幕間 命の誕生を言祝ぐように
何となく書きたくなったので。
読まなくても全く支障はありません。
&コメ要素は皆無です。
入れられた部屋は、予想したほど劣悪ではなかった。
石壁は頑丈そうだし、隙間風避けのタペストリーも暖炉もないし、高い場所にある小さな窓にはご丁寧に鉄格子も嵌められているが、人としての生活という点では大した問題はない。
藁ではない寝台があって、用足しがあって、古びて傷だらけだが、書き物机もある。食事も、朝と夕の二回届けられる。
十九年間逃げ隠れ続けていた時と、大差はない。
(息絶えるのは、まだ先か……)
この詰まらない空間に押し込められてから丸一日程経ったが、イエルクはもう何をする気力もなかった。気が付いたら起き、気が途切れたら寝て、気が向いたら食事を摂る。餓死する意思さえない。
ただ漫然と、裁下が下るのを待つ。
復讐のためだけに生きてきたイエルクには、それを失敗したあとの生きる理由も方策もなかった。なんとなれば死ぬのが当然と思っていたからだ。
だが。
(クラーラ様……)
失ったはずの生きる理由が、突如眼前にちらついて、イエルクは本懐と本能と本心の板挟みに苦しんだ。
かつての王女は、今はこの国で結婚し、子供を産み、母として暮らしている。そこに耐え難い苦しみが在るのならば、イエルクはこの牢を脱獄してでも救いに行く。
だが母親のことを語る少女は、優しくはにかんでいた。とても母に対し、誰にも言えない苦悶を抱えている様を見ているようには思えない。
(終わりにしたい)
ずっと願っていたことが、ほろりと湧き出ては、ぶくぶくと沼の底に沈んでいく。
イエルクは、ずっと終わりにしたかった。楽になりたかった。二度と手に出来ない幻影に苦しんで、報恩もない使命感で自分を追い立てて、時折泣きそうな顔で苦しむラウラを見ないふりするのは、もう嫌だった。
薄紅と紫のあわいに暮れなずむ空を焦燥と共に睨むのは、もう終わったはずなのに。
「差し入れを持ってきた」
その男は、そう言って淡々と部屋に入ってきた。
シェフィリーダ王国以東に多い金の髪に、鬱屈した鉄灰色の瞳。イエルクをこの牢獄塔に入れた張本人、第二王子ルキアノス。護衛は背後に一人だけ。腰には、まだ幼さが残る十七歳という年齢には馴染みきっていない剣を佩いている。
塔と空間のそれぞれに魔法を封じる術が二重に施されてあるとはいえ、王太子暗殺未遂犯の元を訪れるには随分軽装だ。
だが何より目についたのは、差し入れと言って差し出された小さな包みであった。
「……嫌味ですか」
白い包装紙に、赤いリボン。嫌でも誰かを想起させる。
寝台の上で冷たい石壁に背を預けていたイエルクは、一瞥したきり見向きもしなかった。
だがルキアノスはさっさと机の上にそれを置くと、用は済んだとばかりに扉へと向かう。こちらを嘲笑うことも、蔑むことも、愚かしむことすらしない。
まさか本当に持ってきただけなのかと、目線だけを訪問者に向ける。と、謀ったように目が合った。
「ちなみに手作りだ。毒味はしてある」
毒味が必要な、手作りの品。そんなものに、イエルクはさっぱり心当たりがなかった。
囚人に渡される毒と言えば自白剤が定番だが、それに毒味は必要ない。薬の有無を確かめるのは通常協力者からのもので、殺害か身体強化のどちらかしかイエルクには思い浮かばない。
だがイエルクの唯一の協力者であるラウラは恐らくこの塔の階下にいるはずで、そんなものを差し入れることは出来ない。
思い付く相手など、とイエルクが怪訝な顔をするのを冷静に観察しながら、ルキアノスが注釈を付け加えた。
「とは言っても、娘が友人を連れてくると聞いて出された品だから、要らん心配ではあるがな」
「まさか……」
娘、と聞いて、イエルクの脳裏にすぐさま彼女と同じ色味を持つ少女が浮かぶ。瞬間、何もかも消え去ったと思っていた感情が、刹那に戻ってきた。
「勝手に知らせたのですか……!」
「罪人の意向を聞く必要はない」
