青少年保護育成条例
「え? え?」
突然立ち上がったルキアノスに二の腕を持ち上げられ、小夜も必然的に腰を浮かす。だが何故そうされたのかはさっぱり分からなかった。
「え、なに? 踊るの?」
足をもつれさせながら、壇上を降りるルキアノスに続く。ダンス曲は確かに三つくらい覚えたが、今演奏されている曲が該当するのかどうか、小夜には自信がない。
しかし返事がない。
「あ、えっと、もしかしてまた怒らせましたか? ごめんなさい、他意はないんです……」
他に思い当たることといえば、それくらいしかない。歩きながら頭を下げると、その頭頂部がどすっと何かにぶつかった。慌てて顔を上げる中、足を止めたルキアノスが脇に顔を向けていた。
「ニコス。バルコニーに出る。誰も近寄らせるな」
「御意」
主への戸惑いを一瞬で収めて、ニコスが完璧な姿勢で低頭する。するとエレニとアンナが心得たように窓までの間に立ち、余人を排するように道を作った。動き出した招待客たちはそれですぐに諦め、ルキアノスと小夜は誰にも邪魔されることなく窓へと辿り着いた。
だが窓の敷居を跨いだつもりが爪先を引っ掛けて、小夜は呆気なく前に転びかけた。
「わっ」
「っと」
ルキアノスが平然と受け止める。人々の熱気が消えた夜風の中では、ルキアノスの体温が酷く温かくて心地よくて、一瞬このままでいたいと瞼が下りた。
「っご、ごめんなさい!」
ハッと正気付いて慌てて体を起こす。だが腕は掴まれたままで、大して離れられなかった。逃げるように周囲を見回す。
バルコニーは薄暗かった。大広間の半分ほどの規模のようだが、大広間から零れる光以外には中天にかかる月の明かりだけで、会場の光量に慣れていた目には随分心許ない。一人用の椅子が幾つか置かれているのが見えるが、人はまばらにしか座っていないようだ。
「……ふらつくか?」
「え?」
脈絡のない問いに、小夜は視線をルキアノスに戻した。整った白貌は薄闇に沈み、月花を反射した鉄灰色の双眸だけがきらきらと小夜を見下ろしている。幻想的で美しい。
小夜は単純に見惚れていた。
だがその沈黙を、ルキアノスは別の意味に取ったようだ。珍しく眉尻を下げ、窺うように顔を近付ける。
「少し酔わせた方が素直になるのかと思ったんだ。すまなかった」
「…………はい?」
突然の告白に、小夜は理解が追いつかなかった。
何故謝られたのか。酔わせるとは何のことか。
ここまでくればこの思考力の低下の原因が何だったか薄々理解してきたが、次に告げられた内容は小夜の言葉を奪うには十分だった。
「実はお前が飲んでたのは果実酒だ。甘い分、酒の味が紛れるからバレないと思って」
「…………な、ん」
「今回喚んだ時、オレに抱きついてきた時に酒の匂いがしたから」
「……は? 抱き……?」
「酒を飲めば心の壁が低くなるのかと思ったんだ」
そう締めくくるルキアノスの表情はさすがに罪悪感を感じているようで、月光だけでも困っているのが見て取れた。小夜がここまでぱかぱかグラスを空けるとは思わなかったのだろう。
しかし小夜はそれどころではなかった。
「……………………。酒!」
たっぷり自分に失望したあと、そう叫んだ。
「もうこれだからお酒はダメだよぉっ。口は軽くなるし行動は制御できないし本能は駄々洩れになるし! 抱きついたって、抱きついたって何したの私! なんか薄っすら覚えてるのが余計に恥ずか死ぬ!」
言われた瞬間、喚ばれた夜の出来事が弾丸のように脳裏に蘇った。
(そうだ、ルキアノス様が落ちてるなーと思って、それでなんか……なんか……)
拾って帰ろうなどと言った気がする。ラッキーと思って、ぎゅっと抱きついて、遠慮なく頬擦りした気もする。そのあと、すぐ近くにルキアノスの形の良い唇があったものだから、確か……。
「え、ぇえ? キスした……? 私もしかしてキスしたぁ!?」
間欠泉が吹き出しそうな勢いで全身が熱くなった。直後には永久凍土に落ちたかのように褪める。掴まれていない左手を頬に当て、恐る恐るルキアノスの目を見る。
果たして、あの時と同じ艶やかな唇が僅かに持ち上がり、
「…………あぁ」
と言った。
絶叫した。
「ぎゃーっすみませんすみませんすみません! いたいけな少年の唇を勝手に奪ってすみません!!」
