軽く嵌められた
それまで沈黙を保っていたルキアノスの突然の発声に、一瞬聞き逃しそうになったが、そこは超高音質かつ自動補正のかかる小夜の耳である。数秒ののち、小夜は直前の台詞を理解した。
が、何が『なかった』のかが分からない。
小夜は頬張っていたお菓子をお茶で流し込んでから、恐る恐る問い返してみた。
「えっと、何がでしょう?」
「卒業に対する祝いの言葉だ」
「? 祝いの言葉は言って……」
そこまで言いかけて、小夜は初日の朝の出来事を思い返した。小夜は確かにおめでとうと言った。だがそれは誕生日に対してである。卒業云々に関しては、そもそも触れてもいない。
(そうだった! 乙女ゲームの中じゃ卒業なんてやってこないから!)
ルキアノスは永遠の十七歳だし、季節は巡っても舞台はいつまでも学校であったから失念していた。現実ならばお祝儀の一つや二つ出すところである。
「……ませんでした。すみません……」
サーッと血の気の抜ける音を聞きながら、着席のままで平伏する。もしかしたら、ルキアノスの不機嫌の原因はこれだったのかもしれない。
「あの、改めて、ご卒業おめでとうございます」
「……別に、言葉など無理強いしたりはしない」
上目遣いで告げると、ルキアノスが怒ったとも拗ねたとも取れる顔でやっとティーカップに口をつける。
小夜が返す言葉を見失っておろおろしていると、セシリィが溜め息混じりにルキアノスを諫めてくれた。
「してるじゃないの。本当、子供ねぇ」
身内だけしかいないためか、口調が幼馴染みのそれになっている。もとい、呆れているだけかもしれない。
実際、ルキアノスは図星だったのか余計に不貞腐れて見えた。
「仲良いねぇ」
「良くない」
「良くないわよ」
微笑ましく呟くと、両隣から訂正された。まだ仲が悪いらしい。
(結構お似合いだと思うんだけどなぁ)
二人とも頭が良く、機転がきいて行動力もある。セシリィは時々視野が狭く、ルキアノスは劣等感が根深いが、それはお互いで埋めていけるものだと思う。
(他の誰かよりも……)
ルキアノスがいつか結婚しなければならないのなら、セシリィがいい。それは酷く身勝手な望みで、考えるだけでも胸が痛んだ。だがそれで二人が幸せになれるならその未来が良いと、小夜は唐突にそう思った。
(だって、今回婚約者が決まらなくったって……)
エヴィエニスが王位に就けば、ルキアノスが王太子になる可能性が現時点では最も高い。ファニとの婚姻が破談になれば尚更である。血統という点で、ルキアノスは決して逃げられない。
今回こんな奇策を打てるのは、ルキアノスがまだ大人ではないからだ。そして大人になったら、ルキアノスは手の届かぬ人になる。
ルキアノスが成長していてあんなにも動揺したのは、無意識のうちにそのことを理解していたからなのかもしれない。
(君が大人になってしまう前に、か)
ふと、以前に聴いた曲の名前が浮かぶ。
そして次には、気持ち身を乗り出してこんなことを言っていた。
「あの、お祝いの品とかお祝儀は用意できないですけど、代わりに何か出来ることがあれば全力で頑張るので!」
「あ、小夜っ」
「え?」
拳を握って誠意を伝えたら、反対からセシリィの慌てたような声が割り込んだ。ぱちくり、と右隣を見る。その後頭部に、背筋が震えるような艶のある美声が投げ掛けられた。
「……言ったな?」
それは、それまでとは違う実に不穏な声であった。滑らかなのに粘っこく、鼓膜の奥がぞくりと震える。
小夜は、嫌な予感に追い立てられるようにゆっくりと振り向いた。
爽やかな笑顔が待っていた。爽やかすぎて目が潰れるかと思った。
「…………え?」
なんか目がチカチカするなと思いながら、怪訝な声を上げる。何故かがっちりと左手首を押さえられた。
そして軽く嵌められたらしいと気付いた時には、怒濤の要求が始まっていた。
「ではさっそくオレから卒業祝いを要求しよう。まず今から用意する書類にサインをしてもらう。勉強が終わったら街に出て、ある屋敷に行くぞ。そこで某人物と面会を」
「ままま待ってください!」
「待たない。オレは正当な祝儀を要求する」
「いやいやなんか怖いですって何ですかその流れるような要求は!?」
「オレは今最も忙しいから時間は一秒でも無駄に出来ないからな」
「忙しいのになんで私に書かせる書類なんか用意してるの!? なんか分かんないけどすごい怖いよセシリィ!」
左手を取られたまま、涙目で反対側のセシリィを振り向く。苦笑とも諦念ともつかない表情と生暖かい視線を向けられた。
代わりというように、それまで素直に会話を譲っていたクレオンが、ビスキュイを頬張りながら無邪気な笑顔でとんでもないことを言った。
「新居でも見に行くのか?」
「ししし新居!?」
ルキアノスの恐ろしいほどの準備万端さにおののいていた小夜は、今度はその単語に顔を真っ赤にした。別にいかがわしいものではないはずなのに、頭の中に閃いたのが「新婚夫婦のための」新居というイメージであったからだ。
(CMのせいCMのせいCMのせい!)
よく分からないが責任転嫁した。
そんな小夜を一通り観察してから、やっとセシリィが嘆息と共に口を開いた。
「殿下。冗談にしてはやりすぎではなくって?」
「オレはほん」
「冗談は、程々になさった方がよろしくてよ?」
小夜の右から左へと、笑顔の圧が飛んでいた。
数秒の膠着状態。
折れたのは、必然というかルキアノスであった。
「……分かった。少し……調子に乗った」
掴んでいた小夜の手首を名残惜しげに解放する。小夜は中々引かない顔の火照りを感じながら、その左手を慎重に自分の胸に抱き寄せた。ルキアノスの手のひらが触れていた箇所だけ、甘く痺れるような錯覚がする。
(び、びっくりした……)
心拍よ早く鎮まれと念じながら、小夜はティーカップを親の仇のように見つめていた。最後まで、冗談だとか悪ふざけが過ぎたなどとは言わなかった点を気にしながら。
だから気付かなかった。その横顔を見つめるルキアノスの眼差しの真剣さに。