寝台からわずかに身を起こしたイエルクの低い恫喝に、けれどルキアノスはさも当然とばかりに返す。そしてその通り、当然のことであった。
イエルクは歓待を受けるためにここにいるわけではない。裁かれ、いずれは死ぬためだ。
それでも、だからこそ、許せなかった。
「私は、クラーラ様が生きていれば、それで良かった。今更このような身に落ち、果ては死ぬ身だなどと、知らせるつもりは毛頭なかったのに……!」
互いに死んだままと思っていれば、何もかも悩まず、執着せずに済んだ。それなのにこの男は、こんな牢獄に閉じ込めた上で、イエルクたちの存在を知らせたというのか。
それがイエルクを苦しめるためだというなら、どんな拷問よりも成功していると言わざるを得ない。
その想いを些事と言うように、ルキアノスはだ正論をぶつけてくる。
「それはお前の勝手な意見だろ。お前たちの存在をどうするかはこちらが決める」
その言葉は、一度は諦め、納得し、熾火となった憎悪に、簡単に風を送り込んだ。
「クラーラ様は関係ない! 今回のことは私の独断で」
「独断ではないだろ」
寝台から立ち上がった瞬間、喉元に白刃が突き付けられた。ルキアノスではない。背後に控えていた、気配もないような四十絡みの男だ。ルキアノスへの怒りに気を取られすぎたこともあるが、動いたことにすら気付かなかった。
(殺し慣れている)
躊躇いがなく、刃を向ける指には一切の力みがない。
いつもそうだ。シェフィリーダの野蛮人は、いつも支配者気取りで少数民族を押さえ付けようとする。言葉でも、武力でも。
だがこんなことは、これから何度でも行われる。せめてラウラだけでもクラーラに会わせられるように、イエルクは死ぬまで冷静でいなければならない。こんなことで、怒りに駆られていてはならないのだ。
「今から尋問ですか」
数度の深呼吸のあと、そう問う。それで刃は離れ、ルキアノスが口を利く。
「それはオレの仕事ではない。言っただろう。持ってきただけだと」
再び話が最初に戻り、イエルクは早くも嫌気が差していた。とっとと帰れと思いながら当然の返答をする。
「……意図が分からないものなど受け取れません」
「意図などない」
「信じられるものですか」
「小夜からだ、と言ってもか?」
「サヨ……?」
聞かない響きの名前だと考えて、ハッと思い出す。クラーラに面差しの似た、少し年若く、素朴で垢抜けない女性のことを。
『じゃあ、私も謝ります』
彼女は、突然脈絡もなくそう言った。
だが彼女のことは、半年以上聖泉の乙女や王族について調べている間にも出ては来なかった。あの場にいたということは、それなりに重要な立場にあるはずだろうに。
それなのに簡単に謝るというどころか、最後にはわざわざ追いかけてきてこう言ったのだ。
『お互い辛いだけなんじゃないかと思って……』
それは、形だけでもその場を納めようとする打算的な言葉とはまるで違う、イエルクのことを本当に考えたものであった。
(辛い、だなんて)
考えたことすらなかった。ラウラだとて、たとえ思っていたとしても、そんな風に口にしたりはしなかった。
あまりに真っ直ぐで、穢れなくて、いつかのクラーラを少しだけ彷彿とさせて。
「彼女が……」
「クラーラ夫人の手作りの菓子を出され、土産に頂きたいと分けてもらっていた。欲張りだから、二つ、と」
「…………」
その言葉に、イエルクは何と言えばいいか分からなくなった。
きっと、本当はルキアノスもクラーラに伝えるかどうかはまだ決めきれていなかったのだ。それでも確認の必要があったから、クラーラの元を訪れた。
そこで、小夜という女性は限られた中で情報をやり取りし、この包みを届けるように取り計らってくれた。そこに利己的な企みは見えなくて、ただ純粋な好意だけが浮かび上がる。
だがそれに対する感謝の念をこの男に伝えたくはなくて、イエルクは結局沈黙を選ぶしかなかった。
ただ、ルキアノスが包みを持って帰らないことだけを祈る。
と、今度は少々嫌味な声が続いた。
「感謝の言葉はないのか?」
「…………」
