愛洲移香斎と鵜戸明神
剣術界の巨星、陰流始祖・愛洲移香斎の壮大なる話が今始まる。
「神よ、我に剣の秘奥義を授け賜え」
梅の花が咲かんとする頃、日向の鵜戸神社の岩屋にて、
愛用の朱色の樫の木刀で剣の技を練って、早や三十日。
彼は、神が現れる兆しを肌で感じていた。
愛洲移香斎は、一心不乱に参籠していた。
俗世間から離れ、神のみを念じて、剣のみに想いを寄せる。
そんな霜凍る夜、神社の奥にある滝で、水垢離をとっているうちに、
突然、神は金の光を放ち頭上の空に姿を現した。
「無駄じゃ。そんなことして、何の意味がある。」
彼は、驚愕した。神の出現を喜んだのもつかの間、我が耳を疑った。
「鵜戸明神、何と仰せられる。昔から、先人たちは、身を清め、
五穀をたち、女色をさけ、修行するものと決まっております。」
むきになった彼を、神は鼻で笑った。
「ふん、頭が固いのう。禁欲なぞで得られる物は、
たかが知れておる。人ならば、煩悩を全て認めよ。
欲をすべて喰らいつくせ。さすれば、自ずから、道は開かん。」
「何と仰せられる。神のお言葉とはとても、思えません。
現に、私の前にこうしてお姿を現せられたのも、
厳しい修行の賜物でございましょう。」
「馬鹿者!お主があまりにも無駄なことをしていて、
可哀想に思ったからじゃ。禁欲をして秘奥義を授かるなら、
坊主がみな剣の達人になっておるわ。」
「・・・・・」
彼は、この神は偽物で我を惑わせる魔物かと疑いの心を持った。
「お主、今、我を偽物で、惑わせる魔物と、思ったじゃろう。」
心の中を言い当てられて、流石に、言葉に詰まった。
「そもそも、お主は、新しい剣の流派を編み出したいのじゃろ。
それが、先人たちの真似をしてどうなる。
そもそも、人の分際で神通神変の機を得ようとか、
やれ、宇宙と一体になるとか、可笑しくてたまらん。
人は、人。神にはなれぬ。
刀は所詮人斬り包丁。剣は人殺しの術。
そこんとこ、わかっておるんかい。
この青二才の馬鹿ちんが。」
ここまで馬鹿にされたら武士の恥、木刀を持つ手が怒りに震えた。
「おっ、生意気に腹を立てておるな。よかろう、かかってこい。
お主の技量をみてやろう。お主なぞ、この扇子で十分じゃ。」
神は、無造作に扇子を右手にひょいとかざした。
神に手を出すのは気がひけたが、そこまでなめられたら、武門の恥。
神ならば万が一、木刀が当たっても死ぬことはあるまいと決心し、
木刀を晴眼の構えにとった。
『隙がない。』
扇子が大きく見え、神が扇子の陰に隠れている。
身がすくみ、己が、蛇に睨まれた蛙のように思えた。
「ほれ、ほれ、どうした。かかってこぬか。口先ばかりの腰抜けが。」
神がこれでもかと、挑発する。
「伊勢神宮の神よ、我に力を与えたまえ。」
彼は、覚悟を決めて、鵜戸明神の面に大地をも砕かんの勢いで
打ち込んだ。
その瞬間、木刀ははね飛ばされた。右手はしびれ、額に血が滲んだ。
神の技が全く、見えなかった。
今までの自分がやってきたことは何だったんだろう、果たして
自分の修行には意味があったのか、深い絶望感が彼を襲った。
同時に、神の技の冴えに心を奪われた。
「もう終わりか、股にぶらさげているものは、飾りかい。」
神が、尚も挑発する。
まったく持って、神の厳かさも、神妙な表情の欠片もない。
彼は右手が痺れていて、木刀が持てなかった。
右足が前の右半身に構え、右手は眼前に防御に徹し、
左手を腰に構えた。
左手の手刀を気合いもろともに、神の水月に突きを放った。
今度は、彼が遠くへ投げ飛ばされた。
左手と額は打たれはしなかっが、扇子が触れたのは何となく、わかる。
だが、受け身をとるなんてとんでもない。全身を襲う激痛に耐えていた。
立ちあがることは、とてもできなかった。