恐怖の時間
踊り終わると、小夜はルキアノスと見合って一礼。これが、招待客のダンス開始の合図となった。
色とりどりのドレスに身を包んだ貴婦人たちと男性とが次々と中央に集まり、楽しげな音楽が人々の足を躍らせる。賑やかな笑声があちこちから上がり、年配者は早速椅子に座ったり、軽食をつまむ者もいる。
小夜もルキアノスに従って席に戻り、やっと少しだけ弛緩した気持ちで会場中を見渡した。そうして落ち着いて周囲を見渡せば、まさに映画の一場面が目の前で繰り広げられていた。
(ヘップバーンでも出てきそう)
少しだけ気分が軽くなってあちこちに視線を向けていると、聞き慣れた声がかけられた。
「あまりきょろきょろしないことよ」
「セシリィ」
振り返ると、普段の五割増しで美しい正真正銘の淑女がそこに立っていた。目が覚めるような深紅のドレス、華やかな化粧、長い濃茶の髪は芸術品のように複雑に、それでいて煩くなくまとめ上げられている。うなじに流れる後れ毛などは、何とも言えず色香がある。
「綺麗! とっても綺麗!」
「ありがとう。小夜もとっても綺麗よ」
手放しで称賛すると、セシリィがお手本のようににっこりと微笑んだ。女でも惚れ惚れする美しさである。眼福だと福福していると、隣からなぜか不機嫌な声が飛んできた。
「なぜ来た」
「主役にご挨拶申し上げるのは招待客の義務でしょう」
ぶすっと半眼になるルキアノスに、セシリィがふふんと顎を上げて返す。とても祝いに来たようには見えないが、そういうことらしい。
「俺も祝いに来たぞ!」
「帰れ」
セシリィのパートナーとして現れたクレオンに、ルキアノスがばっさりと返す。なんだかいつも通りだなあと思えて、小夜はすっかりリラックスした。
しかしこれが、ひっきりなしに続く挨拶の始まりであった。
またあとで、と去っていったセシリィたちの後ろにはまばらながら人の列ができ始めている。見れば両陛下や、反対側の席に座る他の王子たちの前もまた似たような様子であった。
「ルキアノス殿下。本日はお誕生日、おめでとうございます」
「ミカリディス侯爵閣下。この度は遠くまでお越しいただき、ありがとうございます」
「いえいえ、久しぶりに娘との旅を満喫しました。何せ娘のディミトゥラは、多くの歌や物語を覚えているものですから」
「素敵なお嬢さんですね。是非今度は閣下がお嬢さんを楽しませてあげてください」
笑顔で祝賀を述べる男性が、笑っていない目で隣に立つ妙齢の女性を前に押し出す。これでもかと押し上げられた豊満な胸が明らかにルキアノスに照準を定めていたが、当のルキアノスは相手をする気はないと笑顔で押し返す。
(ここの戦いの主力武器は笑顔なのかな?)