寝台の上に座り込みながら、黙して唸る。言わねばならないか、と覚悟を決める前に、ルキアノスは存外あっさりと引き下がった。
「まぁ、いい。少しでもその気持ちがあるなら、次に会った時に直接伝えるんだな」
「……次?」
女性が、こんなカビ臭く、赤黒い血の染みが残るような場所に足を踏み入れるだろうか。それとも、そこまで中枢に関わる地位の者だったのか。
首を傾げたイエルクであったが、そこまで親切に答える気はないらしい。眉間に深い皺を寄せ、むっつりと口をへの字に曲げている。
そして驚いたことに、ルキアノスはその不貞腐れたような顔のままさっさと退室していった。まるで心ここにあらずのようで、余韻もへったくれもない。
「本当に、渡しに来ただけなのか……?」
ルキアノスが消えた鉄扉を見つめて、半ば呆然と呟く。次というからにはまだ処刑までの猶予があるのかとか、クラーラにはどう伝えたのかとか、聞きたいことは無数にあったのに。
もしや意外に暇なのだろうか。
◆
『食べた?』
夜、四角い空が藍に染まり、故郷よりも寂しい数の星が瞬きだした頃、その声は風に乗って届けられた。
「ラウラ様も、渡されましたか」
ラウラは姉と同様、子供の頃から風の精霊の恩寵を受けていた。イエルクのように水を固める程度の力では、この塔にかけられた術に負けて完全に無効化されてしまうが、ラウラ程の使い手であれば風を動かすくらいはどうにか出来た。
そもそもこの国で使われている魔法と、ヒュベル王国で主流だった四技師では力の流れが違う。神に祈り、神の眷属である精霊を通して神の力を借りる魔法に対し、四技師は精霊と自然物との対話の産物として力を行使する。
魔法に対しての制御は、四技師にもある程度有効だが、完全とは言えない。逃げることも反撃もできないが、風を動かして声を届ける程度のことはできた。
『えぇ。懐かしい味だったわ』
包みの中にあったのは、果物やナッツを巻き込んで焼くシュトルーデルであった。ヒュベル王国ではよく目にする素朴な焼き菓子で、子供はみんな好きだ。
本当に手作りで、一切れだけ入っていた。
クラーラも甘いものが好きで、屋台のあつあつの菓子を食べるためだけに、よく城下に付き合わされた。あの頃は自ら作るということはなかったから、食べても彼女の手作りかどうかなど分からない。それでも、不思議にクラーラを思い浮かべた。
『……クラーラ姉様は、幸せかしら』
酷なことを聞くと、イエルクは思った。
もし彼女が幸せなら、イエルクたちのしたことは一切合財が無駄だった。それが嫌だから彼女に不幸でいてほしいとは思わないが、虚しさが鋭く胸を突くのはどうしようもなかった。
どうしても答えられないイエルクの心情を察してかどうか、ラウラは独り言のように徒然に続ける。
『あの人……変な人だったよね。逃げてもいいとか、助けてとか。彼女を傷付けたのはそもそも私たちなのに』
小夜のことだと、すぐ分かった。ラウラもルキアノスから同じように説明を受けたのだろう。
『私、助けてって言われて、心底驚いたわ。それから、そうかって気付いたの。二人だけで逃げて、恨みを晴らしてって言われるよりも、怖いから助けてって、出来るなら一緒に逃げたいって……そう言って欲しかったんだわ。それで皆死んでしまっても、一生治らない傷が残っても、また別の後悔や恨みが生まれただけかもしれないけど……十九年もの間、こんな後悔と喪失を抱えずに済んだはずなんだわ』
後悔と、喪失。
それは、イエルクにもある。だが今まで一度も泣き言や恨み言を口にしなかったラウラから聞かされるのは、イエルクには相当堪えた。
付き合わせるべきではなかったと、彼女だけでもまず王女としての新しい人生を探すべきであったと、別の後悔が湧くから。
けれど続いた声は、思いの外清々しかった。
『だから、私は知らせてもらって良かったと思ったわ』
「……ですが、私たちは」
今は何の自由もない罪人で、近いうちに死ぬ定めなのに。
そう言葉には、出来なかった。同時に、ラウラだけでも助けなければという思いが一層強くなる。
