新しい従者
思わぬ人物の登場に、小夜は嬉しくなって駆け寄った。
「いらしてたんですね、クラーラ様!」
「ご無沙汰しております、小夜様」
車椅子の足元に膝を付いて目線を合わせた小夜に、クラーラが穏やかに微笑みを返す。
今日も今日とて、クラーラは三十代半ばとは思えない程可愛らしかった。絹糸のような白髪に、くるると大きな柘榴色の瞳、小さな唇には艶やかな紅がひかれ、今日は頬にも薄く朱が刷かれている。
「いえいえ、こちらこそ何のご連絡も出来ず申し訳ありませんでした。お変わりありませんか?」
「おかげさまで、家族とも皆壮健にしていますわ」
「それは何よりです」
特段緊張したところのないクラーラの声に、小夜は改めて安心した。
アンドレウ男爵の妻として生きるクラーラのその出生は、実はシェフィリーダ王国に攻め入られ滅んだヒュベル王国の最後の王女の一人である。燃え盛る王城から逃げる最中妹や従者とはぐれた所を、若きアンドレウ男爵に助けられたのが縁だという。
このことは夫婦二人の秘密であったが、先回セシリィが行方不明になった事件をきっかけにルキアノスたちも知ることとなった。小夜はその後すぐに自分の世界に帰ることになってしまったため、その後クラーラたちに何かしらの混乱や迷惑が起きていないか、実は少しだけ心配していたのだ。
「今日はどうされたんですか? ルキアノス様にご用事が?」
「えぇ。殿下のお誕生会に特別にお呼び頂いたんです」
「特別に?」
「男爵の位では、王族主催の会に招待されることはまずありませんからね」
小夜の疑問に答えたのは、落ち着いていながらもそこはかとなく不機嫌を滲ませた男の声であった。おや、と振り返る。
「あれ、男爵様もいらしてたんですか?」
「僕の妻からいい加減離れてもらえますかな?」
いつの間にか背後で仁王立ちするイオエル・アンドレウ男爵が、こめかみをひくひくしてそう言った。
どうやら、先回の帰り際にクラーラを泣かせてしまったことをいまだに根に持っているらしい。どう見ても小夜への視線が好意的でない。
小夜は苦笑を押し殺して立ち上がると、改めてお辞儀した。
「その節はお世話になりました」
「ん、んん。こちらこそ」
思いのほか抵抗もなく挨拶を返した小夜に、イオエルが僅かに気まずげな顔で頷く。車椅子から笑顔で気迫を放っているクラーラが原因であることは言うまでもない。
そんな三人の様子を一通り観察したあと、やっとルキアノスは部屋に入ってきた。
「大変お待たせしてしまって申し訳ありません」
「いいえ。イリニスティス殿下とゆっくりお話が出来て、大変有意義な時間をいただきました」
小夜を牽制したいが面と向かっては出来ないイオエルに代わって、クラーラが応える。
二十年前の戦争で同時期に足を負傷したクラーラとイリニスティスは、敵対関係にありながら共通点も多い。どんな会話をしたかは興味があったが、好奇心で聞いてよいものでもない。小夜はクラーラの笑みに翳りのないことをよく確認してから、ルキアノスの隣に戻った。
見れば入室したのはルキアノスの他にはセシリィだけで、扉は既に閉められていた。他の面々は前室で待機ということのようだ。
「本日ご無理を言って待っていただいたのは、他でもありません。随分遅くなってしまいましたが、先日いただいた菓子のお礼をさせて頂こうと思って」
「菓子というと、まさか冬のあれですか? クラーラがお出しした手作りの」
「まぁ、そんな……いけませんわ。お礼をいただくようなものではありませんでした」
ルキアノスの言葉に、クラーラが戸惑うように大きな瞳を瞬かせる。イオエルの言う通り、小夜が無理を言って手土産にと持ち帰ったのは、クラーラが手作りしたシュトルーデルが二切れだけだ。亡き祖国の復讐のため、王族暗殺未遂などの事件を起こしかけ投獄された、実妹と従者のために。
