その2
紗由は外から戻った龍に駆け寄ると、壁際に彼を引っ張っていき小声で囁いた。
「にいさま、たいへん。おうまさんが清子おねえさまにケンカうってるよ」
「ケンカ?」龍が清子をチラリと見る。
「おうまさんだってこと気づいてないけど、清子おねえさま、すんごく怒ってる」
「らしくないことするなあ」
「このままでいいの?」
「よくはないけど…僕が動かなくても大丈夫そうだ」
龍の視線の先には、愛想を振りまきながら清子親子に近づいていく進の姿があった。
「ほら。ちょっと緩んだ」
「清子おねえさま、わかってないのかな。ママが力出しすぎたら、咲耶ちゃんもそうなっちゃうのに」
「九条にはそんなに早く力が出た例はないから、わかってないんだろ」
「けっこー一般家庭の恭介くんも、たんてい事務所にいたら、あれぐらいになるんだよ。凜くんや大斗くんといっしょだと、メキメキしちゃうと思うなあ」
「凜くんや大斗くんか…紗由的には星也くんは戦力外なのかい?」
「咲耶ちゃんに力が出たら、星也くんにもすんごく出るんだと思う。なんとなくだけど」
「じゃあ星也くん怖がってるのは、自分に力が出てくることなんだと思うわけ?」
「うーん、星也くんて、おばけえいが見てるときの恭介くんとおんなじかおするんだよね。ときどき、空気のまんなかへん見るでしょ。なにか見えてるんじゃないかな」
「咲耶ちゃんの“中”を見てるってことかな」
「にいさまには、咲耶ちゃんのなかのほう見えないの?」
「強く何かを感じるんだけど、たどれないんだ」
「じゃあ、咲耶ちゃんに出してもらえばいいかなあ」
「え?」
「あかちゃんて、おなかいっぱいだと、でろでろーって出しちゃうでしょ」
「なるほどね…。サンキュー、紗由。また何かあったら教えて」
「はーい」
そうか…彼女は“それ”を異物と認識していないのか。だから特に体の不調を引き起こしているわけでもないんだ。
しかも清子おねえさんは、誰かから咲耶ちゃんを守ろうとして、彼女のバリアになっている。僕らには、よけいに覗くことができづらい。ここは単刀直入に清子おねえさんに当たったほうがいいのかもしれない。
龍は、清子と彼女の傍らの進を見つめた。
* * *
「咲耶ちゃんは、ママに似て美人さんになるわねえ。うーん。いい子いい子」
進が頬をなでると、咲耶はきゃっきゃと声を上げる。
「進子ちゃん…」
「あなた、強いの飛ばしすぎよ。妙なものでも呼び込みたいの?」
「さっき、この子に“触れ”ようとする人がいたから…」
「そんなに嫌な気だった?」
「強かったわ」
「あんなふうに弾かれたら、けっこう堪えるのよ。あんまり可愛いから、ちょっと、いい子いい子してみたかっただけなのに」進がこめかみを押さえる。
「進子ちゃんだったの…? でも…」
「昨日あんまり休んでないんでしょ。咲耶ちゃんは私が見てるから、少し身体を休めなさい。母乳の出が悪くなっちゃうわよ」
「ええ…」
「それとも話を聞きましょうか?」
「進子ちゃんには隠し事できないわね」うつむき加減に微笑む清子。
「だーって、この前のママ会、おさぼりしたでしょ。おーちゃんに聞いたら、あなた里帰りしてないって言うんだもの。だから何かあったのかなって思って」
「伊勢に連れて行って以来、変なのよ、この子。妙なものに反応したり。
史緒に言わせると“咲耶ちゃんの中には誰かいますわ”ということになるんだけど…」
「具体的には?」
「父が昔の内閣の大臣数名と一緒に撮った写真がお気に入りなの。アルバムを閉じると大泣きするし」
「総理はどなた?」
「小宮山先生よ。あとは西園寺先生、四辻先生、有川先生が映ってたわ」
「どなたが好みなのかしらねえ」
「それとね、史緒が書道をしている時、この子が近くにいると、筆が勝手に動いて字を書かされるって言うのよ」
「例えばどんな?」
「これ、史緒が写真に収めたものよ」
清子が見せたスマホ画面には“輪”“菱”“奏”“虎”の文字が並んでいる。
「“奏”から連想したのは奏子ちゃんだったの。だから、この子の変化については、紗由ちゃんたちには言わないよう、史緒に口止めしておいたわ」
「なるほどね」
「“虎”は私たちの用語的には“白虎”よね。そこから連想できるのは縞猫荘と双子ちゃんたち。
ママ会に行ったら、その3人に会うことになるわ。だからパスしたのよ」
「じゃあ、ここへは何で来たの?」
「伊勢でのことを、よく思い出してみたの。この子に接触したのは5人いたわ。
機関の長、副長、一条の先の宮さま、西川先生…この4人はこの子を毎月精査してくださるいつものメンバー。
でも、この前はもう一人いたのよ、“封じ方”の女性が。この前、常盤井の奥様がおっしゃってたんだけど、その方、その後、行方不明になってしまわれたって」
「その件が咲耶ちゃんの状態と関係があると思ったわけね」
「最初はこの子を刺激したらよくないような気がして、奏子ちゃんと双子ちゃんたちを避けたほうがいいと思ってたんだけど、常盤井の奥様の話を聞いていたら、逆にその3人がこの子の状態を解き明かすヒントになるかもと思ったの。
でも来てみたら、奏子ちゃんは翼くんと龍くんがべったりだし、双子ちゃんには華織さまが。とてもやたらと近づける雰囲気じゃなくて…」
「だから、ちょっとイライラ・ピリピリしてたのね」
「ごめんなさい…」
「謝ることなんてないわ。気に掛かることがあったら、いつでも言ってね。ママが心配そうな顔してたら、本当の咲耶ちゃんが不安になるでしょ」
「はい」
「…ふむ。今日はおこりんぼさんが多いわねえ。じゃあまたね、咲耶ちゃん」
進は咲耶の頬をちょんちょんと突くと、清子の手をぎゅっと握り、その場を離れた。
* * *




