醜いエゴ
「飲むか?」
国王と王太子という、現在の最高権力者と未来の最高権力者が消えたせいで復活した挨拶がやっと途切れた頃、ルキアノスが給士からグラスを二つ受け取って差し出してくれた。
「ありが……」
と言いかけて、小夜は出そうとした手をハッと止めた。グラスを満たしていたのは美しい黄金色の液体で、小夜はそれを見た瞬間、いつかの梅酒を思い出してしまった。
(もうあの失態はしてはならぬ……!)
喚ばれた時の泥酔と吐き気は散々だった。世界なんか異なってないと、あの二日酔いの朝には本気で思った。
「あの、お酒は結構です」
「酒? あぁ、これは果実水だ」
そう言われては、断る理由もない。正直、国王との一件と慣れない寸劇のせいで、喉がカラカラに乾いていた。
「いただきます」
言って、グラスを受け取る。口をつけると、甘い林檎のような味であった。やっと人心地つく。
大広間に視線を向ければ、幾人かは退場の挨拶をしていったこともあり、少しばかり人の数は減ったようだ。壁際の椅子に座ってくつろいだり、食事に手をつけている者も多い。
興味深いのは、ルキアノスに紹介されていた少女の幾人かが、別の男性と談笑していることであった。勿論詰まらなそうにしている者もいて、この場が単純にルキアノスの誕生日を祝うだけでなく、れっきとした社交の場であることを教えていた。
と考えて、そう言えば肝心な一言を伝えていないと思い出す。
「ルキアノス様。改めて、お誕生日おめでとうございます」
「は?」
あまりに脈絡のない祝辞に、ルキアノスが眉をひそめる。だがすぐに「あぁ」と続けた。当日にとっておく、と発言したことを、ちゃんと覚えていたようだ。
「ありがとう」
「いえいえ」
グラスを空にすると、そばにいたエレニがすかさず新しいものと交換してくれた。小夜はそれもぐいっと飲み干す。
だがさすがに甘くて、日本茶が欲しいと思いながら、小夜は言葉を続けた。
「でも、十七歳の時に出会ったのに、もう十九歳とか、まだちょっと信じられません」
小夜の感覚ではたったの二週間しか経っていない。乙女ゲームアプリの中でも勿論、少年らしい可愛らしさを残したままの顔と声だ。この一ヶ月で大分慣れたとはいえ、もう大学生? いや社会人? などと考え出すと、やはりどうにも落ち着かない。
「十九歳の抱負は、もう決めましたか?」
「抱負?」
「目標とかです。こちらでは決めませんか? 日本……こちらでは、結構決める人多いみたいですけど」
と言いつつも、小夜は抱負などは考えないタイプであった。夏休みの予定も試験前の学習計画もまともにしたことがない。しても実行できないと分かっているからというのもあるが、どう計画を考えればいいかも曖昧であった。
人に優しくするとか、一日一善とか、本を毎日読むとか、新しい技術を覚えるとか、友達を増やすとか。思いつくことはあるが、それを一年間覚えて、頑張って実行できるかとなると、まるで自信がない。
だから余計、抱負を述べる人を見ると聞いてみたくなる。去年の抱負はどうだったのか、と。
だがルキアノスの回答はそういったものとは一線を画していた。
「年ごとに抱負を変えるのか?」
もっともな疑問に、小夜は一瞬それもそうだと言葉に詰まってしまった。人に優しくすることは死ぬまですればいいことだし、新しい技術も一つに限らず学び続ければいい。自分の中に確固たるもの一つあれば、誕生日ごとに考える必要などないのかもしれない。
(そして自分にはないと気付くこの虚しさよ……)
三十路も間近だというのに、人生の目標が見つかっているかと言えば、小夜にそんなものはない。結婚したいとも思うが、ずっとこのままがいいとも思う。
小夜は更にもう一杯グラスを空けながら、情けない声で返答を絞り出す。
「変えるというか……具体的な目標というか?」
「オレの目的は子供の頃から変わらない。国王となる兄を補佐し、ともに国を支えることだ」
「それは……」
そうですよね、と言おうとして、小夜は言葉を飲み込んだ。それが幸せかどうか、小夜には判断する術がなかったからだ。もしそれがルキアノスにとって少しでも苦悩があれが、とても安易に肯定は出来ない。
(ないわけ、ないよね)
まだ二十歳にもならない青年が、一つのことに捉われ、それ以外に道はないという。そしてそれは、簡単に投げ出してしまえることでもない。
だから、せめて、と言葉が零れた。
「ルキアノス様の中に、誇りと喜びがあるなら幸いです」
「…………」
しかし、ルキアノスからの反応はなかった。何秒かの沈黙が続き、小夜は自分の失言を悟らざるをえなかった。
二人は壇上の席にいるとはいえ、国内の有力貴族が集まった社交場で「そんなものはない」などと言えるわけがない。それにそんな言い方では、皮肉と取られても仕方ない。
「あの、ごめんなさい。特に深い意味はないんです」
手元の新しいグラスを見つめながら、弱気な言い訳を付け足す。なんだか、視界がぼやけて、頭が回らない。
(っていうか、これ、本当にジュース?)
