中編 邂逅のバッド・スレイヤー
小悪党狩りの剣道人。
初音がその噂を聞かされてから、二週間が経とうとしていた。
初音は制服姿のまま街を徘徊する。
かつてより髪が少し伸びたから、黒色のバレッタでアップにしている。
前髪はピンで留めて視界をクリアに。
その肩には学校鞄と木刀を仕舞った袋がある。
袋には竹刀も入っているが今日の出番は済んだろう。
さっきまで部活だった。
出来るだけ、チンピラのいそうな場所の近くを狙って、ふらふら歩く。
時々、嫌な目付きで話しかけてくる輩がいれば、軽く叩いてやって逃げる。
まるで小悪党狩りだ。
もっとも本物は小突く程度で済みやしない。
今日までに、付近で評判の悪い連中二組ほどが傷害事件の被害者となった。
そのやり口、つまり怪我の具合はどちらも──両手足の骨折だ。
師範が気にするのも無理はないと、初音はようやく合点がいった。
(私が起こした事件に影響を受けた、そのくらいの可能性は考えても良いかも。つまり模倣犯)
そうなると、師範には悪いが、あまり無視もできそうにない。
正義感なら良い。
被害者が、自分にとっても納得できるクズなら、良い。
心が痛まない。
だが師範の言うように狂人であるならば。
誰でも良くなってしまうことがあるならば。
自分にも〝剣鬼〟を産みだした責任の一端が、あるのではないか。
自分でまいた種ならば、自分で刈らねばなるまいか。
──そこに自己弁護めいたものが含まれていることには、初音はまだ気付いていなかった。
ふと初音は足を止めた。
背後に意識を集中させて、再び歩き出す。
しばらく行って確信を深めた。
尾行られている。
チンピラだろうか。それとも──。
ちょうど公園が目に入る。とても小さく、遊具は滑り台と砂場しかない。
人影がないのは、きっと日が沈みきったからだけではないだろう。
手入れをされず鬱蒼と生い茂った木の葉が、月も隠れた夜の帳に更なる影を重ねている。
そこに唯独り街灯のみが立ち尽くす。
世界から取り残されたかのように、寂しさの漂う公園だった。
初音は街灯の真下に陣取ると振り返り、入口に佇む人影へ「誰?」と良く通る声で問うた。
人影は逃げることなく、一歩、二歩……と近付いてきて、何者か、白光の下に曝される。
──剣道の面をかぶり袴姿、右手には木刀を携えて。
その趣、ゆらりと幽鬼の如く。
驚くことがあるとすれば、そんな格好で街を練り歩いていたのか、ということくらいか。
良く人に咎められず済んだものだ。
よほど人通りが少ない道を歩いたのだろう。
(……まぁ悪いことする連中だって、人気のないところにいるわけだし、無理でもないかしら)
驚くことがなくなった。
格好自体は自分も以前にしたものだ。
この剣道人は男であろうか女であろうか。
背は高いから厳島賢慈なら男と断じよう。
しかし微かに覗く手首は細い。女の線もなくはないと初音の考え。
「羅刹を壊滅させたのは貴女ですか?」
若い男の声であった。同年代か、少し上だろうか。
野太いわけではないが、芯のある。
「ええ、そうよ。それで貴方は何者?」
「──手合せ、願います」
初音は肩にかけた袋から木刀を取り出すことで、返答に代えた。
鞄と竹刀の残る袋を、邪魔にならないよう離れた場所に置く。
男の正面に戻り、そして構えるは剛毅流〝一乃太刀〟──片手で握る木刀を水平に引き、剣先を空いた方の手で覆うという、あの異形の構えである。
遊ぶつもりはないと言うが如く。
初音は乾いた唇をちろりと舐める。
それはまるで獲物を前に蛇がする、舌舐めずりのようだった。
対する男は、木刀を両手で握りしめ、剣先を初音の目に向けて中段に構える。
正眼の構えと言う。多様な状況変化に幅広く対応できるため、剣道では基本的な姿勢としてよく見られる。
奇しくも厳島賢慈のときと同じである、左右のいずれかに躱されるだろう。
