ちゃんと待っていろ
ルキアノスの本気の殺意を、クレオンは勿論笑顔で受け流した。
「遅れたことを怒っているのか? まだ今日は終わっていないからいいじゃないか!」
AHAHAHA! とルキアノスの肩をバシバシと叩きながら手に持っていた荷物をどんと渡すと、また呵呵と大笑しながら帰っていった。
「……………………殺す……!」
ルキアノスがぷるぷると震えていた。
さすがの小夜でも、その背に声を掛けることは憚られた。
何より。
(……あっぶな!)
自分の壊れたような心音を抑えるのに必死であった。羞恥心を源泉とした汗がだばだば溢れる。決意した矢先に流されそうになった自分にびっくりである。
(脅威……いや、まさに凶器だった……)
思い出すだに恐ろしい時間であった。ほぼ意識が吹っ飛んでいたと言っても過言ではあるまい。これが惚れた弱味なのかそもそものルキアノスの色気のせいなのかは不明だが、とりあえず二人きりになるのは必死で避けようと決意する小夜である。
それから、一瞬で全てを荒らしていった嵐の男クレオンに、そっと心の中だけで感謝を述べておく。
(無事でありますように)
無意識に両手を合わせていた。
そこに、ルキアノスのおどろおどろしいまでの低声が響く。
「ニコス」
「……はい」
名指しされた侍従長が、開け放たれたままであった扉の向こうからそっと姿を現した。やっぱり控えていたらしい。
「あいつに最北の神殿の内部調査を命じろ。単独で極秘裏に、期限は一週間。成果を必ず持ち帰ろと伝えろ」
「……殿下。恐れながら、あそこまでは早馬で乗り継いでも往復だけで六日かかるかと思われますが」
「一週間だ。そのあとはオン・トレン山脈の主要な山岳民族のここ一年の動向を調査。これも一週間だ。次にコヴェントーの森の治安調査と生育状況の確認、周辺の村への聞き込みもさせろ。これも一週間だ。他にも最西端の神殿の……」
この後もルキアノスの淡々とした下知は続き、ニコスの顔が可哀想になる頃にやっと御意の言葉は上がったのであった。
(本気だなぁ……)
◆
「今度お前を喚ぶときは、婚約式だ。そのつもりで待っていろ」
「…………」
呪詛かな、と小夜は思った。
例によって場所はクィントゥス侯爵邸の地下室である。セシリィと伯母のメラニアが黒いドレスに身を包み、魔法陣の前に控えている。小夜はその陣の中央に歩み出る直前であった。
あくまでも真剣な眼差しでそんなことを言ったルキアノスを、小夜は肩越しに振り返りつつ言葉を探す。
舞踏会の夜以来、なるべく拒否しないの目標は続けているのだが、今ここで「はい」と言ったら大事な順序を全てすっ飛ばしてしまう気はしていた。
ただでさえ小夜とこちらの世界では時間の流れが違う。元の世界に戻って一晩寝ただけで一か月経過するような相手には、迂闊に何の諾意も与えられたものではない。
「……ルキアノス様におかれましては、ご自愛専一、ご健勝にお過ごしくださいませ」
硬い笑みで頭を下げる。熟考した結果、お堅い時候の挨拶の末筆みたいな一言になってしまった。
案の定、カチンとルキアノスの表情が険しくなった。
「何だ、その反応は」
「何と言われても……」
二つの世界の時間の流れが違うことは、簡単ではあるが説明はしていた。そのため、ルキアノスが待てという時間と小夜が実際に待つ時間とは大幅な差が発生することは頭では理解しているのであろうが、実感としては薄いと言わざるを得ない。
つまり、小夜としては覚悟をしようにもどうしたものか、ということなのである。
「少しくらい寂しがったりしないのか?」
「ぐっ……」
伏し目がちにそんなことを言われ、小夜はぐっと歯を食いしばった。突然可愛いことを言うのは反則だと思う。
だがこんな所で舞い上がっていてもしようがない。何せルキアノスの後ろでは、感情を表に出さないメラニアと、呆れきったセシリィが待っているのである。
小夜は冷静に、と自分に言い聞かせて、言葉を探した。
「さ……びしくは、ありますが、致し方ありません。それに、私の方が時間の流れが遅いので」
