ルートにない台詞
一世一代の芝居をうって希望の就職先を勝ち得た小夜の頭は、朝からほぼ死んでいた。
行き先は天国かもしれないが、地上に残っているのはつまり役立たずである。
「オレが一言発するたびに下から両手合わせるのは、誰かに向けての暗号か何かなのか?」
場所はタ・エーティカ王立専学校の特別学寮にある第二王子ルキアノス専用階の一室である。
小夜は今日から、他の侍従や使用人たちと同様、侍女として主人と同じ階にて起居することとなった。
つまり、お声を聞くだけでポンコツに成り下がってしまうあのお方と、である。
「ッハ! す、すみません、またやってしまいました……!」
苦笑と共に見下ろすルキアノスに、小夜は耳から麻薬が入ったかのように頭がくらくらする。肩にトリコが留まっていなければ、一人屋上に駆け上がって勝手に青年の主張をしていたかもしれない。
(皆さーん! ここにこの世の美声がありますよー!)
しかしそれではいつまで経っても仕事にならない。加えて同僚に不審者を見る目を向けられる。支障があるどころではなかった。
(これはいかん! 新人営業を給料泥棒とは罵れない!)
だが正直、第二王子付きとしてはぽっと出の新人であるところの小夜には、意味のある仕事など一つもなかった。実際、労働という面では一人の侍従の下、二人の侍女で全ての仕事が回っているといって良く、紅茶の一つもろくに入れられない小夜の出番はなかった。
残る側仕えは近侍で、彼もまた側にいる以外は何もしていないように見えるが、護衛である。
(役立たずは私だけ……)
地味に精神力を削る状況である。
「まぁ、別にいいけどな。いくらセシリィの魔力が強くても、オレには剣もあるし」
顔を真っ赤にして頭を下げる小夜に、ルキアノスはからりと笑って剣帯だけしかない腰に手を当てる。
学校は基本的に武装禁止だそうで、帯剣できるのは寮の自室のみと決められている。だが魔法を使えば強度は弱くても武器を作り出すことは可能らしく、距離と手元には常に気を付けろとはトリコの忠告だ。
ゲームの設定でも、剣も魔法もエヴィエニスには敵わないまでも、ルキアノスもそれなりに腕が立つとあった。
つまりその仕草は、半分以上本気といえた。のだが。
「はい! ルキア様が剣を振る時の掛け声、私も楽しみです!」
「楽しみにしてどうするのよ!」
ルキアノス専用らしい椅子の背をすっかり自らの止まり木に指定したらしいトリコが、呆れたように突っ込む。
確かに、ルキアノスが次に剣を振るとすれば、対象は自分かもしれないのだ。楽しむ余裕はきっとない。
(あぁぁ! きっと格好いいのにぃ!)
美声の天秤の向こう側は自分の命だった。頭を抱えて悶絶する。と、その頭上にまた可愛らしい笑声が降ってきた。
「っはは! やっぱり面白いな。最初は面倒事を押し付けられると思って乗り気しなかったけど、ちょっと悪くないかもな」
「あ、ありがとうございます」
そんな無邪気に笑われてはキュンキュンするではないか!
と思いながら、頭を下げる。
自分は侍女、自分は侍女、と頭の中で連呼し続けなければ、またも話が進まなくなってしまう。
こんなやり取りをしているが、今はやっとルキアノスの食事と身支度が終わり、これから登校という時間なのだ。
実際、寮の外でも、学校に向かう人の気配が動き出している。遅刻は良くない。
「暗躍でも間諜でも別に今さら構わないけど、なるべく最後まで楽しませてくれよ」
軽く手を上げ、ルキアノスが扉に向かう。その背に遅れないようにと付いていきながら、小夜はまるで説得力のない言い訳を返す。
「ですから、私はそんなつもりではなく、純粋にルキア、ノス様にお仕えするつもりで、」
「でも、仕事なんかないだろ?」
「ぐぅ……」
ぐうの音だけが出た。勤務二日目にしてすでに上司にバレている。
昨日は、セシリィの寮部屋から荷物を移動させて、大まかな仕事の流れを侍女に教授され、ティーバッグではない紅茶の入れ方に四苦八苦して眠りについただけだったのに。
「まぁ、セシリィは侍女になったといってもそれはオレたち内輪だけの話だからな。表面上は侯爵令嬢で、ここの一生徒のままだ。仕事と言うなら、オレの隣で一緒に授業を受けることくらいだろうな」
「ご褒美か!」
ジーザス!