『私、いつか自分で言うの。クラーラ姉様の目を見て、ひどいって』
「ラウラ様……」
『私、姉様を見捨てたくなかったって。一緒に逃げたかったって。でもそうしなきゃいけなかったのは私のせいだから、ごめんって……謝りたい。そうするように仕向けて、ごめんなさいって』
その言葉は、何よりもイエルクの胸を深く抉った。クラーラがあんなことを言ったのは、イエルクが弱かったからだ。愛しい人と離れたくなくて、幼いラウラを見捨てでも助けにいこうとしたから。何の力も、策もないくせに。
「私が弱かったせいです」
『違うわ』
弱々しく懺悔するイエルクの声を、ラウラが言下に否定した。
『あの日、あの時、誰もが弱かったのよ』
その確信に満ちた声音に、イエルクはハッと息を呑んだ。
今、声だけを聞いていたイエルクの脳内にいたラウラは、あの戦禍の中で泣いていた十三歳の少女のままだった。けれど今、その迷いない声には、とてもそんな幼さはない。それは、考えてみれば当たり前のことであったのに。
(私が守るべき王女は、もうどこにもいないのかもしれない)
それは、とても一言では言い表せない感覚であった。寂しいような嬉しいような、もどかしいような晴れがましいような。そして、それに相対して浮き彫りにされる己の卑小さよ。
『でも、私は弱いままで終わりたくない。だから、私はここから出るために努力する』
クラーラが幸せで、ラウラもまた幸せになるために努力するというのならば、イエルクの存在価値など塵芥に等しいではないか。
「私は……出来そうにありません。陛下を殺し、父を殺し、一度はクラーラ様まで殺したこの国の人間に媚びへつらうなど」
どんどん肥大化する虚しさを抱えて、首を横に振る。女よりも女々しいとは、我ながら心底呆れ返る。
そんなイエルクの心中を見抜いたように、ラウラが風に乗せて嘆息する。
『イエルク兄様は忠義者だけど……バカだわ。どんなに兄様が嫌がったって、姉様はもう兄様が生きていること知ってしまったのに、また自分から死のうとするの?』
「…………」
『それで満足するのは兄様だけよ。それとも、今度は私と姉様がイエルク兄様の喪失を嘆けば満足?』
「そんなわけは……!」
『だったら、生きればいいじゃない。今は、生きて、あいつらの言うことを聞くことが、姉様に会う最短の方法だと、私は思う』
それは、ぐうの音も出ないほどの正論であった。ルキアノスたちがイエルクたちをどう使いたいのかは分からないが、利用しようというなら利用し返せばいいだけだ。奴隷のように惨めに仕える必要などない。
だがそれは、処刑されなければの話だ。
「ですが、我々は処刑されるのでは……」
『え?……聞いてないの?』
ラウラの驚いたような声に、訝ったのは数秒であった。次には、まさかとルキアノスの顔が思い出される。
あの男は差し入れを渡すという名目で二人の態度を観察し、どちらから揺さぶりをかけるのが効果的かを品定めしていたということか。そしてラウラの方が手懐けるのに早いと見て、さっさと去っていった。
「……あの子供……!」
気付けば拳を握り締めて歯軋りしていた。
クラーラの手ずからの品をそんなことに利用したことも腹立たしいが、何より最初から生かして手駒にしようとしていたことを隠していたことに腹が立った。
道理で妙な温度差があると思った。
このまま一人で考え込んでいれば、早晩怒りが爆発していた。それを、耳をくすぐるような優しい笑声がいとも簡単に溶かしてしまった。
『兄様に、生きる気力が戻った』
それは声だけであるのに、なぜかラウラの泣き笑いのような顔が目の前に浮かんで、イエルクは知らず一人戸惑った。十九年間一緒にいても、彼女のそんな顔など一度も見たことはないのに、容易に想像ができて。
『兄様。私からもお願いするわ』
風の精霊に愛された彼女の声が、命の誕生を言祝ぐように、愛を告白するように、鼓膜を震わせる。
『生きて』
四角い夜空に、星が落ちる。月が昇る。夜は更け、やがて明ける。
今はまだ、夜明けも見えない闇の中でも。
「あぁ……」




