子は黙ってろ」
やんややんやと、幾つもの声が頭の上を飛び交う。しかし今ばかりは、小夜の無節操な声優感知センサーも鈍っていた。
(聖泉の乙女って……何で? あ、もしかして庇ってくれたとか?)
イデオフィーアであれば、小夜はどのような存在であるかは十分承知していたはずである。だがだからこそ、何者かも分からない相手に素性を晒すのは、現状では危険極まりない。小夜が聖なる存在だと言えば危害を加えられる可能性は格段に下がるという考えは、理に適っていると言えた。
「……で、その見知らぬ女性は何なんですか?」
視線と声とが一斉に注がれて、小夜はさすがにぽけーっの世界から引き戻された。
やっと焦点の結んだ視界で前を向く。少年とイスヒスの他に、三人の男が小夜の前に立ちはだかっていた。
一人は灰色の髪に鳶色の瞳をした二十代前半の青年、もう二人は褐色の肌に黒髪黒眼の十代半ばというお揃いで、その少し垂れた目尻がどう見ても双子だろうと主張している。
(な、何だろ……ハーレムでも始まるのかな)
そんなわけはないと分かっているのに、状況が分からない恐怖心を誤魔化すためか、脳が勝手に思考している気がする。
その横で、少年があっけらかんとこう言った。
「そこで見付けたんだ。ぼくの聖女だよ」
「捨て猫か」
疲れ気味の声で、イスヒスが言下に突っ込んだ。激しく同意する。そして同時に小夜は確信した。
(イスヒスさんは突っ込み担当だな)
しかしそんな余裕は次の声で吹き飛んだ。
「なんだ。またイディオ様の我が儘ですか」
「んが!」
嘆息と共に灰髪の青年の口から吐き出されたのは、今年に入って様々なタイプの主人公を途切れることなくこなしてきた声優さんのそれであった。高めながら微かに掠れたような声に、時に元気、時に色気が宿る耳に嬉しい声である。
しかし小夜が叫ぶ暇はなかった。
「相変わらず、何もない森の中からよくそんなものを拾ってこれますね」
「んほ!」
続けて口を開いたのは褐色肌の少年である。イデオフィーアよりも年上に見えるが、その声は最近男女関係なく幅広い役をこなす女性声優さんと瓜二つであった。淡々とした中に蔑む雰囲気が実に良い。
更に続けて、隣に立つ同じ顔をした少年が同調する。
「相変わらず、詰まらないものを面倒臭くするのがお上手ですね」
「んば!」
これまた先程の少年と声質が似ているが少し高めである。同じく女性声優さんの一人で、こちらは少し声質が柔らかい。
そして極めつけのこの声である。
「うん。ありがと」
「極楽かここは!」
結局叫んでいた。
◆
四方からの口撃により興奮が頂点に達した小夜は、結局自分の不審者ぶりを弁明する余力もないままに森から連れ出された。
(情けない……恥ずかしい……ダメ人間……)
五人の男性たちに前後左右を固められて歩きながら、小夜は自分の無能ぶりに嫌気が差していた。
本当なら森のどこかにいるルキアノスのもとに一刻も早く戻りたいのに、イスヒスに掴まれた手首を全く振り払えないままここまで来てしまった。不用意に第二王子の名前を出すべきでないことは分かるので、余計に身動きが取れない。
もしこのまま不審者として捕まるか、神殿に連れていかれたら、小夜は一体どうすればいいのだろうか。
(何も知りませんって言ってたら、そのうち解放されるかな)
実際、小夜は貴人でもなければ重要人物でもない。機密に詳しいわけでもないし、危険人物でもない。尋問に素直に答えれば、一両日中に解放される自信があった。
だがそれでも、すぐにというわけにはいかないだろう。その間、ルキアノスやフィオナたちの消息を知る術は絶たれる。
(お願い、無事でいて……)
祈ることしか出来ない不甲斐なさに、涙が滲む。無意識のうちに握り合わせていた両手が震えるのは、寒さばかりではないだろう。
「心配?」
「えっ」
突然小声でそう聞かれ、小夜は一瞬何のことか分からなかった。だがすぐに、イデオフィーアなら何でも知っていると、根拠もない確信が湧き上がった。
「あ、あのっ」
「大丈夫。無事だから」
何がとも誰がとも言わず、イデオフィーアは断言する。小夜は、言い様のない不安と安堵を同時に味わうという奇妙な感覚を体験した。
(大丈夫……本当に?)
心の中で自問する。だが今ここで答えを求めて安全かどうかさえ、小夜には分からない。
結局次の言葉を捻り出すことが出来ないまま、何かが現れた。
「……これ、何ですか。門?」
目の前に現れた石造りのトンネルに似た造形物に、小夜は思わず声を上擦らせていた。
いつの間にか森の密度が下がり、陽光が明るくなってきたと思って顔を上げたところ、道の先に半円の輪が幾つか連なったものがあった。輪は徐々にその半径を小さくしていき、最後に大きな建物の前で途切れている。
「さぁ、何だろうね?」
答えてくれたのはイデオフィーアであった。その笑顔がどうでもいいと思っているように感じられたので、小夜もただのオブジェだと思うことにした。
大分西に傾き始めた日差しが縞模様を作る道を、無言で進む。森はいつの間にか終わり、隙間に見える景色はどこか人の手が入った庭園のような、人工的な装いを見せていた。
(こんな広大な庭を持つ、大きな建物って……)
最早嫌な予感しかないと思うと、進む足も鈍る。しかし止まることは出来ない。
「本当に、その女を連れて行くのですか?」
小夜をいまだに怪訝な目で見ているのは、灰色の髪に赤みの強い鳶色の瞳をした青年――イデオフィーアの侍従を務めるフィオンである。行き先については、全員周知のことなのか、誰も教えてくれていない。
「ぼくが決めたんだ。問題ないよね?」
「フィオン様は凝りもせずイディオ様に疑義を呈するとは」
「フィオン様は凝りもせず結果の分かりきった抵抗をするとは」
にっこりと強権を発動するイデオフィーアに、褐色肌の双子がお決まりの連携攻撃を繰り出す。
二人はイデオフィーアの従者で、雑用全般の小間使いのような立場だという。冷めた物言いで先行するのがアデル、少しだけ柔らかいのがルフィアだと教えてもらったが、小夜は頭の中で女性声優さんの名前を当てて聞き分けをしていた。
「私は双子と一緒にいるのはもう不愉快なので先に戻ります。神殿長には報告しておきますからね」
「そんなに仕事熱心でなくてもいいと思うけど」
「私は誰よりも熱心でないといけないんですよ」
実に適当な親切心に、フィオンは少しだけ皮肉を込めてそう返す。どういう意味だろうかと考えるが、思いつくはずもない。
「あとは俺が見張っておく。報告したら休んでいいぞ」
「大変助かります。それではお願いします」
小夜とイデオフィーアの手を掴んだまま、イスヒスが請け負う。するとフィオンは一礼して、そのまま背後の建物へと足早に消えていった。
何段階かに区切られて伸びる石段と、両側に等間隔に並んだ灯籠の間を越えて、列柱が三層に連なる美しい建物の中へと。
(こーゆーのが何個もあったり……しないよねぇ)
希望的観測をどうにか捻りだしてみようと思うが、流石に無理があると観念する。
意味深な門の終わりにそびえていたのは、カノーンに入ってすぐに目を奪われた荘厳な建物――ディドーミ大神殿であった。