と、実家に曹洞宗の仏壇がある日本娘は両手を突き上げた。
◆
「では、今日は前回からもう少し発展させた方法で魔法の成り立ちと仕組みについて取り組んでみましょう」
二十人に満たない生徒を前に、壇上に立った老境の男性が淡々と喋ってい
る。
「魔法は元々、神々にのみ許された神秘であり秘技ーーそれを賢才種の祖先が盗み、世界に広めたことが始まりだという話でしたね。古くは神様の力を借りる法ーー借神法とも呼ばれていましたが、ではそもそも、神々はその力の根元を一体どこから引き出しているのか、ということについて、今日はもう少し掘り下げて論議していきましょう。これらについて、細かい話はまた神科でも行うでしょうが、観点を変えれば、面白い見方が出来ます。第二の神々が溢された十二滴の血から生まれた我々六種類の人は、唯一にして絶対の繋がりであるその血から、魔法を発動していると考えますが、そもそも、この世界に溶けて漂う原初の神々には、血肉という考え方があったでしょうか。魂、という考え方が信仰の中には存在しますが、科学的な実証はまだできてませんね。それもまた、不思議な存在のひとつです。魔法と同じように、目に見えない場所に存在し、目に見えない所から忽然と現れる。勿論、手順や制約はそれぞれに存在しますが、一見すればこの二つは相似点が多い、と考えるものも少なくありません。この手の話は、特に医科の先生方の反発を買うかもしれませんが、突き詰めると、肉体に魔法は宿っていない、となるはずです。この論理の組み立てについて、今日は皆さんにそれぞれ私見を述べてもらいます」
頭が湧いた。
専学校での授業は講義を聞きながら議論するものと、各自で研究を進めながらブラッシュアップするものとが主流のようだ。先生の話を聞きながらボーッとノートを取るふりをするという形は少ない。
セシリィに喚ばれたその日、トリコと「鳥は魔法を使えない」という話をした。では今の小夜には使えるのか、という問題について、トリコはまずこんな話をした。
『小夜は今、わたくしの言葉が分かるでしょう。そして恐らく、読み書きもできる。けれどこの国の秩序や人間関係、昨日の出来事は分からない。喉が乾けば水や薄めた葡萄酒を飲むということは分かっても、飲める場所は分からない』
『確かに……あ!』
ここまで言われれば、小夜でも思い当たるものがあった。
『記憶喪失みたいなものかぁ』
『仮説だけれどね。体が覚えていることは出来るけど、頭が覚えただけのことは出来ないと思うわ』
より正確に言えばワーキングメモリや印象の薄いエピソードメモリが消え、日常生活などに基づいた長期記憶だけが残った状態ということだろう。確かに似ている。
『じゃあ、体に染み付いてるほどの魔法じゃなければ使えないってことか』
残念、と小夜は大いにしょげたものである。
そして今眼前で繰り広げられる授業は、当然のごとく小夜のザルな頭を素通りしていった。知識の代わりに、頭痛の種を植え付けて。
「魔法と神学と歴史では常に背筋を伸ばしてる印象だったけど、今日は死んでたな」
授業終了後、教室を移動するために廊下を歩きながら、二歩前を行くルキアノスが愉快そうに数分前を振り返る。
小夜は終了間近、教師に名指しされてしどろもどろになった結果、答えられなくて体調不良を心配された挙げ句、元気なら次回の授業までに調べてくるようにと課題まで出されてしまった。
踏んだり蹴ったりとはまさにこのことである。
「情報過多で脳がやられました……。ルキア様の美声をわずかでもお恵みくださればたちどころに復活致しまする……」
げんなりと後ろをついていきながらも、既に大好きな声優と同じ声を聞けているのだから、気分は早くも戻りだしていた。
手を組んで目を瞑ると、どんどん自分の世界に入ってしまうことに気付いた小夜は、ルキアノスの声を聞くときは目をかっ開き、口を真一文字にする、という対抗策を取った。そうすると現実から目を逸らさずに済み、冷静さが戻るのが少しだけ早いのだ。
勿論、ルキアノスが囁いたり、いつもと違う声調を使ったりすればあっさり轟沈するのは目に見えているが、幸か不幸か、その場面にはまだ浴していない。
だがそもそも学校は公共の場で、廊下には他にも生徒たちが何人も歩いている。セシリィのイメージをこれ以上所構わず壊してはあとが怖い。
ちなみにその本人はというと、さすがに授業にまで鳩より大きな鳥を連れ回すのはまずかろうということで、ルキアノスの部屋でお留守番だ。
「美声ってなんだよ。薬か何かか?」
「私にとっては不死の妙薬に等しく!」
明らかに呆れた声に、思わずビシッと背筋を伸ばして敬礼していた。ルキアノスが白い目を向ける。
「お前が言うと、まさか魔法かなんかに転用する気なのかと疑えるんだが」
「いえいえそんなルキア様のお声を悪用なんて! あっでもボイスレコーダーがない今ルキア様の名言を一言一句記録して夜な夜な聞き返す手段が魔法にあるのであれば追及するもやむなしか!」
「…………本気か?」
「賛辞です!」
怪訝なルキアノスに、全力で返す小夜。会話が微妙に噛み合っていないと気付いたのは、一拍遅れてからだった。
(あ、もしや魔法で暗殺とか、そんなことを疑われたのかな?)
