このポジションがたまりません
そのようにして、小夜の学校生活は始まった。
授業はすべてルキアノスに同行し、移動もぴったりと張り付いた。教師や生徒からは遠巻きにされ、話しかけられることは滅多になかった。事情が筒抜けなのか、小夜の奇行が気持ち悪いからなのかは分からない。
自室に帰ればトリコに出迎えられ、その日一日あったことを話した。
「あなたは、本当にわたくしを演じるつもりがあるの?」
という苦言は、三日目には出なくなった。
勿論、小夜の演技が向上したからでは全くない。
「セシリィ様。これでしたら殿下にお出ししても問題ないかと」
一方、侍女の仕事は少しずつではあるが上達した。
一人で行動することはまだ許可されないが、ルキアノスの身支度や午後のお茶を用意する手伝いは許された。
この段になれば、侍女二人に不審な目を向けられていた理由にも気付く。
今までセシリィは王太子の婚約者として高慢に振る舞い、何をするにも王太子第一だった。それが突然別人のようになって第二王子に接近してきたのだ。
目的が分からずとも、暗殺や毒殺を警戒するのは当然と言えた。
それが少しずつとはいえ前進できたのは、ひとえに小夜の貧乏性と、空気を読まないスキルのお陰であった。
「本当ですか? 良かったぁ。いつまでも掃除くらいしか役に立たないんじゃ、どうしようかと」
ホッと胸を撫で下ろして、小夜もまた自分の淹れた紅茶を飲む。
本当は練習のため侍女に味見してもらうために淹れたのであって、今から休憩という顔で飲むものではなかったが、今までも失敗した渋いお茶を渋い顔で自家消費してきたので問題はないはずだ。
そして、侍女二人が追及したのもそこではなかった。
「……あの、セシリィ様は肩書きは侍女といえ、そんなことはなさらずともよろしいのですよ?」
おずおずと、遠慮という言葉を知っているのはエレニ。伯爵家の出身で、行儀見習いのために王宮に上がっている。
「そうですよ。そもそも侯爵令嬢様にそんなこと求めていませんし」
ずけずけと、遠慮という言葉が存在しないのがアンナだ。同じく伯爵家令嬢で、二人とも国王の生家の遠戚関係にあるらしいとは、トリコが教えてくれた。
「でもこの高そうな部屋に住んでるだけで家賃ウン万かと思うと肩身が狭いというか、動いてないと落ち着かないというか」
「そう、でしょうか? 以前の侯爵家用の部屋に比べれば、私室も一つきりですし」
「その前に、あまり動き回られると仕事が増えるので、なるべく部屋でじっとしていて頂きたいものですね」
「アンナ!」
淡々と本音を口にするアンナに、エレニが慌てて口を塞ぐ。どうやら、監視している件は内緒らしい。
「相変わらず、礼のなっていない女ね」
ずっと詰まらなそうに紅茶レッスンを見ていたトリコが、ぼそりと呟く。初日にはその態度にクェークェーと怒っていたが、どうやらこれも諦めたようだ。
人語が聞こえていたら毎日仲裁する羽目になっただろうなと思いながら、小夜はずっと気になっていた点を確認した。
「エレニもアンナも、ルキアノス様にとても忠誠を誓っているんですね?」
特にアンナのつんけんした態度はそのためだろうと思ったのだが。
「は? そんなわけないじゃないですか」
冷めた目で即答されてしまった。アンナッ、とエレニがまた慌てている。
「仕事はいつもシンプルに、面倒事もなくさくさく終わるのが一番です」
脳裏に、仕事を無駄に小難しく、しち面倒にしていく輩が横切っていった。
「分かる。大事ですね」
思わず深く同意してしまった。
確かに、引き継ぎは面倒だ。特にそれが新人相手ともなれば、自分でやった方が何倍も効率が良いのにと嫌になる時もある。それでも新人を教育するのは、後進を育てることが必要だからだ。
しかしこの場において、小夜は新人でも後進でもない。侍女という皮を一時的に被った面倒な客分でしかない。
「ご面倒をおかけします」
深々とお辞儀する。
顔を上げると、アンナと目が合った。同士のように、うむと頷きあう。
「頷いちゃダメでしょ……」
エレニが疲れた顔で溜め息をつき。
「今の会話で何を分かり合ったの……?」
トリコが理解できないという顔で唸った。
目下の問題は、たまに出会う王太子エヴィエニス一行だった。
彼らもまた別の寮で一緒に生活し、ほとんどの授業を四人で受けていた。エヴィエニスは飼い慣らされた警察犬のように常にファニの左隣をキープし、右にはエフティーア、背後にレヴァンが構えた。
ちなみにこのレヴァンだけは、ふらふらと消えることがあった。行き先はもっぱら可愛い女の子だ。
小夜でさえそれは例外ではなく、ルキアノスと擦れ違う際には、ちょくちょく声をかけられた。
「セシリィ嬢におかれたは本日も見目麗しく、この手も白く輝いていますね。頬ずりしても?」
「良き声にございます……」
レヴァンがルキアノスへの挨拶もそこそこに、小夜の手を取って顔に寄せる。小夜は振り払いもせずにこにこと頷いていた。
歯の浮くような台詞は、乙女ゲームの中ではエヴィエニスとレヴァンの専売特許で、ルートの最初からよく出ていた。それをこうして違う形で堪能できるのは嬉しい限りだった。
会話が噛み合っていないことなど、些事である。
「いやぁ、今までは単語三つ言うくらいが精々だったから、こんな風に長くセシリィ嬢と話ができて嬉しいよ」