実際、好きな人に何日も会えないことは、初恋の時に比べれば我慢できないようなことではないと思われた。勿論好きになれば毎日顔を見たいし、声を聞きたいとも思う。だが相手が九歳も下の若者だと、時間を浪費させているような罪悪感が漏れなく付属してくるのは確実であった。
(ルキアノス様にとっての時間が長いことは……あれだけど)
たとえば小夜にとっては一週間でも、ルキアノスには半年という長い時間となる。その間にルキアノスが素敵な女性に出会わないとは限らないし、心変わりもまた然りである。
だがそれについては絶対に口を挟まないと、小夜は最初から決めていた。どんなに苦しくても悲しくても、嫉妬に狂っても、何も言わないと。それが想像力が足りないがゆえの不見識でも強がりでも、後で独りになって痛い程泣く羽目になると分かっていても、だ。
(帰ったら、韓ドラ観ようかな。それもとびきり手酷い悲恋もの)
心に耐性をつけておかねばならない。そう、小夜が妄想を自己完結させていた所に、
「言っておくが、小夜はオレの婚約者だからな」
ルキアノスの少し拗ねたような、不機嫌なような声が滑り込んできた。
勝手にまだ起きてもいない未来を想像して鬱然としていた小夜は、その声にハッと瞠目した。まるで小夜の不安に気付いて念押しされたような気持ちになったのだ。
勿論、この子供っぽい言い方から、そうでないということはすぐに分かるのだが。
(相変わらず、絶妙なんだから)
勘違いだとしても嬉しくて、どうにも口元が緩む。
小夜は知らず滲んていた悲壮感をすっかり消して、穏やかに微笑んだ。
「はい」
これにルキアノスの顔色は一瞬緩み、そして次にはまたもや険しくなった。ずいっと顔を近付けて、的外れな釘を刺してくる。
「……元の場所に帰っても、変な男を近寄らせるなよ」
「は、はぁ」
「余計な男とも会話をするなよ」
「また無茶を……」
真顔で迫らせて、どうにも否定しづらい。割と本気で心配しているように見えるのは、小夜の自意識過剰であろうか。
(私、モテないんだけど……)
自慢ではないが、告白されたことは一度もない。はっきり言ってルキアノスの心配は杞憂悲観無用の頓着と言わざるを得ない。
が、それを正面切って説明するのもまた自虐が過ぎるので、賢明にも黙っておいた。無駄に傷付きたくはない。
などと思っていると、更に視界一杯にルキアノスの美貌が広がった。
「わっ」
「いいか、小夜。次に会う時には、オレはもっと大人になっているからな」
「ッ……」
そういうことを言うところが子供だと思うのだが、その言葉と眼差しに体温は否応なく急上昇してしまう。思わず後退った小夜を、ルキアノスがすかさず引き留める。
「ちゃんと待っていろよ」
「ちょっ……!」
そして当然のように近付いてきた唇を、小夜は慌てて両手で押し留めた。
「だからっ、今は他にも人が!」
背後のセシリィとメラニアの存在が目に入っていないのかと訴える。しかしルキアノスはまるで気にした風もなくにやりと笑った。そして。
「いい加減、お前の反応も分かってきたな」
「は? ――あっ」
両手にかかっていた力が消えた、と思った次には、額に柔く湿った熱が押し付けられた。
チュッと高らかな音が鳴り、やっとルキアノスの顔が離れる。そして満足げな笑顔を見せられれば、もう限界は簡単に突き破っていた。
「なっ、んなっ……な……!」
わなわなと震える指でルキアノスを指さす。文句が溢れて仕方がないのに、言葉は少しも声にはならなかった。
「……ところで、わたくしたちはこれを一体いつまで見せつけられれば良いのかしら」
「……セシリィ。耐えるのです」
「…………ッ!」
居たたまれなかった。
セシリィとメラニアに何度も平身低頭して魔法陣の真ん中に進み出たことは言うまでもない。
そうして、かなりぐだぐだになりながら、小夜の三度目の異世界滞在は終わりを告げたのであった。
これにて、第三章も終了となります。
ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
本当に特に何にも起きませんでしたが……。
改めて、ラブもコメも難しいなと痛感しましたが……、これからも精進して参ります。