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機能回復訓練

「そろそろ和解はできたかしら?」


 叩扉の音がしてすぐ、押し開かれた扉からそう言って現れたのはセシリィであった。

 いつもダンスの練習ではピアノの演奏で付き合ってくれるのだが、今日は用事があるとかで、昼食後は別々に部屋を出たのだ。

 遅れての登場は特段不思議ではないはずだが、今の台詞とルキアノスの眉間の皺を見る辺り、一工作されたようである。


「別に喧嘩などしていない」


 ルキアノスが部屋の中央に戻りながらそう答える。どうやら、エフティーアだけでなくセシリィも何やら荷担していたらしい。


(意外と心配されてたのかな?)


 だとすれば悪いことをしてしまった。嫌なことから逃げて他人様に気を使わせるとは社会人の風上にも置けない。


「ごめんね。お陰でちゃんと謝れたよ」


「そう? それなら良かった、とひとまず言っておこうかしら」


 少しばかり晴れやかな笑顔でセシリィが頷く。それから、この日のダンスの練習は始まった。

 セシリィがグランドピアノよりも一回り小さな鍵盤の前に座り、ポロンと指を置く。小夜が知る音よりも少し掠れて雑味があるが、それがまた味になって心地よい魅力を持つ。

 それを合図に小夜の体が強張り、その眼前に一歩の距離を開けてルキアノスが立つ。両手を小夜に向けて伸ばした姿は、まさに文句のつけようもないほど貴公子然としていた。


(……やばい、無理かも)


 冷や汗と羞恥が同時に沸き上がって、小夜は早くも容量超過キャパオーバーを予感した。

 エフティーアの時も硬さが取れないと最後まで怒られていたが、あれは頭の中でステップを繰り返していたからだ。しかし今、錆びついたゼンマイ人形よろしく腕の上がりがぎこちないのは、目の前の人間が声も発していないのに輝きすぎているせいであった。


(お願いだから一言も喋らないで!)


 内心で阿呆な懇願をしながら、右手をルキアノスの左手に重ね、左手をルキアノスの右肩に置く。姿勢を整えたらまずは見つめ合え、というのがエフティーアの指導だが。


(手汗……毛穴……汗の臭い……)


 頭の中では乙女の恥じらいとはかけ離れた単語が巡っていた。もはや赤面する余裕すらない。

 だというのに、セシリィは構わず音頭を取り始めてしまった。


「じゃあ、まずはクーラントから」


 一、二、三とセシリィの玲瓏な声が響き、ルキアノスの体がゆっくりとピアノの音に乗る。小夜をいざなうために爪先が向きを示し、膝が曲げられ、滑らかな動きでステップが繰り返される。小夜はそれに合わせて、習った通りに足を動かし、体を揺らすようについていくだけでいい。

 のだが。


「……その腰の引け方はなんだ?」


「も、もうちょっとリハビリ期間が欲しいんです……」


 ピアノの三拍子の代わりに木霊する夢の欠片もない三単語のせいで、基本の姿勢である上半身をくっつけることが出来ない小夜は、間抜けなほどへっぴり腰であった。

 ルキアノスが、心配と懐疑と苛立ちを混ぜた顔で片眉を上げる。


「リハビリ? 何のことだ?」


「リハビリとは機能回復訓練のことで……機能が……機能が……っ」


(そもそもポンコツだったのに、回復とか……!)


 自分で説明していて、小夜はひどく居たたまれなくなった。

 回復などと、対ルキアノスにおいて正常に機能したことがほぼないのに、よくも言ったものである。


(お、おかしい……こんなんだっけ?)


 好きな相手が出来れば、エチケットが普段以上に気になるのはおかしなことではない。この至近距離であれば、化粧でも誤魔化せないものが見えていそうで気が気でないのは、女性には一般的な懸念であろう。

 しかしここまでの反応が過剰であることは、さすがの小夜も理解していた。今まで恋をしたことは一応あるが、ここまでポンコツに成り下がったりはしなかった。


(いや、ダンスしてないからかもだけど)


 それでも、接触や会話はもう少しまともに出来ていたはずだ。

 ルキアノスに対してそうできないのは、何故なのか。


(まぁ、声のせいなんだけど)


