弟思いの兄
「ファニがいないから、何だ?」
それまでの弟思いの兄の顔が一瞬で無に置き換わったなと思いながら、小夜は言葉を探した。
「いえ、別に他意はありませんが……」
「…………」
「だから、こういった会なら、エヴィエニス様のパートナーは普通に考えてファニなんじゃないかなーと思っただけで……」
「…………」
沈黙を乱発するんじゃない、と小夜は思った。
壇上まで来てしまえば、先程よりは周囲に会話を聞かれる心配もないが、怖い顔で睨み付けていれば遠目にも不審を買う。
小夜は致し方なく、無難に引き下がる方向で話を片付けにかかった。
「というよりも、今回はまだ会えていないから、私が会いたかっただけなので、いないようなら」
「ファニは、お前に会いたいなどとは言っていない」
「…………」
この男は「ファニ」を一度は入れないと会話できない病気か何かに罹患中なのかと、小夜は半分本気で考えた。喉元まで声にも出かかった。しかし言っても毎度の怒りを買うだけなので、小夜はその次に控えていた言葉を代わりに音声にした。
「……いやいや、それって会いたいとも言ってないけど会いたくないとも言ってない――つまり話題にしてないだけって奴でしょ? 親子揃ってまた子供の屁理く……」
「小夜」
ルキアノスに名を呼ばれ、小夜はハッと口を閉ざした。先程よりも明らかに目の据わっているエヴィエニスに、ざーっと血の気が引く。
乙女ゲームの攻略対象は、スマホの画面内で散々見知ってきた分、どうにも現実的な身分差というものを忘れがちになる時がある。ガキか、と思うような時などは特に。
(しまったなぁ。話題振らないって決めてたんだった)
必ずパートナーが要る舞踏会となれば、ファニもエヴィエニスに伴われて現れるだろうと勝手に思い込んでいたのだ。小夜はこちらにきてからずっと勉強のために缶詰めだったから、ファニへの挨拶も当日しようと考えていた。
だがよくよく考えれば、ファニとの仲は周囲のほとんどから反対されているとセシリィが言っていたし、国王も臨席するような所に堂々とパートナーとして連れてこれるはずもないのは自明であった。
しかし今日ファニと会えないとなれば、いつ会えるかというのは小夜にとってわりと重要な問題であった。今回は、ルキアノスのパートナーとして舞踏会に参加するためだけに喚ばれたはずである。明日になれば用済みで即帰還という可能性もある。となれば、今日のうちに会えないとなると不義理をしてしまう可能性すらある。
エヴィエニスに嫌われるのはそんなに気にならないが、このあとファニに会えなくなるのは悲しい。それに、エヴィエニスの背後で視界の端をちらちらするエフティーアは、その目が放つ圧だけで「さっさと謝れ」と訴えている。
謝ってもエヴィエニスとの溝が埋まるとは思えないが、小夜はゆっくりと低頭した。
「失言を致しました。何卒ご容赦ください」
「…………ふん」
頭上に、エヴィエニスの小さな吐息が聞こえる。自分でも、口が過ぎたと分かってはいるらしい。
頭を下げたままの視界に、エヴィエニスが踵を返すのを見る。そろそろと顔を上げれば、自席に戻るところであった。だから、小夜はやめようかと思っていた言葉を口にした。
「ところで」
「…………」
エヴィエニスが再び足を止める。その傍らで、エフティーアが瞳に険を滲ませてやめろと訴える。
エヴィエニスがこのまま会場を出ていくのなら、小夜も再び声をかけようとは思わなかった。だがまた席に戻るつもりなら、聞いておかねばならない。
「ファニは今、どこで何をしていますか?」
「小夜、口が過ぎる」
隣のルキアノスに小声で腕を掴まれた。だが構わずとびきりの笑顔で続ける。
「もし独りなら、私がダンスに誘いたいのですが」
「ダメだ!」
存外に大きな声が、その先を遮った。元々良く響く声なだけあって、近くにいた人々が何事かと振り返る。慌てたのはエフティーアだけで、エヴィエニスは仇敵に対するように小夜を睨んでいた。
それに演技だけでなくビビりながら、小夜はルキアノスの胸によよよっとしがみついた。
「マァ、怖いですワ、ルキアノス様」
「はぁ?」
棒読みが過ぎたらしく、ルキアノスが怪訝な声を上げる。だがその次には意図を汲んでくれたのか、疲れたような溜め息のあと、しっかりと応えてくれた。
「大丈夫だ。兄上はもうお帰りになられる。お前のことは何があってもオレが必ず守るから、安心しろ」
そこまでは求めていなかったのだが、何故だかとても力の入った回答である。肩に回される腕にも、心なし力が入りすぎている気がするのだが、今はエヴィエニスが退場できるように仕向けられるのであれば何でもいい。
(好きな女を独りにさせてんじゃねーよ)
とまでは言わないが、気持ちはそのようなものである。
このような華やかな日に、主も不在のイリニスティスの宮にファニが独りでいるなど、悲しいだけである。それがどうしようもない事情の結果ではあっても、エヴィエニスを早く帰すくらいは文句も言われないはずだ。
王弟イリニスティスは普段から車椅子であるため、舞踏会は辞退しているが、それでもその直前の茶会にまでは出席していた。レヴァンも、姿が見えないからファニのもとに残っているであろうことは推察できるが、それでも好きな人を見送る寂しさが消えることはない。
ということで、小夜は怒った王太子が怖い気弱な淑女を頑張るのである。
「マァ、心強いですワ」
「あぁ、可憐なオレの小夜。お前は誰よりも美しいな」
(オ、『オレの』!?)
更にぎゅっと力強く抱き締められ、耳元でそう囁かれて、小夜は耳まで真っ赤になった。そこまでするつもりはなかったのに、吐息が耳朶にかかり、尋常でない羞恥が肌を駆け上がる。
(え、えっ? なんっ、何で!?)
今までにも抱き締められたことはあるが、これはあまりに種類が違いすぎた。心臓が暴力的なまでに左胸を叩く。肌の境界線が曖昧になるほど体温が近くて熱い。ルキアノスが次の一音のために吸う息さえ聞こえて、体の芯まで甘く痺れた。
だが、今ばかりは逃げ出すことはできない。本日二度目の衆人環視という以上に、最早ルキアノスの胸に閉じ込められた両手に力が入らなかった。
そんな小夜を恍惚と見下ろして、ルキアノスが続ける。
「どんな奴が相手でも、小夜に何かあればオレは容赦はしない」
言葉の最後には正面のエヴィエニスに視線が向けられてはいたが、それが真実誰に対する牽制なのかは、冷静になった後でなら小夜にも察することができた。
ルキアノスの本当の目的は、小夜を自分の婚約者候補だと明言すること。そして、手出しをしようものなら家柄も女子供も関係なく徹底的に仕返しするぞという、宣戦布告の二つだったということに。
それを明確に宣言するのに、小夜の茶番を利用したのだと。
だが軽くパニックを起こしている今の小夜には、
「…………ぅ、嬉しゅう、ござりまする……」
そう言うだけで精一杯であった。
(いやもう言えてすらない……)
そして、こんな状況だというのに二人の意図を正確に受け取ったらしいエヴィエニスは、嘆息一つ。
「……妬けるな。小夜嬢に何かあれば、俺でも無事では済まなさそうだ」
爽やかな苦笑を最後に、舞踏会を辞していった。