実在が証明された
「私の背中にぴったりついてきてください」
「? はぁ」
真剣な顔で言われた忠告に突っ込むべき分からないままシェーファに連れてこられたのは、起伏した地面と倒木とに挟まれてできた、ちょっとした空間だった。
右と後ろには盛り上がった土と背の高い草が覆い、左には嵐で倒されたのがここまで落ちてきたのか、比較的葉の残った木が二本ほど折り重なっている。
(もしかして、隠れてる?)
残された一ヶ所の隙間に向けて歩くシェーファに続きながら、一つの可能性が頭を過る。と思ったら、シェーファは何故か右に曲がり、今度は左に曲がった。
(……なにゆえ?)
と思いつつも、小夜も同じ道を辿る。最終的に、シェーファは正面に見える入り口を避け、倒木をコンコンと二度叩いてから、その隙間に身を滑り込ませた。
小夜もまた同じようにしてその空間に入る。そして見えたものに、小夜は数秒停止し、それから弾かれたように飛び出した。
「ルキアノス様!」
微かな木漏れ日しか射さない狭い暗がりの中に横たわっていたのは、ある意味で予想通りの人物で、そして姿であった。
シェフィリーダ王国の第二王子ルキアノス。前回見たのは彼の十九歳の誕生会で、煌びやかな王城エステス宮殿の大広間で、華やかな夜会服に身を包み、ダンスを踊っていた。
けれど今目の前にいるルキアノスに、そんな優雅さは微塵もない。自分の部屋で見た時と同じ黒い服は所々破れ、赤黒い染みがあちこちに滲んでいる。金糸のような髪にも凛々しい頬にも乾いた血が付着し、鉄錆の匂いが微かに漂う。
「ど、どうしたんですか、こんな……っ」
自分の部屋でしたのと同じように、その傍らに膝をつく。恐る恐る手を伸ばしても、今度は消えてしまうことはなかった。苦しげな息遣いが、狭い空間に押し殺して響く。
これは、現実だ。
そう理解した瞬間、小夜の中にあった思考も疑問も全てが吹き飛んだ。代わりに胸を占めたのは、行方不明になっていたセシリィを意識不明の状態で発見した、あの瞬間の恐怖。
自分がちんたらしていたせいで、失うかもしれない。
(……いや、そんな……私まだ、何も)
「何も答えを……!」
そう、心の叫びが口から飛び出した時、ぴくりとルキアノスの体が身じろいだ。ハッと口を噤み、耳を可能な限り近付ける。すると、不規則な呼気の合間に、弱いながら確かに声が聞こえた。
「……小夜の声が聞こえる」
「ッ! ル、ルキアノス様」
喘ぐように言われ、小夜は慌ててルキアノスの手を取る。だがその瞳が開かれる前に、唸るような低い文句が続いた。
「……おいこらシェーファ、治したんじゃないのか……。どさくさに紛れてオレを殺そうとしたら、クラーラさんに言いつけるぞ……」
「…………、んん?」
掴んだ小夜の手を鬱陶しげに振り払いながら、ルキアノスが呻く。小夜は空になった両手をわきわきしながら、ぐりんと背後を振り返った。
どういうこと? と、入ってきた場所に立ったままのシェーファに、目だけで問いかける。シェーファは、真剣な表情は変えることなく、呆れの混じった溜息を吐いた。
「そこまで口が回っておいて、よくまだ自分が幻聴が聞こえるくらいの瀕死だと思えますね」
「……それって」
つまりどういう状況かと、更なる疑問が舌に上る。だがその前に、第三の声が先を遮った。
「私もちゃんと手伝ったから、もう命の心配はないですよ」
「フィオナさん!」
苦笑気味の柔らかな声に振り返る。
ルキアノスの衝撃的な状態にばかり目が捉われて見えていなかったが、顔を上げればルキアノスのすぐ傍らには一人の女性が立っていた。小夜よりも少し年嵩だが、短く切った濃灰色の髪と美しい柘榴色の瞳が、実年齢よりも若々しく見せている。
シェーファ同様ヒュベル王国の生き残りで、同じく諸事情によりルキアノス付きの近似見習いとなったフィオナである。
「ご無沙汰しています。まさか、こんな所でお会いできるなんて……」
「あの、手伝ったって、命の心配って何ですか? ルキアノス様は大丈夫なんですか?」
困ったように言葉を探すフィオナに応じる余裕もなく、小夜は矢継ぎ早に質問する。
実際、小夜には全く事情が分からなかった。
ここがどこなのかとか、誰が自分を召喚したのかとか、そんなことではない。ルキアノスが血だらけで倒れていて、幻聴が聞こえるくらい瀕死だった時があって、命の心配さえも必要だったという、そのことだ。
小夜が、あまりにも不安そうな顔をしていたのだろう。フィオナはその勢いに一瞬驚いたあと、柔らかく笑みをこぼした。