「まぁ、そんな勿体ないことするわけないじゃないですか」
「今日はもう授業終わったよね? これからどう? 僕と二人で親密度を高めるっていうのは」
「その囁き具合も抜群ですね。それをルキア様のお声で聴けたら更に良いのに……!」
「うーん、やっぱり噛み合わないなぁ。面白い」
ははは、ほほほ、と和やかに会話がつまずく。
そんな二人を、仕方なく合流する羽目になった四人が遠巻きに囁き交わした。
「そこでルキアノス様のお名前が出るというのは、どういう意図があるのでしょうか」
「それはオレの方こそ知りたい」
「セシリィ様、何だか最近雰囲気が柔らかくなった気がします」
「あれは柔らかいんじゃなくて、おかしいんだと思うぞ」
ルキアノスが、エフティーアやファニの感想に愚痴るように言葉を返す。その中でエヴィエニスだけは、真剣にセシリィの様子を観察していた。
弟の横に立ち、声を低める。
「お前のそばにいるときと、一人のときの様子はどうだ」
「変わらないと思う。最初の何日かは、オレが口を開くたびに床に突っ伏すか天を仰ぐかだったけど、最近は目を見なければ会話がまともに成り立つ。部屋に籠ってるときには奇声は聞こえないし。最近は本気で侍女の仕事もし出したな」
「あのセシリィが、侍女の仕事をか?」
「そうだ。茶を淹れてもらったぞ」
ルキアノスのその答えに、エヴィエニスは信じられないという目で顔を向けた。
ルキアノスがそれを許すとは信じられないという意味だろう。
「エレニとアンナが見てるからな。不在中はヨルゴスがたまに部屋を改めてるが、不審なものはまだ見付けていないと言っていた」
一歩間違えれば死の危険もあるというのに、ルキアノスは大したことではないと済ませる。そこに、普段のような軽い笑みはなかった。
エヴィエニスの表情が、険しく曇る。
「……お前には、いつも厄介事ばかり押し付けて悪いと思っている」
「王様よりも面倒な仕事なんてそうそうないだろ」
少しだけ皮肉を込めて混ぜ返す。
そのニヒルな様も中々聞いたことがない、と小夜はちゃっかり耳をそばだてていた。
(ゲームだけじゃ聴けない声がいっぱいあって、至極だわ……)
その内容が自分に対する嫌疑でもスパイ行為でも、全然平気である。
「うーん。目の前にいるのは僕なのに全然こっち見てないなー」
しかし出掛けてる間に誰かが家捜ししているとなると、留守番のトリコはどうしているのだろうか。
「今なら頬っぺにキスしても気付かないかな? やってみよ」
「気付くに決まってるだろう!」
バシン!
と小夜の目の前で小気味良い快音が響いた。
ルキアノスから視線を戻すと、エフティーアが怒りの形相でレヴァンを叩いたあとだった。
(淡々としたまま怒るところとか、他の声優さんと抑揚が違ってまた良いんだよねぇ)
でへ、などと考えていると、ファニが眉尻を下げてととっと駆け寄ってきた。
「セシリィ様、大丈夫でしたか?」
「え? 全然平気だけど」
何故心配されたか分からず、とりあえず首肯する。
今日のこの場所に限って言えば、久しぶりに四方から美声が聞こえてくる、正に楽園であった。皆是非あっちこっちで会話してほしい。
「ファニ。そろそろ行こう」
「エヴィ」
セシリィに近付けるのがそんなに嫌なのか、エヴィエニスが会話を打ち切ってこちらに寄ってきた。
「でも……」
「あまりゆっくりしていると、午後の教師が来てしまう。今日はお前の苦手な神学だろう?」
「そうだったぁ。苦手っていうか、聞いてると眠くなっちゃって……」
「少しくらいなら、俺の胸を貸してやる。授業の内容程度なら、俺があとでまた教えてやるから」
「そ、そういう甘やかしはダメだからっ」
困った顔をするファニを愛おしそうに見詰めて、エヴィエニスが優しく諭す。距離か会話数かは分からないが、相変わらず糖度がめきめきと上がっている。
(顔真っ赤な女の子は可愛いの)
後で聞いたのだが、ファニは泉で助けあげられた時に記憶喪失だったこともあり、家庭教師をつけて特別授業を受けているのだという。加えて本格的に王太子妃としての教育も進めなければならないらしく、とても多忙らしい。
それはそうと。
(やっぱりこのポジションがたまりませんなぁぐへ)
目の前で繰り広げられる砂を吐きそうな甘い会話に、小夜はヨダレを垂らしそうな勢いでにやついていた。
自分に向けられたわけではないが、一等席で聞ける本物の声。声ヲタにとってこれ以上の良環境はない。特にエヴィエニスの主人公声は深みと色っぽさがある。そこがまた主役に多く起用される所以だろう。
もしこれが一般人であれば、耳を塞ぐか唾を吐いたかもしれない。
声優とは偉大である。
(でもルキア様の声が一番だけどね!)
好き、というだけで、ときめき度は桁違いだ。
構えていなければ心臓がちょくちょく止まってしまう。
と思い出しながらほくほくしていたら、突然背後から本物が来た。
「行くぞ」
「! あ、はいっ」
ぞんざいな命令口調に、小夜は慌てて返事をして後を追う。
亭主関白風、良い。
「セシリィ嬢、今度は二人でこっそり会おうねー」
「させられるか!」
呼び声に振り返ると、レヴァンとエフティーアがまたどつき漫才を繰り広げていた。
どっちが受けかな、と考えてしまうのは腐女子の悲しい性なのであった。