悪いのは脳
小夜の小声の拒絶は、幸い誰にも聞き咎められなかった。
しかしそのために、エフティーアがルキアノスを部屋に招き入れるのを止められなかった。
「何が嫌だって?」
「幻聴です!」
出し抜けに発せられた美声に、小夜は反射的に背筋を正して自己弁護した。
勝手に吹き出る冷や汗を拭うことも出来ず、そろりと背後を振り返る。果たして入り口に立っていたのは、美しい声の通りの、第二王子ルキアノスであった。
但し、その顔はあまりご機嫌麗しくとは言いがたいようだ。
「……えっと、ルキアノス様?」
「ダンスの進捗を見るついでに慣れておけと言われて来てみたが……練習はこれからか?」
窺うように名を呼ぶ小夜を一瞥したあと、ルキアノスがエフティーアの前まで進み出た。
どうやら、その前の会話は聞かれていなかったようだ。とは言え、ドキドキしながら二人の良い声のやり取りに耳を澄ませる。
「えぇ。基本は出来るようになりましたし、当日演奏される曲も三つはどうにか足運びまでは出来るようになりました。あとは慣れです」
「それならお前のままでいいだろう?」
「感覚と体格と相性の差には慣れておいた方が予期せぬ事態に備えられます」
「本音は?」
「そろそろ自分の仕事に戻りたい」
エフティーアがきりりと本音をひけらかした。
(大変申し訳ない……)
エフティーアには既に、逃れ得ぬ苦労性の再認識をした時に改めて感謝と平謝りはしてあるが、改めて心の中で謝罪する小夜である。肩身が狭い。
「分かった。今後はオレが見る」
果たして、短い間を置いて、ルキアノスが観念したようにそう応じた。
エフティーアの本音がどうあれ、言い分には一理ある。二人は共に長身だがルキアノスの方が僅かに低く、その分顔が近くなる。ただでさえ顔を直視できないどころか会話もままならない今の状態で、当日突然引っ付けと言われたら小夜は泣きながら逃げ出す自信があった。歩幅や姿勢の調整よりも余程大きな問題である。
(でもまだ心の準備が!)
しかし小夜の葛藤をよそに、エフティーアはさっさと引継ぎを始めてしまった。そして小夜の心の準備が整う前に「では」と言ってとっとと部屋を後にした。
(そこまで嫌だったのか)
何気に悲しくなる現実ではあった。
しかし肩を落としている時間はない。
「ではやるか」
「えっと……」
ルキアノスが体をほぐしながら近付いてきた。本能的に同じ距離だけ後退りながら、言葉を探す。
「き、今日は、ヨルゴスさんは?」
「扉の外で警護してるが?」
「へ、へぇー……」
笑顔がどうにもひきつる。何故こんなにも動悸を感じるのか分からない。
ルキアノスが、距離を詰めるごとに鉄灰色の瞳を細めていく。背筋がぞわぞわして小夜は更に後退る。ハイヒールがぐらぐら揺れている。不良品なのかもしれない。
「そ、そう言えば、どうしてダンスの教師役がエフティーアさんだったんですか? なんか、レヴァンさんとかの方が暇そう」
「あんな奴に任せられるか」
「? 下手なんですか?」
女の子とお近づきになる絶好の機会だから、喜んで修得しそうなのだが。などと思った程度だったのに、突然つかつかつか! と急接近された。
「んなっ」
猛獣に標的にされた草食動物並みに逃げる。が、気付けば既に壁際であった。
ドンッと顔の両側に手をついて退路を塞がれる。とりあえず叫んでいた。
「だっ、だから何で追い込むの!?」
「逃げるからだろ」
「逃げ……!」
てはいた。目が泳ぐ。
そんな間抜けな顔を睨んで、ルキアノスが声を落として無駄に良い声で聞いた。
「あいつと踊りたいのか?」
「何でですか嫌ですよ!」
思わず耳を塞いでから否定した。
そもそも現代日本に生まれたアラサー女で、無駄に高貴な男と本気な舞踏会で初のダンスを踊りたいと考える無謀者が一体どれだけいることだろう。
ちょっと酔っ払った深夜にきちんとお付き合いしている彼氏とこっそり踊る(もちろん絶対初心者ではない)くらいでなければ、とても現実にはしたくない。
(あぁ思考がリアルと非リアを行ったり来たりしている!)
