夢のごとき一時
会場に足を踏み入れた瞬間、小夜は思った。
(死ぬ……!)
控え室で待っている間も場違い感は酷かったが、今はもう浜に打ち上げられた魚よろしく、体が全く言うことを聞かなかった。勿論目は死んでいる。
その死んだ目が映すのは、豪華絢爛な空間である。
長方形と認識するにも数秒かかる広大な大広間、身の丈もあるような絵画が等間隔で飾られた壁、大小のシャンデリアが交互に吊り下げられた天井、マーブル模様の大理石が敷き詰められた床は塵一つなく輝いている。
入口の両側には宮廷楽団の面々が並んで座り、ゆったりとした曲を奏でる。大広間の両側には軽食を載せた長テーブルが並び、休憩のための椅子や長椅子もある。既に先に大広間に入っていたらしい招待客たちは既に思い思いに歓談し、くつろいでいる。
そして正面奥の一段高くなった場所には天鵞絨張りの豪奢な席が設えられ、この国で最も高貴な人物を待ち構えている。その両側に並ぶ椅子も、王族用らしく目も眩むような存在感を放っていた。
(もしかして、アレに座るの……?)
血の気が引いて眩暈がする、という体験を小夜は初めて味わった。
ルキアノスに掴まっていた腕から力が抜け、どう頑張っても足が前に進まなくなる。
「小夜?」
「……す、すみません」
訝るルキアノスに、カラカラに乾いた舌を必死に動かして応じる。だがどうしようもなく体は震えた。感じていた暑気は失せ、指先がどんどん冷たくなる。その固まった体を、優しい温もりが包み込んだ。
「? ……ル」
「オレに対するよりも緊張するものがあるとは、意外に癪だな」
小夜の肩を引き寄せ、その胸に抱き留めた小夜を間近から見下ろして、ルキアノスが嬉しそうに笑う。それがあまりに近くて、小夜は思わず後ろに逃げようとした。けれど逃げるにも力が入らず、視線を彷徨わせて、気付いた。
今この時だけは、小夜の視界にはルキアノスしかいない。心胆を寒からしめる舞踏会場も、周囲から向けられる好奇の視線もない。
(……不器用だなぁ)
緊張をほぐそうとしてくれたのだと理解すると、途端に強張っていた体から余計な力が抜けた。多少の優越感が見えるルキアノスの瞳にいつもの優しさが見えて、にこりと笑う。
「!」
「ありがとうございます。私が一番緊張するのは、やっぱりルキアノス様です」
時折、というか大抵は心臓に悪い程のドキドキだが、今は自分の胸の拍動が不思議と心地よかった。
この人が好きだと、改めて思う。
「さぁ、行きましょう」
「あ、あぁ」
ルキアノスの胸に手を触れて、先を促す。一拍遅れてルキアノスが左足を引き、と同時に視界が再び開けて会場が目に入ったが、もう先程までのようなきりきりと締め上げるような緊張は薄れていた。
(怖いけど、大丈夫)
隣にはルキアノスがいる。踊る相手もルキアノスだけだ。それだけで、不思議と心は静まった。
しかしながら徐々に会場の人口密度が高まり、ついに大物が入場すると、さすがに再びの冷や汗が浮かび始めた。
「国王陛下、並びに王妃殿下御入来ー」
「!」
しっとりとした楽曲の合間に鳴らされたラッパが、ついに最高権力者の入場を告げる。会場に満ちていた緩やかな空気が一気に緊迫する。中央にいた人々が自然と道を空け、その間を一組の男女が靴音も高らかに進む。
果たして、彼らは会場中の注目を一身に浴びて小夜の視界に登場した。
途端、視線が釘付けになる。それ程に、その二人は輝きを放っていた。
国王テレイオスは艶やかに輝く程の夜会服を着こなし、胸には無数の胸章を付け、肩からは夏だというのに薄手の外套を靡かせている。王妃リアナも白いサテンのような光沢のあるドレスに身を包み、ヴェールのような薄い領巾が背中側から手首に繋がり、動きに合わせて美しく翻った。
とても二人とも四十代前後とは思えない。それ程にこの国の王と妃は若々しく、神々しくさえあった。
(本物だ……)
阿呆のように口が開く。その手を、丸テーブルの下でルキアノスに掴まれた。えっと驚く。そして次には、自分の手が知らず震えていたことに気付いた。
見ればルキアノスの表情にも、少なからず緊張の色が見て取れた。それで自分の緊張が和らぐというのも変だが、小夜は口パクで「大丈夫です」と応える。
そんなやり取りのうちに、両陛下は席の前まで来ると会場に向けて振り返った。席の側に控えた侍従長が朗朗とした声で会の始まりと、国王の挨拶を告げる。
会場が一層静まり返り、視線が物理的な力を持っているのではないかと思う程熱量が高まる。その中でテレイオスは、もったいぶる程にゆっくりとその口を押し開いた。
「本日は、愚息ルキアノスの誕生を祝う席に御足労頂き、感謝する。面倒な会はすでに終わっている。ここからは気楽に楽しんでくれ」
(大物声優さん来たぁぁぁ!)
ぴょこんっ、と小夜は元気になった。目をカッと見開き、緩みそうになる口元に全神経を集中させて頑張る。
(今日も一日頑張れる!)
テレイオスのお声は、アニメ発展期には聞かない日はないという程の人気を博したマルチプレイヤー声優のそれであった。深みのある太くダンディーな声で、洋画の吹き替えも多くこなし、動物や擬音の声真似も得意という万能な方で、一つのアニメで十以上の役の声を務めたこともあるという。
嬉しい誤算に、小夜の緊張は半分以上どこかに吹っ飛んだ。最早今日の主役であるルキアノスを平然と愚息呼ばわりしたことなど何とも思わない。
「現金な女め……」
「ンハッ」
隣から恨めしそうな声が聞こえた。
こうして、第二王子誕生会の最後のメインイベントである舞踏会は始まった。
本日の主役であるルキアノスも続いて挨拶を述べたが、手短に済ませて再び両親に主役を譲る。
まず国王と王妃が会場の中央に進み出るのに合わせて、宮廷楽団が改めて楽器を構える。軽やかな楽曲が流れると、二人は完璧に息の合った優雅なダンスを披露した。
それが終わると今度はついにルキアノスの番である。
国王が完全に着席してからルキアノスが立ち上がり、緊張がピークを振り切った小夜に手を伸ばす。その手に自分の手を重ねて前に出れば、いざ、始まりである。
(無心無心無心……)
手汗、毛穴、汗の臭いに代わる呪文を唱えながら輪の中心に立つ。シャンデリアの光と会場中の熱気と好奇の視線で、目がちかちかする。それでもルキアノスが正面に立てば、視界の半分は塞がれ、呼吸が僅かに正常に戻る。
聞こえてきた楽曲は、三つのなかでも最も練習したクーラント。ルキアノスがかざした左手に右手を添え、左手を右肩に乗せる。
「行くぞ」
「は、はい」
耳元での合図にびくっと背筋が伸びる。だがそのお陰か、体はどうにか動いてくれた。
一拍目は大きく踏み出して上に伸び、二拍目は摺り足で前進、三拍目で後ろに抜く。基本はこの繰り返しで、女性は男性に身を委ねる。体が強張っていたのは最初だけで、次第に対ルキアノス練習の効果が表れ始めた。
(夢みたいだ)
オーケストラのような楽曲と素敵な王子に身を委ねて、絢爛豪華な舞台でお姫様のように踊る。
まさに夢のごとき一時であった。