友人ですから
トリコが第三王子アフェリスの相手に疲れたことで、トリコのお出掛けは終了を告げた。アフェリスは用は済んだとばかりに舞踏会から退場し、ヨルゴスもルキアノスに許可を得た上でトリコをルキアノスの部屋の止まり木まで連れて戻した。
いつものように水を与え、花や木の実などの食事を与え、落ち着くのを見計らってから、鮮やかな青緑の背中を一撫で。クェ、と穏やかに鳴けば、もう良いの合図である。
「戻るの?」
小夜に頼まれてともにトリコを見ていたセシリィが、ヨルゴスにそう問いかける。
国王が退場したことで舞踏会は佳境を過ぎ、年嵩の者から退場を始めていたが、会の主役はヨルゴスの主である。閉会を告げるまでは勝手に下がることは許されない。
「でも、少し休憩するくらいの時間は許されるのではなくて?」
ヨルゴスが返事をする前に、セシリィはそう言って先手を打つ。そうなれば、ヨルゴスに否やはなかった。
行き同様、特に会話もなく廊下を進む。セシリィが足を止めたのは、大きく開けた窓の向こうにバルコニーを見つけた時であった。
「少し、夜気に当たりたいわ」
言いながら、ヨルゴスの返事も待たずに外に出る。バルコニーには特に照明の類いはなかったが、今夜は月が明るい。廊下から入る光とも相まって辺りは仄明るく、複雑な陰影をあちこちに伸ばしていた。
窓を閉じれば使用人たちの喧騒は消え、葉風の音に混じって大広間の音楽がここまで流れてきてくる。今宵のエステス宮は、どこも似たようなものであろう。
浮かれるような気怠いような、本格的な夏が訪れる前の、伸びやかな空気。その空気を存分に味わうようにして、セシリィは仄闇に沈むようにして清かな月を見上げた。
「小夜は、どこまで気付いていると思う?」
セシリィの物思わしげな問いかけに、傍らに佇むヨルゴスは言葉を返さない。彼はいつもそうだ。無駄口はほとんど聞かず、必要な場面ですら言葉少なに最低限で済ます。
最初はその朴訥なさまが良いとも感じたが、こんな時はもう少し雄弁になってくれてもいいのではないかとも思う。
(自分の都合のいい人間性を求めているだけだって、分かっているけれど)
だからそんな我が儘は口にしない。ヨルゴスが雰囲気や相手によって演じ分けられるようになったら、きっと幻滅することも分かっているから。
「小夜だったら、気付いたらそれとなく聞いてくる気がするの。でも今のところそんな様子はないから、ただの偶然だとは思うけれど」
小夜は、勘がいい、のだろうか。それとも本能だろうか。どちらにしろ、小夜は突然人の心に触れることがある。それを本人が意図しているかどうかはともかく、それはあまりに急で、だというのに核心をついていて、そして不快にするわけでもない。
(エヴィエニス様のアレは、ただの意固地だものね)
普段は当たり前の礼節を心得ていて、無遠慮な近付き方もしないし、特にルキアノスへは年の差以上に距離をとっている。だから余計に心を許してしまう。
「……気付いていては、いけませんか」
「それは……そうよね、どちらでも、同じよね」
小夜が気付いたとしても、出来ることなどないに等しい。
派閥争いにも貴族間のしがらみにも無関係だし、そもそもこの世界の住人ですらない。神殿側をどう丸め込んだかは知らないが、それでも無為に長居させるにはまだまだ難しい段階のはずである。
ルキアノスの目的が達せられれば、また元の世界に帰るだけだ。何の影響も残さない。
そう、十七年間染み付いた因習で思量する。
しかし返された言葉はまるで違っていた。
「……えぇ。ご友人ですから」
「!」
いつもと変わらぬ静かな声が溢したその意味に、セシリィは驚き、そしてゆっくりと噛み締めた。
今まで、王太子妃となるためだけに育てられたと思っていたセシリィに、友人と呼べる者は一人もいなかった。茶会や夜会に誘い誘われる相手なら無数にいたが、肩を並べ、心情を隠さずに話し、無為に時間を過ごす相手となると、ただの一人も。
だからこそ、小夜が目の前に現れた時も、犠牲にする相手、奸計の一手としか思わなかった。そして失敗し、取り戻す方策もなくなったセシリィを責めるのは当然だと思った。柄にもなく喚き散らしたのも、後がないと分かっていたからだ。
けれど小夜が怒ったのは最初だけで、事情を聞くと「辛かったね」と慰めてくれた。「話ぐらいなら聞くよ」と、まるで何でもないことのように言った。
(『話ぐらい』を聞いてくれる人も、わたくしにはいなかったのよ)
あの言葉で、あの温もりで、セシリィは確かに救われたのだ。あの時にはまだ何もかもが必死で、嫌で、結局逃げられない絶望に囚われて、それすらも気付けていなかったけれど。
「……そう、よね。わたくしの、大切なお友達だもの」
時に妹のように無知で幼いかと思えば、ここぞという時には姉のように頼もしくなる。たとえ小夜に身分がついてしがらみが出来ても、友人であることは揺るがない。
(小夜に知られたって、結局何も変わらないわ)
セシリィが、ヨルゴスに身分も立場も釣り合いのとれない恋をしていることを知られても。きっと何も変わらない。
「わたくし、やっぱりあなたを諦めることは出来そうになくてよ」
