厄介な存在
背中がヒリヒリした。
それは痛みとかではなくて、感覚的なものだ。
反撃を受けて倒れたらしいシェーファと、応戦するフィオナを残して逃げる罪悪感。何もできないどころか、邪魔なだけの焦燥感。そして本当に襲われているのだという恐怖感が、小夜を背後から追いたてていた。
もし小夜の召喚が罠だというのなら、これこそが狙いだったのではないかと、小夜は思った。
殺すに殺せない、見捨てるに見捨てられない、厄介な存在。
(最悪……最悪だ……! こうなる可能性が絶対ないとは言えないって、分かってたくせに!)
専学校に魔法や剣の授業があるのも、王位にまつわる争いがあるのも、戦争がはるか昔のことでないのも、全部知っていたくせに。
それでも頭のどこかでは、乙女ゲームの世界だからと、高をくくっていた。自分はこの世界の人間ではないから、と。
ザァッ、と突風に木々が揺れた。
小夜は強張った体が反射的に驚いて、ついに転んでしまった。サイズの合わない靴が外れて飛んでいく。
「小夜!」
「だ、大丈夫です、走れますから!」
土のついた小夜を躊躇なく横抱きにしようとするルキアノスを制して立ち上がる。擦りむいた膝も靴擦れが赤く滲む踵もじくじく痛んだけれど、そう言うしかなかった。
もしこんな所で助けてと言ったら……その想像の方が何倍も怖かった。
小夜が立ち上がる切る前に、ルキアノスが再び右手を掴んで走り出す。その力は、痛いほどであった。
既に、境界である腰丈の柵は躊躇なく飛び越えていた。その先は限られた者しか入れないためか、間伐の跡も減り、森の密度が一気に上がった。
森の中も、闇雲に走っているようにしか小夜には思えない。遮蔽物が多いとはいえ、街中では襲撃してこなかった相手である。他の伏兵のことを考えても、無理にでも中心街に戻った方がいいように思えたのだが。
「もうすぐだ、小夜」
「えっ?」
がむしゃらに走っていた小夜の耳に、ルキアノスの息の荒い声が届く。何がと考える余裕も、もうなかった。
「小夜に魔法が効かないなら……!」
走る。ルキアノスの足が益々速度を上げる。小夜の視界に、足元の落ち葉と下草がどんどん流れ飛んでいく。
そして突然、それは止まった。
小夜は慣性力を殺しきれず、両手で地面に倒れ込んだ。ハッと顔を上げれば、ルキアノスは後ろにいた。小夜を守るように。
「ル、ルキアノス様!? 何で止まって」
「そこにいろ。絶対にこっちに来るなよ」
「な……」
何が言いたいのか、小夜には全く分からなかった。追っ手がどこからか来るはずなのに、こんな森のど真ん中で止まってどうしようというのか。
しかし一度踞ってしまえば、意思に反して体は泥の海に沈んだように重かった。膝や踵の痛みもそうだが、半日歩き通した疲労が、既にどうしようもなく小夜の体から自由意思を奪ってゆく。
そうして、数十秒の沈黙の果てに。
「……結界か」
覆面の襲撃者は現れた。
(結界? ルキアノス様が作ったの?)
また、小夜の気付かないうちに詠唱したのだろうか。
(でも、なんか……)
違うような気もするが、痛みと疲労と恐怖で、少しも思考がまとまらない。それに、もう一つ。
「今すぐ引き返せ。そうすれば、全員殺しはしない」
覆面の下から、くぐもった声が続く。布越しではっきりしないが、その覇気のない眠そうな声がどこか聞き覚えがあるような気がしたのだ。
しかし今は、それよりも大事なことがあった。
「殺さないって、じゃあ、シェーファさんは……」
最初に何らかの攻撃を受けたように見えたシェーファが次に動くのを、小夜はその目で見ていなかった。だから余計にずっと怖かったのだ。
けれど攻撃をした本人がそう言うのであれば。
「聞くな、小夜」
ルキアノスが鋭く遮る。それを、襲撃者は鼻で嗤った。
「あなたも、その結界の中に逃げ込めばいい」
「っざけんなよ……!」
唸る、と同時に襲撃者に向かって駆け出していた。ルキアノスの足が触れた地面がボコボコと盛り上がり、ついには追い越して襲撃者へと向かう。
飲み込もうとする地面の隆起に、襲撃者が身軽く背後に飛びすさる――そこ目掛けて、周囲の木々が一斉に倒れかかった。
ぶちぶちザザァッと、根が千切れるような音とけたたましい葉擦れの音が一斉に響き渡る。
地面の隆起は陽動で、その隙に木々の足元に落とし穴をあけておいたのだ。
緑と茶色の葉が無数に舞い上がり、小夜の視界を奪う。そこに、二つの音が来た。
「小夜、伏せろ!」
ヒュッ!