 意識的にそう答えを出す。取り敢えず、他の答えはまだ気付かぬふりをしていたい。

 だが気付かないでいられないこともある。練習からこの調子では、誕生会当日の成功など絶望的である。恥をかくのは嫌だが、ルキアノスに恥をかかせるのはもっと嫌だ。


「小夜?」


「ごめんなさい。やっぱり……」


 突然口を閉ざした小夜を怪訝に覗きこむルキアノスに、無責任を承知の上で、自信がない、と続けようとした時であった。


「お小夜さんが来ているというのは本当か!?」


 どばぁん! とけたたましい扉の開閉音を立てて、更にけたたましい大音声が部屋中に響き渡った。

 呆気に取られる三人の前で、扉を開けた張本人が悪戯好きな濃い碧眼をきらきら輝かせて小夜をロックオンする。

 その姿に、小夜は目をぱちくりと瞬いて、首をかしげた。


「クレオン様?」


 相変わらず唐突に現れたのは、セシリィの二番目の兄であるクレオン・クィントゥスであった。肌の色が記憶よりも大分大人しくなっているが、首の後ろで乱雑にまとめられた濃茶の髪といい、立派な体格といい、間違いようがない。

 しかし小夜の最後の記憶では、クレオンは好奇心と探求心に負けて現在学校を休学中で、セシリィの無事を確認したあとは再び冒険の荒波に身を置く母(注・小夜の勝手な想像である)の元に戻ると聞いていたのだが。


「遠くに旅立ったのでは……?」


 身も蓋もない聞き方であった。

 その隣で、ルキアノスが片手で顔を覆って盛大な溜め息をついた。


「折角ここまで隠し通したのに……」


 相変わらず、ルキアノスはクレオンが苦手らしい。その様子に、小夜は本人に悪いと思いながらも内心で安堵していた。張り詰めていない、少し子供っぽい横顔に、それまでの緊張が解れて、胸がむずむずと温もる。

 そんな小夜の両手を、クレオンが若干引くくらいの笑顔で持ち上げた。


「今日学校に顔を出したら、ヴァシレイノ司祭からお小夜さんが来ていると聞いてな! 会えて嬉しいぞ!」


「わっ」


 そしてぶんぶんと上下に振られた。相変わらず賑やかなお方である。年相応に元気な少年に出会えて、小夜はやっと自然な笑顔で礼を返した。


「私もお会いできて嬉しいです。クレオン様もルキアノス様のお誕生会のために戻られたのですか?」


「それが実は、お小夜さんがいなくなってからめっきり雰囲気が悪くなってなあ!」


「そうなんですか?」


「殿下は日に日に機嫌が悪くなるし、セシリィもなんだかよそよそしいし、父上は毎日小言が駄々漏れで、全く困ってしまってな!」


「そうなんですね」


 AHAHAHA! とまるで困ってなさそうに笑うクレオンに、小夜も笑顔で無難に返す。

 社会人の会話の「そうなんですか?」と「そうなんですね」は、応用率90%の便利な相槌だと小夜は思っている。特に話を聞いて欲しがる相手であれば、その真意がどうであろうと笑顔でさえいれば問題ない。


(相変わらず安定のマイペースだなぁ)


 掴み所が難しいのも変わらないが、親密な付き合いがあるわけでもない小夜には、崩されるペースもない。安心できる相手に、つい笑顔からも気が抜ける。と、ぶんぶん振り回していた手がやっと止まり、クレオンの精悍な顔が更に近付いた。


「しかしこんな所で会えたのも何かの縁。是非俺の」


「その手を離せ」


「!」


 出し抜けに別の声がかぶさって、小夜の体が背後から強引に引っ張られた。クレオンに掴まれていた両手が強制的に剥がされる。

 驚いて振り向けば、すぐ真横にルキアノスの端整な顔があった。いつの間にか復活したらしく、小夜の肩越しにクレオンを威嚇している。


「な」


「あと変なことは言うな」


 何故そんなところから、と目を白黒させて問い質そうとした小夜よりも早く、ルキアノスが追加の文句を言う。

 一方、手の中のものを奪われたクレオンは、しかし怒るでもなく至って真面目にこう忠告した。


「離れていた間の近況報告はした方がいいぞ? でないと母上にはぼこぼこにされる!」


「オレはクィントゥス侯爵夫人には二度と近付かん!」


 予想外の返しがきた。顔色がわりと悪い。


(……どんな人なんだろう)


 動揺も引っ込んで、まだ見ぬ貴婦人への想像が否応なしに膨らむ。取り敢えず、行儀には厳しいお方のようだ。

 いささか珍妙な沈黙が場に落ちる。と、


「お茶にでもしましょうか」


 セシリィが、放っておけないというような優しい声で助け船を届けてくれた。小夜は勿論一も二もなく飛び付いた。


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