衝動的に逃げ出していた。しかし右腕は掴まれたままで、距離は少しも広がらない。ドレスに足がもたつき、ヒールは滑るばかり。揺らいだ腰は、いとも簡単にルキアノスの右腕に捉えられてしまった。
「ッ」
背中越しに、ルキアノスの細身ながら逞しい胸が当たる。体がどんどん熱くなる。酒のせいであろうか。
「あ、あの、ルキアノス様、放し……っ」
「何故逃げる?」
「ひぇっ!?」
耳元で蕩けるような囁き声が上がり、小夜はびくぅっと伸び上がった。咄嗟に耳を押さえて振り返るが、それは下策であった。ルキアノスの横顔がすぐ鼻先で小夜を捉えている。
ルキアノスはなおも背後から覆いかぶさるようにして、小夜の動きを封じていた。露わになっている小夜の首筋に、わざと熱い吐息を吹きかける。
「ちょっ、近すぎ……っ」
「おかしいな。あの時のお前は『もっと』とねだったぞ?」
「ねだっ……!?」
「続きをしようとしたのに、気持ち悪いと言って寝てしまうから」
「お……っ」
覚えている。そう言ったかどうかはともかく、吐き気が酷くなって、視界が暗くなったような気はする。そして多分、寝た。
腹に回された腕に力を込めて、ルキアノスが続ける。
「オレが部屋に運んだのも覚えてないのか? しばらく添い寝してやったんだぞ?」
「添い……!?」
「その時、お前はこうも言っていた。オレのことが……好きだとも」
「…………ッ!」
暗転。
衝撃的な発言に、言葉を失い視界も暗くなった。自分の自制心の弱さにびっくりする。ちょっと飲酒したくらいで、ずっと隠すと決めた心をそんなにも簡単にぶちまけてしまうなんて。
小夜はもう足掻く気力も失せて、ルキアノスの腕の中で呆然と立ち尽くした。
「……のバカ私のバカ私のバカ私のバカ」
口の中でぶつぶつと繰り返す。酒のせいか理性の箍は緩みきり、思考は吹き零れた泡のように垂れ流された。
「さ、小夜……?」
戸惑うようなルキアノスの声が上がる。やりすぎたか、という声が聞こえたような気もしたが、一度喋り出せばもう止まらなかった。
「何でなんでも思ったこと口に出しちゃうの節操ないにも程があるでしょ相手はまだ成人前だよ青少年保護育成条例を知らんのかこのバカこのバカこのバカぁぁ……!」
私のバカぁ、とまた繰り返す。何度言っても足りなかった。
もう言われたことの半分も記憶になかったが、自分が泥酔したのをいいことにルキアノスを押し倒したのかと思えば、最早ついにやってしまったとしか思えなかった。
「もうなんとお詫びしていいか全然見当もつきませんん……っ」
半泣きで平伏する勢いで頭を下げた。しかし腰をホールドされたままなのでそれすらも出来ない。
基本自分は笑い上戸だと思っていたのに、こんなことでキス魔で泣き上戸だと知る羽目になろうとは。
(最悪……!)
喋れば喋る程思考はとっ散らかり間抜け丸出しだっが、小夜はどこまでも深刻であった。
だが。
「……ふ、ははっ」
「……?」
次に聞こえてきたのは、堪えきれないような笑声であった。ぴたりとくっついた背中から、ルキアノスの体の細かな震えが直に伝わってくる。
小夜は項垂れきっていた首をどうにか持ち上げて、そろりそろりと背後を振り返った。
「ルキアノス様……?」
そして返されたのは。
「否定しないんだな?」
「……え?」
含み笑いのようなそんな一言であった。緩み切った上に擦り切れる程使った小夜の頭では、その意味が全く理解に至らない。
(『否定しない』? 否定するようなこと、何かあったっけ……?)
停止寸前の頭をどうにか動かして、今し方のルキアノスとの会話を振り返る。
そして一つの可能性に思い至り、蒼褪めた。
「ま、まさか、今どれか嘘を……!」
「ほとんど嘘だ」
「…………!」
まさかの回答であった。動揺が止まらない。
「ほと、ほとんどって、ど、どれですかっ?」
「……寝こけたお前を寝室まで運んだこと以外、かな」
「…………!!」
小夜は言葉もなく手で顔を覆った。酒のせいだけでなく赤面が止まらない。
まんまと騙されたとか、自分の勘違いをいいように利用してとか、もうそんなレベルではなく恥ずかしかった。
何よりも小夜の心にダメージを与えたのは、ルキアノスが言ったことのほとんどを自分がやらかしていそうだと思ったことである。
だから、やっとのことで絞り出した言葉と言えば、
「その節はお世話になりました……!」
まずはそれであった。