ハイヒール筋を鍛えていない
ダンスレッスンの内容は、テレビで見た競技ダンスに比べれば実に緩やかであった。まさに紳士淑女の社交の場と言って差し支えない。
演奏者も専任を連れてこれないからと、セシリィがピアノでリズムを取ってくれるという。
「本物は幾つもの笛や太鼓でリズミカルに奏でたり、弦楽器の美しい重奏で踊るものなのだけれど」
その説明から小夜の頭に流れたのは、東欧の映像とともにBGMで流れていた陽気な民族舞踊であったが、セシリィが弾くピアノはそれともまた違って優美で可憐であった。
(何でも出来る……)
改めてセシリィの王妃教育の厳しさと素地の優秀さを思い知る小夜である。
が、問題はそれ以前のところにあった。
まず、ヒールで躍り続けるというのができない。
普段から通勤にもフラットシューズを愛用するような小夜である。常日頃からハイヒール筋を鍛えていない小夜としては、攻撃的なピンヒールを履きこなすのにもまず時間がほしいというのに、これでステップを踏めと言う。しかもリズムに乗って。しかも他人に合わせて。
(拷問か……!)
矢継ぎ早に、指示というよりもダメ出しを連発するエフティーアに、小夜は半泣きになりながらステップを踏んだ。
「違う、今のは引きだ! また半歩ずれている! よそ見をしない、下を見ない! 腰が引けている! 常に姿勢を正しく、パートナーに身を委ねて!」
「無理ぃぃ!」
と言って土下座する夢を見た。三日目の朝のことであった。
「ノイローゼになるわ……」
ちゅんちゅんと朝から元気な小鳥の囀りを窓越しに聞きながら、小夜は寝台の上で呻いた。顔色は二日酔いの日よりも更に悪くなっている気がする。寝起きだというのに頭痛も酷い。
脳裏で延々とリピート再生される、セシリィの優雅なピアノの旋律とエフティーアの恫喝が主な原因であろう。連日の詰め込み教育の弊害であった。鼓膜がすっかり洗脳されている。
しかもこれが、一か月は確実に治らないときている。
(筋肉痛が翌日に来たことだけは救いだけど……)
日々のデスクワークのせいで猫背気味の小夜には、姿勢矯正が期待できるという一点のみには有り難さがあるともいえる。が、大した慰めにはならない。
慰めと言えるのは、エレニが出してくれる朝食と午後のお茶くらいである。それが終われば、スパルタ教師の登場と相成る。
「さぁ、始めましょうか」
そう言って意気揚々と部屋に入ってきたのは、資料を山のように抱えたセシリィである。セシリィ曰く、勉学は午前中の方が吸収効率が良いとかで、詰め込めるだけ詰め込むと初日に宣言されている。
「今日は当日招待予定の賓客の顔と名前と特徴と好きな話題を覚えるわよ」
道理でかさばる資料を立派な机の上にドンッと置きながら、セシリィがごく真顔でそう言った。
机の前には、わざわざ勉強のためにもう一つ椅子が用意されている。その一つにしょんぼりと座りながら、小夜は今日も今日とて小さな抵抗を試みた。
「人の顔覚えるの苦手なんだけど……」
「昨日までに、この国の爵位と階級制度と胸章と主要な領地の力関係と特産品について説明したでしょう。それを踏まえて頭の中に疑似人間関係を構築しながら話を進めていくわよ」
「待って待って待って! 情報が渋滞してる!」
「どこがよ?」
「全部だよ! 特に後半あたり!」
留年をかけた補習テストの三日前に出題範囲を出されたような気分で、その理不尽を訴える。しかしセシリィは本気で分かっていないような顔で首を傾げた。
「そうかしら。全て相関関係のある事柄だから、まとめて覚えるのは当然でしょう? 内容が何度も前後するよりも余程効率が良いと思うけれど」
「それは頭のいい奴の考え方です」
これだから秀才は嫌いだ、と小夜はいつかに思ったことを再び痛感する。しかしどんなに駄々をこねてもルキアノスの誕生会はやってくるし、セシリィは絶対にパートナーにはなりたくないと言う。
小夜は泣く泣く書き取り用のノートを開いた。
学生時代からアナログ方式で勉強してきた小夜は、覚える内容は紙に書き留めながら飲み込み、理解していかなければ脳に定着しないタイプであった。紙が高価なものとは承知していたが、小夜はセシリィに無理を言って、捨てるような紙類を貰ってノート代わりにしていた。何度も書いては消せる蝋板もある。
「全く、往生際が悪いんだから」
「学業から十年も離れてる奴の記憶力の低下を甘く見てはいかんのよ、君」
そうして、今日も二人の勉強会が始まる。
セシリィが耳触りの良い玲瓏な声で次々と説明していくのを聞くのは、嫌ではない。セシリィは声優さんの誰かの声というわけではないが、すべすべとした滑らかな声は心地よく、これが物語の朗読であったなら小夜は夢見心地で耳を傾けたであろう。
(なぜ勉強なんだ……)
惜しむらくはその一点のみである。
ということを断片的に愚痴ったところ、セシリィはこの日最も意義深く含蓄のある提案をした。
「この人物が、小夜の好きなセイユウの誰の声に相当するかを想像しながら覚えていくというのではどう?」
「それ採用」
ピッと指を立てて頷いた。
それからの記憶力は抜群に上がったと言える。領主の名前と爵位、主に関わった事業と性格の横に往年の大声優の方々の名前を追加し、更に共通点のある役の名前も添えた。アドリブが好きな方、役の半分が黒幕の方、洋画の吹替が多い方など、渋いおじさまの声が次々に脳内に再生されて、小夜はウハウハだった。
最後に恒例の、ダンスの記譜を読めと言われるまでは。
「これ……役に立つの?」
食事を挟んで午後からはエフティーアのダンスレッスンのため、事前にダンスのステップを覚えるようにと渡されるようになったのだ。一本の直線が縦に引かれた上に、丸や曲線が順に描かれ、時に半円や線が飛び出しているのだが、小夜には新種の象形文字にしか見えなかった。
(あ、これ睫毛みたい)
この線の通りに足を動かせばいいことは分かっても、実際にその通りに体が動くかどうかは別問題である。頭と体の連結が悪いのか、単に身体機能の低下なのかは、考えたくない小夜である。
「勿論よ。頭の中でその記譜の通りのステップを踏みながら自己練習を繰り返すの。貴族の子供はみんなやっているわ」
「私、貴族でも子供でもない」
「幼稚なこと言わないの」
年下に怒られた。
(しかも幼稚て)
わりと本気で泣ける案件な気がした。