地雷は踏んでから気付く
うふふ、という可愛らしい笑声とともに、偉大なる両陛下の姿が扉の向こうに消える。
大広間に残された人々がその動きを再開したのは、ぱたん、という扉が閉まりきる音がしてやっとのことであった。
「……見たか、陛下のお顔」
「相変わらず、血を分けた息子にも容赦がないな」
「王太子殿下にもあの調子らしいぞ」
「聖泉の乙女との婚約も、さらさら認める気がないとか」
楽器も鳴らされないただっ広い空間に、人々の囁く声だけが小波のように広がっていく。やはりその声に好意的なものは少なく、多少の畏怖を孕んでいることは明らかであった。
そしてその気持ちは、小夜も同じである。同じではあるのだが。
「……すっっっごい尻に敷かれてたなぁ」
王妃リアナの印象が全てを掻っ攫っていった小夜としては、思わず零れたのはそんな感想であった。
特段大きな声で言ったつもりはなかったのに、その一瞬、周囲の声がぴたりと止む。
「…………あれ?」
何かあったのかと振り向く。が、半分も身を捻ることが出来なかった。代わりにすぐ頭上から、多分な呆れを含んだ溜息が零された。
「小夜……」
「え? ル、ルキアノス様?」
なぜ、と考えて、そう言えば後ろから羽交い絞めにされたのだったと思い出す。途端、小夜は体中の血が顔に集まるような錯覚を覚えた。
ルキアノスの両腕はいまだに小夜の腹を背後から抱きしめている。頭には顎が乗る感覚。背中は全面から高めの体温をひしひしと浴び続けている。何より、顔が近い。
「なんっ、なんですかこの格好!?」
「……オレの婚約者候補なんだから、別におかしくないだろ」
「おかし……!」
いですよ、と言おうとして、そう言えば今日の目標は「なるべく拒絶しない」だったと口を噤む。だがその直後、聞き捨てならない単語がさらりと滑り込んでいたような気がして、小夜は「……ん?」と声を上げる。
だがその先を言う前に、また別の声がかけられた。
「相変わらず、台無しにするのが上手ねぇ」
「セシリィ!」
救いの声とばかり、声の方を振り返る。小夜たちを遠巻きにしていた輪の最前列に、セシリィが苦笑するように立っていた。どことなく楽しそうなのは気のせいであろうか。
「見てたなら助けてくれたらよかったのに」
「陛下相手に何をしろというのよ。嫌よ」
「むぅ」
にべもなかった。正論なので反論も出来ない。
その背後で、再びざわつく声が広がり出した。
「おい、あれ……クィントゥス侯爵家の」
「よくこの会に出てこられたものね」
「まさか、今度は第二王子を取り合って……?」
セシリィを静かに輪の外にはじき出しながら、顔も見せない人々がひそひそと囁き交わす。
噂好きの者たちが集まる中で目立つということはまるで生贄のようだと、小夜は思った。その矛先が、先程までは恐らく自分であった。気付いてはいなかったけれど。
そしてその目を逸らすためかどうか、セシリィが自ら一歩を踏み出した。こうなると十分承知の上で。
「セシリィ」
ポンポンと、小夜を閉じ込めていたルキアノスの腕を小さく叩いて、優しい囲いを抜け出す。それから、セシリィに向かっていつものように抱きついた。
「セシリィのその優しくて可愛くて不器用なところ、大好き」
「さ、小夜っ?」
同じ背丈の、同じ体格の、十以上年若い少女を抱きすくめる。状況にそぐわない行動に驚いたのは一瞬で、セシリィは抗うことなく小夜の背中に手を回してくれた。
「こんなこと、しなくても良かったのに」
摺り寄せた頬に、セシリィの小声が届く。小夜がセシリィと敵対関係にあるわけではないことを示し、今の微妙な立場と中傷から守るために抱きしめたのだと思われたらしい。
実際、小夜の突然の行動に消えていたひそひそ声が、再び二人の耳にも届いていた。
「……どういうことだ?」
「ルキアノス殿下のパートナーをクィントゥス侯爵家が勧めたというのは、本当だったのか?」