美味しいリンゴジュース。そう思っていたが、どうにも舌の滑りが軽い気がする。初めての舞踏会と人の多さに疲れ、思考力が落ちているせいであろうか。
とにかく何か話題を、と小夜が視線を彷徨わせる。だが何かを見つける前に、ルキアノスが独り言のような声を漏らした。
「小夜は、いつも誰かのために行動するんだな」
「……はい?」
突然の話題転換に、小夜はつい間の抜けた声を上げていた。隣のルキアノスを見て、今しがた呟かれた言葉の意味を精査する。
(私が、いつも誰かのために?)
したっけ、というのが本音であった。今回のダンス習得は確かにルキアノスとセシリィに言われた(脅されたとは言うまい)からだが、純粋に二人のためかと言われれば、邪まな気持ちがないとも言い切れない。そして他にはとんと心当たりがなかった。
「してませんけど……?」
「無自覚なのか? 先程、セシリィを庇っただろ」
「庇ってませんよ。セシリィが可愛いのは事実です」
「…………」
小首を傾げるとそんなことを言われたので、小夜はとりあえず拳を握って力説した。返る沈黙がそうではないと言っているような気もしたが、ルキアノスは無難に別の例を挙げた。
「それに、兄上を早く帰れるように追い出した」
「あぁ、あれは……」
確かに追い出したが、動機から言うとルキアノスが言うような美談ではないので、返事に困ってしまう。
(全身で帰りたいオーラ出してたくせに、体面気にして意固地になってたのに腹立っただけだし)
それに、本当はもう一つの理由があることを、小夜は薄々自覚していた。
(エヴィエニス様がファニと婚約できれば……)
ルキアノスの中にあるファニへの恋心も、少しは消えてくれるのではないか、と。
一度そんなことを考えれば、言葉は小夜の心から逃げるように外へとまろび出ていた。
「……エゴに決まってるじゃないですか」
「……エゴ?」
ルキアノスが聞き返す。言わなくていい言葉だと頭では分かっているのに、口はなぜか言うことをきいてはくれなかった。
「全部自分のためってことです」
それは、苦笑とも自嘲ともつかない声であった。
ルキアノスがかつてファニに淡い恋心を抱いていたことを、小夜はゲームを通じて知っていた。そしてそれが決して虚構でないことは、初めてこの世界に来た時に本人から直接聞いてもいる。
彼が兄に劣等感を抱きながらも尊敬し、ファニとの在り方を受け入れ、諦めると決めたことに疑いはない。小夜も別に今さら問い詰めるつもりは微塵もない。
それでも不安になるのは、性分とでも言おうか、自信のなさの現れと言おうか。
だから、ファニがつつがなくエヴィエニスと婚約すればいいと考えるのも、自分が傷付きたくないがための醜いエゴに他ならないと、小夜自身が嫌になるほど承知していた。決して、二人のためなどではない。
(……あぁ、嫌になる。頭がくらくらする)
奪わないで、と今日だけで何度も思った。挨拶ごとに可愛らしい女性が現れるたびに、ルキアノスを見ないで、好きにならないでと願った。そもそも自分のものでもないし、結ばれたいと望むわけでもないのに。
それでも、七面倒な感情は止むことがなかった。
ルキアノスが誰かの隣に立つのを見たくない。その鉄灰色の瞳に他の女性を映すのを見たくない。誰かを好きになる瞬間を見たくない。
浅ましくて嫌になる。それを独占欲と呼ぶことくらい、小夜は知っている。どんなに大人ぶって距離をとって逃げ場を確保しても、本音などそんなものだ。倫理も身分も善悪も関係ない。根底にあるのは独善的な欲望を知られないための、知られて嫌われた時のための自己防衛に他ならない。
「全部自分のため……弱虫な自分のためです。逃げるのも否定するのも、気付かれたら終わりだからです」
あぁ、感情が止まらない。
一度声に出してしまえば、止められない。
「近付いたらバレちゃいます。こんなにこの胸は煩いんだから。だから逃げるんです。醜い自分なんて知られたくないから、いざとなったらすぐ逃げられるように、ダメージが一番小さくなるように、無意識にしてしまう。逃げ道がないと、リカバリーの方法を知っておかないと、新しいことなんて怖くて出来ないから」
「……小夜? 何の話を……」
「社会に出て、それなりに失敗せずに仕事が出来るようになると、いつの間にか失敗が怖くなっちゃうんですよ。何でも無難に済ますようになって……臆病になって、変化を恐れて、気付けば矮小になってる」
口にすればするほど、胸の中でずっと曖昧にしていた感情が明確になる。輪郭がはっきりと浮かび上がり、小夜を責め立てる。
「だから、嫌なんです」
「……なに?」
「あなたのことを考えると、そんな自分に気付かないわけにはいけなくなるから……だから」
そう、熱いほどの吐息で吐き出す。
その前に、腕を痛いほどの力で掴み上げられた。