真剣に考え込んで勘繰っていたのが馬鹿らしくなって、セシリィは晴れがましい気分で隣の長身の男を見上げた。月明かりがヨルゴスの物静かな表情に朧な影を落とし、いつになく憂い顔に見える。
舞踏会場とは違ってゆったりと時間が流れる中、ヨルゴスがゆるやかに首を左右に振る。
「……自分は、男やもめです」
それは、こんな話をするようになる前にも聞いたことであった。妻帯しているのかと聞くと、過去に一度だけ、とヨルゴスは答えた。
普通は未婚の若い近衛騎士が務めることが多いのに、四十を過ぎた男が家にもろくに帰らず、ずっと第二王子の近侍をしているのだから何かあるとは思っていた。
それとなくエレニなどから話を聞くと、ヨルゴスは国王の生家の遠縁で、推薦を受けて配属されたらしい。若い頃には国王付きの騎士の従士で、騎士になるのと同時期に幼馴染みと結婚したのだとか。
けれどそんなことは、セシリィにはどうでも良かった。
「聞いたわ。でもそれであなたの価値が変わったりしない」
確かに、気になったのは認める。聞いてから、少しだけ後悔したことも。妻の死のせいでヨルゴスは寡黙になったのかとか、昔はどのような若者だったのかとか、知りたいことも山とある。
けれど、今ここにある気持ちの前には、全てが些末だ。
「そんな陳腐な言葉でわたくしを揺らがせようだなんて、甘い料簡と言わざるを得ないわね」
小夜にたまに言われる「意地悪そうな女」の顔で、ふんと笑う。それが高慢に見えて、ファニに怯えられ、エヴィエニスにも嫌われたのだと、今なら分かる。
けれど今、セシリィは少しだけ腹が立っているのだ。いまだにそんなことを言うヨルゴスにも、こんなことを言わせる原因を作ったルキアノスの脅しにも。
『お前がパートナーの代役を務めないとなるなら、オレは二度とお前に会えないかもな。勿論、オレの従者であるニコスも、ヨルゴスとも』
恐らく自分が行方不明であった時に、寮生会かどこかから自分の普段の様子を聞いたのだろう。よりにもよって二番目に聞かれたくない相手に知られてしまった。寮に戻るまでには、いつも気を張って表情を作っていたのに。
(失敗したわ。そんなに分かりやすい顔をしていたかしら?)
小夜がずっと悩んでいることは知っていた。ルキアノスに気持ちを悟られないように、最後にはちゃんと忘れられるように。
そしてその方がいいだろうと、セシリィも思っていた。二人の関係は、あまりに遠いから。
けれど。
(ヨルゴスと二度と会えないかもなんて匂わすあの男が悪いのよ)
あんな間抜けな脅しに屈してしまった自分が情けない。それでも、今のセシリィにとってはそれが何よりも恐ろしいことに感じられたのだ。二度目の恋よりも、二度目の失恋よりも。
「わたくしは、鳥の羽を撫でられる時の、あなたの瞳が好きだったわ。真っ直ぐで、温かみがあって……。でも今は、あの時のようには見てくれない」
取り残されたセシリィと、忠実に使える近侍。一羽と一人。
あの時、小夜がいなくなれば、世界はまだ孤独な檻だった。だから初めてヨルゴスの手がのびてきた時、触るな、と言った。その瞳が、冷たいように、貶すように見えたから。けれどあの時、セシリィの言葉を理解できたのは小夜だけであった。
けれどヨルゴスは、触らなかった。まるで鳥の気持ちでも察したかのように。
許したのは、何度目からだったか。目で追い始めたのは、何度目からだったか。
そしてセシリィが自分の体に戻って、唯一ヨルゴスだけがこう言った。
『……申し訳ありませんでした。御身に勝手に触れて』
以前のセシリィなら、許すものか、と答えたはずだ。ルキアノスの側近を辞し、遠くに配置替えを要求したかもしれない。
けれどセシリィは、許す、と答えた。その日から、飛び石のような会話は始まった。
けれどヨルゴスの態度は、どんなに親しくなっても決まっている。
「……あなたは、侯爵家のご令嬢です。……何より、お若い」
「子供だと言いたいのかしら」
「……自分には、小夜様のお気持ちにこそ共感できると言うことです」
「しなくていいわ。というよりも、わたくしの気持ちに共感して」
「…………」
「そこで沈黙するのは卑怯だと、いつも言ってるでしょう?」
いつもと大差ない会話のあとには、当たり前のように静寂が舞い戻る。けれどセシリィは、この沈黙がいつも苦ではなかった。
何を考えているか分からないヨルゴスが、この時ばかりはセシリィのためだけに悩み、慣れない言葉を探し、気持ちを形にしようとしているような気がするから。
その形がまだ少しも見えてこないことには、やはり多少の不安は禁じえないけれど。
(不器用なひと)
自然と、苦笑が漏れる。エヴィエニスを好きだった頃には、笑うことも、自然な感情に身を任せることもなくなっていたと、今さらに思う。
(全ては、小夜が現れてから)
小夜は違うよと言うが、やはりセシリィにはそうとしか思えないのだ。
だから今この一時も、小夜に感謝して存分に楽しむのだ。
ルキアノスのいち従者に過ぎないヨルゴスが侯爵家の令嬢と踊るという、本来なら有り得ない僥倖を、誰にも知られないうちに。
「でも、いいわ。折角小夜がくれた時間なんですもの。今夜くらいは、踊ってもらうわよ」
「…………」
御意、という言葉を搾り出すのに、一体いくつの舞踏曲が流れ去ったのか。
それさえもまた、セシリィにとっては何にも代えがたい幸福な時間であった。