それもこれもルキアノスが低い声で囁くからだ。それが脅迫でも恐喝でも美声であれば内容など二の次である。耳が勝手に喜んで顔が真っ赤になる。
しかも眼前には視界いっぱいの美形――相変わらずさらさらの金髪、少し精悍になった頬の張り、完璧な鼻筋、疲れのせいか少しかさついた唇、訴えかけてくる鉄灰色の双眸。
情報過多もいいところである。
(色気、色気がなんか!)
胸中で必死に不平不満を訴える。
と、ルキアノスが突然脈絡のないことを言った。
「なら他の男の名前は出すな」
「……はい? 無理ですよ。何故突然不可能な任務なことを」
何を頓珍漢なことを、と小夜はそれまでの動揺が少しだけ収まって冷静に答えた。
「…………」
「…………?」
ルキアノスの眉間に何故か皺が刻まれたが、小夜はようやくいつもの調子を取り戻して目の前の青年に向き直った。
こほん、と咳払いを一つ。
「とりあえず、落ち着いてください」
「オレは落ち着いている」
むすっと答えられた。仕方ないので言い方を変える。
「じゃあ私に落ち着く時間をください。あとこの手も退けてください」
「…………」
ちょいちょいと指でさす。他の誰かだったら改札のごとく押し開けるだけだが、さすがにルキアノスの腕ではちょっと出来ない。
数秒の沈黙を挟んで、ルキアノスはやっと手を下ろしてくれた。わざとらしく襟を正す。
「まず、謝らせてください」
「? 何故だ」
「折角また喚んでもらったのに、顔を見た瞬間寝たそうで、申し訳ありませんでした」
やっと年相応にきょとんとしたルキアノスに、小夜は少しだけ安堵を覚えながら頭を下げる。取り敢えず胸につかえていた一つ目が謝罪できた。
「寝る前に何をしたのか覚えていないのか?」
「吐いてないって聞いてます!」
「……もういい」
拳を握って力説した。ルキアノスが心なしかげんなりと項垂れる。
勉強の合間にセシリィに念入りに確認した結果、喚び出された小夜は何故かセシリィを誉め、ルキアノスを拾って帰ると宣言した。その直後、気持ち悪いと発言はしたもののそのまま床にのめり込んで、気付けば寝ていたという。
(つまりセーフ!)
そもそもルキアノスと何故だか気まずいのは、吐いたか吐いてないか問題である。そして吐いていないのなら何故小夜と一つ会話をするたびに険悪になるのか、である。
小夜には全く心当たりがないが、知らぬ内に相手を不快にさせていたというのはよくあることである。そして原因が分からない内は対策の講じようがない。
ので、まず先に全部謝ることにした。
「あと、前回の去り際の決め台詞ですが」
「……忘れろと言ったはずだ」
サッと頬が分かるか分からないか程度に赤みを帯びる。ルキアノスにとっては半年以上前の発言であるはずだが、しっかり覚えているらしい。
『お前がいないくなったら、オレは毎夜、お前の温もりを求めて夜を彷徨うだろう』
ヨルゴス曰く、なびかない娼婦を嫉妬させるための定型句らしいが。
「別に本気で娼婦のもとを渡り歩いてるとか思ってませんから、大丈夫ですよ」
「お前はオレに時間差でダメージを与えに来たのか……!」
「え? いやいや、だからご安心をと思って」
「忘れろ!」
「御意!」
咄嗟に敬礼していた。ルキアノスの声が命じれば、小夜の世界では黒も白になるのである。
(絶対忘れないけど)
否、そもそも忘れないというと語弊がある。小夜は仕事の間だけであれば忘れていた方がいいのだ。つまり鋭意努力中と言える。
だが脳は勝手に自動再生してしまうのだ。いわば悪いのは脳であり側頭連合野である。決して小夜本体ではないのである。
(うん。私悪くない)
自己完結した。口に出せば怒られることは目に見えていた。