「しかしあの悪名高いセシリィ嬢を……」
他にも何やらごそごそ言っているようであったが、そんなものは小夜には関係ない。
「したかったからしたのでーす」
「も、もうっ、くすぐったいわ」
ぐりぐりと頬を押し付けることで、そんなんじゃないと抗議しておいた。くすくすと、セシリィがこそばゆいように笑う。それだけで小夜は満足だった。
「……それで、オレはいつまで放置されていればいいんだ?」
「ハッ」
すぐ背後から低い声が上がって、小夜は反射的にセシリィから手を放した。セシリィも、三拍ほどはゆっくり間を空けてから、小夜から手を放す。その顔がいかにも優越感に満ちていて、ルキアノスの顔が更に不機嫌になる。
それを留めたのは、それまで気配を潜めていたらしいエヴィエニスであった。
「そう妬くな。乙女の仲が麗しいのは喜ばしいことだろ?」
「兄上……」
隣に立った兄を一瞥して、ルキアノスが肩を落とす。それを了解と取って、エヴィエニスが周囲を取り巻く人々にいつものよく通る声を向けた。
「さぁさ。皆さんも余興はこれくらいにして、続きを楽しみましょう。――指揮者、次の曲を」
大広間の端に控えていた奏者にまで届く声に、彼らもやっと仕事ができるというように精彩を取り戻す。一段と華やかな音楽が空間に広がり、人々もまた目線を小夜たちに残しながらも思い思いの場所へと戻っていく。
エヴィエニスが誘導するようにダンスフロアとなっている中心から出れば、舞踏会は滞りなく再開した。
「兄上、ありがとうございます」
「なに、大したことじゃない」
王族用の席に戻りながら言葉を交わし合う兄弟に続き、小夜とセシリィも壇上に上がる。そこで小夜は二つの違和感に気付いた。
「あれ? あそこって第三王子の席じゃなかったっけ?」
その一つは、小夜たちとは反対側にある空席である。テレイオスにダンスに誘われる前には確かにいたと思うのだが、いつの間にか不在になっている。
「アフェリス殿下なら、トリコに夢中よ」
「トリコ?」
セシリィの答えに、小夜は首を傾げる。トリコを舞踏会に連れていくとは聞いていたが、そう言えば見ていないと視線を彷徨わす。
耳を澄ませれば、確かに人垣の向こう側からクェーッという声やきゃっきゃと騒ぐ幼い声が聞こえるような気もした。
「トリコ、助けなくて大丈夫かな?」
「ヨルゴスがついているから平気よ」
「ふぅん。じゃあ、トリコはセシリィに任せようかな」
「えっ?」
少々不安になった小夜だったが、セシリィがそう請け負うなら安心である。と思ったのに、意外そうな声を上げられてしまった。思わず振り返る。
「え、ダメ?」
「だ、ダメということはないけれど……」
「あ、私なら大丈夫だよ。エレニもいるし」
もしや小夜が危なっかしくて放っておけないと思われたのかと、小夜は軽く手を振った。席にはエレニとアンナとニコスがつかず離れずいてくれているし、テレイオスは消えた。あの男よりも怖いことなどそうそう起きるとも思えない。
セシリィは少しだけ視線を彷徨わせたあと、妙に可愛い上目遣いで「……なら」と頷いた。
「少し、その……ヨルゴス、とトリコの様子を見てくるわ」
「うん。お願い」
言うが早いか、セシリィが踵を返して群集の中に消える。その後で、そう言えばクレオンがいないとも思ったが、あの男が舞踏会で素直に踊り続けるとはとても思えない。不在の方が自然なのであえて指摘はするまい。
小夜は改めて前を向くと、自分の席に戻ろうとしていたエヴィエニスにもう一つ気になっていたことを聞いた。
「エヴィエニス様は、今日はファニと一緒じゃないんですか?」
「…………」
ぴたり、と足を止めて、エヴィエニスが振り返る。
思えば、今回この世界に喚ばれて初めてエヴィエニスと目が合ったのがこの時であった。
小夜は思った。
地雷は踏んでから気付くんだよね、と。