ルキアノスの声と、硬いものが風を切る音。
立てずにいた小夜は、声も出せずに落ち葉の中に顔を突っ込んだ。
「人は通さずとも、物は関係ないと知らないのか?」
「っ小夜、走れ!」
嫌だとは、もう言えなかった。襲撃者から離れるように、更に奥へと進む。裸足になった足裏に小石や折れた枝が刺さっても走り続けた。
敵の言葉の通りなら、小夜に狙いを定められたら、もう終わりだ。
魔法が存在する世界での物理的射程距離など分からないから、走るしかない。
痛みよりも、死ぬかもしれないという眼前の事実が、小夜を前へと進ませた。
そしてそれは、視界に何かが光っても止まらせなかった。
(雪……じゃない?)
聞いた話の通り、進めば進むほど木の根方には雪が残っていた。だがいま日の光を弾いたのは違うようであった。
それが何かと認識できるところまで来て、小夜はついに立ち止まった。
「……水?」
木々の間に見える、青緑色の水面。それが近寄って良いものかどうか、疲れきった小夜の頭では判断できない、と迷いあぐねた時、
「人……?」
すぐ傍らに、人影が見えた。
そう言えば、前の森でもこんなことがあったと思い出す。森の中の水と、人影。
小夜は近くの木の幹に体を隠して、慎重にそれを観察した。
人影は水辺の周囲の、少し高くなった場所から水面を見下ろしている。枝葉の隙間から射し込む陽光が体にかかり、スポットライトのようだなと思う。
そんなに背丈は大きくないようで、子供だろうか、と考えた所で思考は停止した。その人影が両手を差し出したところに光が当たり、くっきりと見えたのだ。細い手首を戒める、手錠のようなものが。
しかもその体が、手錠の重みに負けるかのように前に――水面に向かって傾いた。
「うそ……!」
走り出していた。こんな時に、こんな所で、あんな子供が入水自殺かよと、いつもなら出るズレた感想も何もない。
小夜の今の全力疾走は、はっきり言って亀の歩みであった。それでも走って、叫んだ。
「待って! 待って待って! 早まっちゃダメだって!」
子供のいる高台を駆け上がり、今にも落ちそうになるその服の裾を掴む。間に合った、と思ったのは一瞬。踏ん張った両の足裏に激痛が走った。
「ぃ痛いっ!?」
思わず叫ぶ。その呼気で、体の力が一気に抜けた。手以外の。
足から地面の感触が消え、体が傾き、景色が横に流れ、風が髪を煽った。そして最後に、水面を写し取ったような緑色の双眸を見つけて――消えた。
バッシャーン、と盛大な水音が上がる。次にはボゴボゴと水泡が暴れ狂う音。そして刺すような冷たさ。
結局一緒に水に落ちたのだと、遅れてどうにか理解する。だがその瞬間にはもう意識を手放しそうだった。
(こんなお約束は要らないっての……!)
どうにかひねくれたことを考えて手足を動かす。あの子供が自殺なのかそうでないのかはともかく、あの手ではまともに泳げるとも思えない。
見付けて、引き上げなければ。
(どこ……!?)
凍みるような冷たさの中、どうにか瞼を押し上げる。意外にも、水質は良好だった。それなりに視界が効く。
そして、光っていた。
(な、何で……?)
最早次から次へと理解不能なことが連続して、小夜の頭は破裂寸前であった。これで子供を見つけられなかったら、自棄になっていた自信が小夜にはある。
しかし幸いにして、その光の先に探す姿はあった。着衣泳など小学生の時のプールの授業以来していない小夜は、藻掻くのと大差ない動きで泳いだ。
意識があるのかないのか、とにかく子供の体を掴もうと手を伸ばす。
(もう、ちょっと……!)
だが冷たすぎて、指先の感覚がもうない。果たして、掴めたのかどうかも分からないのに、そこで小夜の意識は途切れた。
そして、声を聞いた。
『……殺してやる』
疲れきった、それでも憎悪が滲むような、今にも掠れて消えてしまいそうな、少女の声だった。