蹴散らされたミカリディス侯爵とそのご令嬢が、小夜への笑顔に殺意を滲ませて次に場を譲る。小夜はただ笑っていろと言われていたが、その口元は早くも引きつり始めていた。
「殿下は今宵はまた一段と麗しいですな」
「ありがとうございます、クリスドゥ伯爵閣下。貴殿のお嬢様には敵いませんよ」
「娘が見惚れてしまって、踊っていただかねば熱が冷めないと」
「ディモー伯爵閣下、是非控え室をお使いください。侍女もお呼びいたしましょうか?」
千切っては投げ千切っては投げとはまさにこのことと、小夜は感心しながらルキアノスの崩れない笑顔を眺めていた。下手に出ても威圧的に攻めても、称賛も嫌味も皮肉も揚げ足取りも全て華麗に躱していく。
その手腕は中々見ることのできない一面で、小夜は不覚にもときめいた。何とも思っていない上司の意外な辣腕ぶりを垣間見たような気分でる。
だが、断り切れない場合もあった。
「今宵は是非、妹と踊っていただきたく馳せ参じました」
ストレートに申し込まれては、その先何手かわそうとも難しい。ルキアノスは観念するように、ついに「……では」と頷いた。
「私めで良ければ、是非」
「嬉しい! 念願が叶いましたわ。――では、お借りいたしますわね」
十代半ばとおぼしき可愛らしい女性が、両手を合わせて喜色を浮かべる。その直後、隣の小夜に勝ち誇ったような笑みを向けたが、小夜は苦笑気味に「どうぞ」と言う他なかった。
ルキアノスと釣り合いの取れた女性が、連れ立ってダンスの輪に加わる。ぽつねんと残された小夜は、彼らが離れていく距離に比例して不安をこじらせた。決して、煌びやかな人だかりの中に向かう二人があまりに自然でお似合いだからでは……ある。
(嫉妬はねぇ……しても仕方ないんだけどねぇ……)
嫉妬する資格がないとまでは言わないが、嫉妬しても虚しいことは事実であった。小夜はどんなに頑張ってもルキアノスと付き合うことはないし、ましてや結婚など絶対にありえない。
しかしルキアノスはいつか必ず結婚する。もしかしたら、その場面を目にする時も来るかもしれない。
(まぁ、ルキアノス様に婚約者ができたら、もう二度と喚ばれない気もするけど)
それもまた虚しいというのは、何とも手の施しようのない我が儘であった。
自分の思考にずーんと落ち込む。周囲が華やかなだけに、自虐も一層堪えた。挨拶が途切れたのをいいことに、目の前に並べられた軽食にもそもそと手を付ける。食前酒なども置かれていたが、喚ばれた初日の失態がまだ生々しい小夜は、あえて酒は存在しないことにしていた。
「小夜様、お疲れ様です」
肉を頬張っている時に声をかけられて、小夜はびくっと過剰反応する。だが顔を上げてすぐに安堵した。
「エレニ! アンナ!」
今日の小夜を作り上げた功労者の二人が、いつものお仕着せではない可愛らしいドレスを身に纏って立っていた。パートナーとして、ニコスとヨルゴスもいる。
「心のオアシスよ!」
思わず叫んでいた。
今日はルキアノスの誕生会ということで、四人とも国王の生家であるヴラォス伯爵家の関係者ということで特別に招待客として舞踏会にのみ参加することは事前に聞いていた。姿絵や文面だけで知っている相手ばかりの中において、彼ら四人の存在は真に小夜の張りつめた心に潤いを与えてくれた。
「頑張ってらっしゃいますね」
「全然だよー。もう事切れそう。みんなは楽しんでる?」
「場違いすぎて胃が痛いです」
「食事が美味しい」
苦笑するエレニと真顔で答えるアンナに、小夜は久々にほっこりする。
「とにかく、皆が来てくれて助かったよ。一人じゃ心細くて」
「殿下も、全てを断り切れるとは考えていませんでしたからね。不在の間を任されましたので」
エレニの告白に、こんな時までルキアノスの手回しの良さに感心した。この分なら、セシリィに散々教え込まれた勉強はほとんど無駄になるかもしれない。
だが、その穏やかな時間は唐突に破られた。
「やっと番犬が離れたようだ。余の相手を願えるかな」
「え?」
横から放たれた美声に、耳が勝手に反応する。だがその顔を認識する前に、エレニたちがことごとく膝を折った。
「へ、陛下」
「この度は誠におめでとうございます」
「あぁ、いい。気にするな。――さぁ、行くぞ」
ニコスとエレニがそれぞれ言祝ぐ声になおざりに応えて、考える間も与えず小夜に手を伸ばす。その雰囲気には、圧倒的なほどに有無を言わせぬ迫力があった。
「さあ」
「…………」
嫌です。という台詞が百個くらい列車のように走り抜けた。
ルキアノスに再会した時にも思ったが、今度こそ嫌ですと言えば現実的に爆死するであろうことは確実と思われた。
退路のなさに冷や汗がだらだら流れる。目が泳ぐ。だが周囲に助けを求めるも、誰も目を合わせてくれなかった。
なぜなら皆一様に、我らが元首に頭を垂れているから。
逃げ場は、ない。
「…………。是非」
そうして、恐怖の時間は幕を開けた。