「えぇ、もう大丈夫です。負傷したのは一時間以上前のことですし、水と風の精霊に願って、ある程度の止血も治癒補助も完了していますから」
「怪我をして……でも、もう大丈夫……」
「はい」
フィオナの説明をゆっくりと繰り返し、飲み込んで、小夜はやっと自分がひどく体を強張らせていたことに気が付いた。
何故怪我をしたのかはやはり分からないし、魔法や精霊の治癒がどれほどの安心材料になるのか小夜には判断がつかなかったが、それでも先程のルキアノスの発言は冗談のようだし(但しまるで面白くはないが)、従者の二人にも焦ったような様子はない。シェーファが終始深刻そうな表情なのは、どうやら基本だと思うことにした。
「よ、良かった……」
小夜はやっと尻をその場に落として、長々とした息を吐き出した。自分の部屋でルキアノスの姿を見た時からずっと抱えていたぼんやりとした恐怖が解決し、疲労がどっと押し寄せる。
そもそも、小夜は元の世界の時間で夜九時まで残業していたのだった。その上でこんな心配事が発生しては、心身ともに疲弊するのは当然と言えた。
「……まだ小夜の声が聞こえる……」
ぷへー、と一気に気の抜けた小夜の膝の先で、ルキアノスが再びもぞもぞと身動ぎする。いまだに目は空けないまま、掠れた血のついた手を適当に這わせ、何やら呟いている。
「あぁ、オレは小夜に会えないまま死ぬのか……シェーファが弱いせいで……」
「…………」
「あ、あの……」
「牢から出してやったんだから、水遊師なら一回くらい小夜の幻くらい見せろ……」
「…………」
「ル、ルキアノス様?」
「お気になさらず。いつものことです」
ぶつぶつと何事か言い続ける主人に対し、やはり表情を変えぬまま黙すシェーファ。二人のやり取りの温度感がいまいち分からず戸惑う小夜に、フィオナは実にどうでも良さそうな顔でそう助言した。
水遊師とはヒュベル王国以北で魔法に代わり人々の間に浸透している不思議の術の一つで、攻撃などに長けた魔法と違い、大道芸などの魅せる娯楽性に特化している技術だ。シェーファは水を操り、フィオナは風を操る風舞師の技を修得している。
それを踏まえてルキアノスの言い分を分析するなら、水を使って幻影でも見せろということらしいが。
(いつものことって何だろ。私の幻影が見たいって、いつも頼んでるってこと?)
小夜が不在の間に一体何をやらせようとしていたのか、少々気になる問題ではある。
だが今は追及する相手が呻いているので、この問題はひとまず横に置いておく。
「あの、小夜です。私、ここにいますけど……」
「…………」
ちょんちょんと、もぞもぞ動いていたルキアノスの手をつつく。
「小夜!」
「ぅわっ」
がばっと、両腕の力だけでルキアノスが顔を上げた。すぐ目の前に、美しい鉄灰色の双眸があった。
見つめ合うこと、数秒。
疲れが滲む目元は、前回よりも更に隈が濃いように思えた。眉間にはそのうち後が残りそうな程深く皺が刻まれ、鋭くなった頬の線は成長なのか過労なのか判別がつかない。肌色も全学校時代よりも日光を浴びていないせいか青白く、素材が整っているだけに妙な凄みさえ醸し始めていた。
最早格好良いを通り越して、過労死寸前の仕事中毒者にしか見えない。
(しかし、かっこええ……)
などと小夜が低俗なことを考えている間に、ルキアノスも思考がまとまったらしい。その場で正座すると、ぽんっと手を打った。
「分かった。水で蜃気楼、風で声を真似たんだな? ついに死にかけのオレの望みを聞く気になったか」
「……何ですかその再現の無駄使い。違いますよ。本物ですよ」
思わず真顔で突っ込んでいた。視力でも低下したんだろうか。
そもそも蜃気楼は気温差で発生する現象だ。水だけでは無理だと思うのだが、水温を変えられるならあながち不可能でもないのかもしれない。
などとつらつら考えていたことが顔に出ていたのか。一拍空けて、ルキアノスがゆっくりと瞠目した。
「っ小夜!」
「ぎゃっ」
弾丸が射出するように抱き付かれた。ぎゅううぎゅううと、一段と逞しくなった両腕が力強く小夜の体に巻き付く。
「あっ、あのちょっ」
「この雰囲気台無しの返し! 乙女らしくない悲鳴! まさしく本物だ!」
「…………」
そして小夜の肩にぐりぐりと顔を押し付けて、そう叫んだ。
どうやら、ついに小夜の実在が証明されたらしい。
釈然としない、と小夜は思った。
存在証明は(以下略)。