声で一体何をどうこうとは思うが、魔法も仕組みも知らない小夜に断言できる根拠はない。
友好的な信頼の回復を目指して侍女になったのに、怪しまれるのはセシリィのためにも得策ではない。
小夜は改めて、今しがたの発言を自分でフォローした。
「えっと、つまり……ちょっと、ルキア、ノス様の声がとても良いお声なので、聞いているだけで幸せな気持ちになれるというか」
「そんな様子は今まで見たこともないぞ。どちらかと言うとオレが兄上に意見したら、泥水に捕まってもがいている羽虫でも見る目で見てただろう」
「そこまで!?」
そう言えば、エヴィエニスのことは好意的に見てるだろうと知っているが、他の面々に対する態度は聞いていなかった。後で聞いてみた方がいいかもしれない。
今さら手遅れだとは、小夜もなんとなく思うけれども。
「もしかして、本当に謹慎中に病気でもして耳を病んだのか?」
「いや、病気というか、ちょっと自分でも今までの態度は良くなかったと改心したというか……とにかく、ルキアノス様のお声はとっても良い声だと言いたかっただけなんです!」
他意はないと、小夜は声を大にする。だがルキアノスの眉間に寄った皺は少しも戻らなかった。
「声を誉められたことなんて今まで一度もないぞ」
「そうなんですか? 信じられない。私にとっては世界一素敵な声なのに」
「……兄上よりもか?」
「もちろんです!」
答えてから、それはさすがにセシリィの設定を壊しすぎる、と小夜も気付いた。
「あっ、いえ、あの、今のは……」
嘘です、とは言いたくないが、否定しなければセシリィとしては不自然だ。と視線をさ迷わせて悩んでいると、ふっ、と笑われた。
ドキッとして顔を上げると、これまでの無邪気なものとは違う、うっそりとした笑みがあった。
「ついこの前まで兄上至上主義だった女が、どういう風の吹き回しだ?」
それは王子様には相応しくない、悪役じみた言い回しだった。小夜を面白いと笑っていた声とはまるで違う、低まってどこか艶を帯びた声。小夜の言葉などまるで信じていないのが嫌でも分かる。
だが今の小夜に、この言葉に対する弁明を紡ぐほどの余力はなかった。
何故なら、先程のセシリィへの気遣いも出来ずに床に両手両膝をくっつけていたからである。
(ふ、不意打ちが……!)
小夜が愛してやまない声優は、若い頃には主人公もよく演じたが、近年多いのは場を盛り上げるようなムードメーカーだった。元気っ子だったりビビりだったり、大騒ぎするユニークキャラが目立って、美形やイケメンキャラとは中々縁遠かったのだ。
だからこそ、乙女ゲームに出ていると知った時は一も二もなく飛び付いて、囁きボイスを収集しまくった。しかしそれでも、得られない類いの声があった。
艶系の悪役ボイスである。
(まさかこんな所でこんな風に言われるなんて……!)
ルキアノスの侍女になれるかもしれないとなった時、ゲームのような囁きボイスを側で聴けるかもしれないとは、期待した。
だがまさか今までにない種類の声を、しかも自分に向けて発していただけるとは。
「お、おい?」
人目も憚らず床に轟沈した小夜に、ルキアノスがさすがに心配したように声をかける。
だが残念ながら、今の小夜にその価値は微塵もなかった。
何故なら。
「ルートにない台詞、いい!」
つまりそういうことである。