ルキアノスが礼と言うからにはあの二切れは確かに届けられたのだろうが、わざわざ自分の誕生日という忙しい日を選ぶ必要はないように思える。
それに応えるように、ルキアノスは少しだけ申し訳ないような顔を作った。
「実は、完全に渡せるようなものではないのが心苦しいのですが」
「渡せない……?」
頓智問答のような言い方に、クラーラが首を傾げる。そこに、叩扉の音が上がった。セシリィが一つ頷いて扉に向かう。
「生きて帰ると、約束しました。まだそのためには幾つものことを片付けないといけませんが……」
ルキアノスが続ける言葉の間にも扉は開かれ、セシリィの後ろから二人の男女が現れた。
それを視界の端に捉えたクラーラの柘榴色の瞳が、みるみる大きく見開かれる。
「まさか……そんな……」
「私の新しい従者をご紹介するくらいなら、そう言えば問題はなかったなと思いまして」
果たして、新しい主の前を素通りしクラーラの前で跪いたのは。
「ラウラ……イエルク……!」
三十歳前後の女性と、ともすれば四十歳にも見える男性であった。
濃灰色の短髪の左耳から流れる一房だけを伸ばした髪型に、鋭い光を放つ石榴色の瞳を持つのが、ヒュベル王国最後の王女の一人にしてクラーラの妹であるラウラ。そして白髪のために実年齢よりも随分老けて見える損な男が、かつて二人の王女の護衛として燃え盛る王城を脱したイエルクである。
二人は片膝をついて面を伏せたまま、すぐには声を発しなかった。遠目にも、二人の肩が震えていることが分かる。
やっとのことで口を開いたのは、最初から決めていたのか、ラウラの方であった。
「……この度は、アンドレウ男爵夫人にお目通り叶いましたこと――」
礼儀に則った型通りの口上はしかし、半分も言えずに途切れた。ガタンッと、すぐ目の前で音がしたからだ。
ラウラとイエルクが凄まじい反射速度で車椅子へと手を伸ばす。身を乗り出しすぎて車椅子から転がり落ちたクラーラに二人の手が届く――それよりも早く、クラーラの両手が二人をまとめて腕の中に閉じ込めた。
「生きてた……!」
「「…………ッ」」
驚く二人の間に顔を埋めて、クラーラが掠れた声を絞り出す。
「本当に、二人とも生きて……夢じゃない……生きてる……!」
それは先程までの社交的な言葉遣いとはまるで違う、断片的で文章にすらなっていない言葉の羅列にすぎなかったが、クラーラの心情をよく表していた。
二人の首を掻き抱く手に更に力を込め、いやいやをするように首を小さく振る。
「無事で良かった……! ずっと……ずっと、二人が無事に逃げ延びられたどうか、それだけが気がかりで……!」
「……姉様……クラーラ姉様……! 会いたかった……!」
クラーラの腕に縋るようにして先にそう言ったのは、止まらない涙で顔をぐしゃぐしゃにしたラウラであった。
「ずっと、ずっと謝りたかった……! 姉様を見捨てて逃げたこと……私、何にも分かってなかった! 私、ずっと……!」
「違うのです! 私が、私が嫌がるラウラ様を無理矢理に引きずって……!」
言い募る二人の言葉は、大きくなる嗚咽にすぐに掻き消された。あくまでもルキアノスのいち従者として接しようとしていた二人の声は跡形もなく消え、あとには三人の幼馴染みが残るだけ。
「ばか……ばか……! 二人とも……!」
二人の肩の中で、くぐもった声が妹と友を責める。
「わたくしが命じたの。忘れるわけがないわ。わたくしが行けと言ったの。国のため……身勝手な王女の私怨のために」
「ちが――!」
「二人は忠実に使命を果たしてくれた。それだけ、それだけよ」
咄嗟に反論したイエルクの声を封じるように、クラーラが断固とした声で言う。
怨みを晴らしてと、かつて悲鳴のように叫んだ言霊が、二十年の時を経てやっと大気に還り、天に昇る。
「……お会いしたかった」
涙声が空気を震わせる。
「ご無事でこの街にいらっしゃると聞いてから、ずっと……」




