第3話 死ぬのは橙木だ Live And Let Die,Orange?
イアン・フレミング「死ぬのは奴らだ」より
いきなり倒れた母に、私たちははすぐに駆け寄ることができなかった。
何が起きたのかわからず、ただ茫然としていたのだ。
いち早く事態に気を取り戻せたのは、お兄ちゃんだった。そして、次は私。
私は倒れている母に駆け寄ると、すぐさま脈を測った。
「な!?」
しかし、息の根は止まっていたのだ。
看護師経験のある私は、すぐさま蘇生を図り、息子を照音を抱えて黙っている義姉に「義姉様、救急車を呼んで!」と叫ぼうとした。
しかし、お兄ちゃんは「ダメだ!」と遮った。
「ダメかもしれないから、蘇生してんじゃない!」
「口からアンズ臭がする!毒死だ!」
「え」私も気をつけながら口元を嗅ぐと、確かに青酸中毒特有のアーモンド臭(あるいは、アンズ臭)がする。
そして、お兄ちゃんは義姉に向かって
「呼ぶのは救急車じゃない、警察だ!」といつもなら考えられないくらいの大声で命令する。
尋常じゃない事態にあたふたしながらも、義姉はなんとか警察に連絡を入れることができた。
私は、目の前にいるのに助けられないことに、とてつもない屈辱を感じた。
5分もせぬ間に警察がやってきた。
この現場を指揮することになったのは、葭江 雅二警部補だ。
葭江警部補が兄の紫音に事情を聞いている間、私たちは、捜査状況をただ茫然と立って眺めていた。刑事や鑑識さんたちの話を盗み聞くと、やはり、死因は青酸中毒らしい。そして、それがコーヒーに入っていたということまでわかっている。
しかし、これが自殺なのか、他殺なのかは未だにはっきりとはわかっていないみたいだ。
「ところで、青酸系の化合物に何か心当たりありますか?」
葭江警部補のその言葉に、私たちは目を向けた。
「さぁ?この家では、看護師だったなるみくらいしか…」
すると、葭江警部補が私の方を向いた。私は少し怯んだ。
「あ、でも、父の部屋に確か青酸カリウムがあったと思いますよ。」
「え、そうなんですか!」
「えぇ。」
「そのお父様の部屋はどこです、成実さん?案内してくれませんか?」
「え、いいですけど、鍵が掛かってますよ?」
「ん?どういうことです?」
「あぁ、言ってみればわかりますよ。」
そうして、一同は2階にある、失踪した父の部屋に向かった。
「なるほど〜。あなた方のお父様は現在行方不明なんですか…」
「えぇ、そうなんです。父が失踪したのち、母が父の部屋に鍵をつけてしまったんです。」
「ほう、それまた何故?」
「さぁ?よくわかりませんけど、父の部屋を保存でもしたかったんじゃありませんかね?」
「保存?」
「えぇ。父が帰ってきたときのために。」
そこまで話したとき、私たちは父の部屋の前に辿り着いた。
「なるほど、2階はみなさんの部屋になっているんですか。」
「えぇ。私たちは個々の部屋と父の研究室と。」
「それで、青酸系の化合物があるかもしれないのは、この研究室ですか。」
「えぇ。」
「やはり、鍵が掛かってますねぇ。」
「この部屋は、内側からは自由に開閉できますが、外からは専用の鍵がないと施錠も開錠もできないんですよ。」
「その鍵はどこに?」
「母が貸金庫に預けていて、1ヶ月に1回くらいこの部屋を掃除に来ているみたいです。」
「ほう。その貸金庫の開けるパスワードは?」
「母本人しか知りません」
「そうですか…… この部屋に窓は?」
「ありません。」
「え、窓がないんですか!?1つも?」
「えぇ。潮解が起きないようにって。」
お兄ちゃんがそういうと、義姉が私に尋ねてきた。
「ねぇ、潮解って?」
「潮解は物質が空気中の水をとりこんで自発的に水溶液になる現象のことです。」
「ん、うぅん、それで?どうしてそれが起きないようにするために窓をつけないの?」
「多分、日光が当たらないようにするためでしょうね。日光によって反応を促進されるものもあるから。例えばーー」と言いかけて、私はやめた。何故なら
例として挙げようとしたシアン化カリウムは、今回母を死に至らせたものだからである。こんな時に、それを口には出したくなかった。
「そうなれば、お母様以外にこの部屋に入れた者はいないということですね。」
「そうなりますね。」
「では、なるみさんの以前の職場を調べるとしましょう。」
私の、以前働いていた病院は、薬品管理が杜撰だった。何がどこにあるのかわかりづらく、何がなくなっているのか、全くわからなかったのだ。たとえ盗まれていたとしても、誰も気づかなかいだろう。