初音がフーッと長い息を吐く。
(でも奴よりは強い)
一目見たときから、そう感じていた。
(二度目ではきっと終わらない)
ならば三度、四度と放つもの。それが突き技である。
両者見合ったまま微動だにせず。
初音は突進力を抑え込む。溜める。気配を、気迫を抑え込む。
いつ放つか、気取らせない。
それでも男は柳のように悠然と佇む。
力み、動く予兆を感じさせない。
突如として解放される〝一乃太刀〟。
空気を貫き高速の突きが男に迫る。
その首が、ぽとりと落ちた。
まるで椿の花が散る如く──そのように初音の目には映ったが、まさかそんなはずはなく、ただ男が素早く股割りをしたがために、錯覚したのである。
奇怪なる技だった。
右でも左でもなく下へなど、初音は思ってもみなかった。
それがなんだと言うのか。
突きは一撃必殺にあらず。
初音は高速を越えて木刀を引き戻す。
──しかし男の、身体を深く沈ませた瞬間放たれし突きには、到底間に合わず。
初音の目が丸くなる。
「ば、かな」
初音は喉元、胸、鳩尾に《《同時》》に衝撃を感じて、二歩、三歩と後退させられた。
いや、あり得ない。
実際には同時などではなく上から順番に突かれている。
それも恐ろしく速く。
同時だと思ってしまうほどに、速かったのだ。
ただ《《同時》》を為すため、一突き一突きは非常に浅い。
故に初音が感じた衝撃とは、精々がデコピン程の威力だった。
それで充分。真剣ならば出血は免れない。
木刀であっても、およそ同時に三ヶ所を突かれて恐れ慄かぬ者など、一部の強者くらいである。
威嚇のための技なのである。不殺の技とも言う。
もしも死なすことあれば、それすなわち失敗なり。
そのことを初音はよく知っていた。
「今のは! 剛毅流〝三縦刺〟──何故、貴方が!?」
自分の知る人間なのか。いや、そんなはずはない。
声に覚えがない。
ボイスチェンジャーを使っていることも考えられるが、あの道場に、このような儚げな雰囲気の男がいただろうか。
初音が訝しむ中、男は面を取ることで返答に代えた。
「貴方は確か」
見覚えのある顔だった。
「道場に見学に来ていた」
結局、習いには来ていないのだ。
そういうこともあるかと気にも留めていなかった。
「はい。はじめましてと言うべきか、お久しぶりと言うべきか。困りますね」
「……とりあえず名前を教えてもらえるかしら? 私は西東初音。知っているでしょうけど」
「近衛貴勇です」
「でも何故、貴方が剛毅流を……」
「見学したとき、見させてもらいました」
初音は思わず目を見開き、渇いた笑いを零す。
「……それで覚えたって? 嘘でしょ」
「得意なんです、そういうことが」
「じゃあ、剛毅の技に移る前のあれも」
「はい。奈業流という古拳法にある〝落椿〟という技です」
初音の知らない流派だった。
剣術ならともかく、そちらは意識したことがない。
事もなげに答えてから彼は、自嘲気味に笑う。
「所詮は猿真似ですけどね。一回見たくらいじゃ本物には敵いません」
「何回か見れば本物にも迫れる、とでも言いたげね?」
「三回ですね。その先は実際に使って身体に馴染ませるんです」
本当に渇いた笑いしか出てこない。
こういうのを天才と言うのだろうか。
初音はこほんと咳払いをして問う。
「それで、近衛さん」
「はい」
「私に何の用?」
問題は、そこだ。
まさか本当に手合せだけなはずがない。
それなら道場に来ればいいだけである。
剛毅流は他流試合を喜んでする方だ、それだけの自信がある。
この天才がそうしなかったのには理由があるはずだ。
「まさかストーカー?」
「はい」
「え」
思わず木刀を正眼に構える初音。
「冗談です。けど貴女を探していたのは間違いありませんから、似たようなものですね」
近衛は真剣な眼差しをして。
「西東初音さん、貴女の剣の腕を見込んで頼みたいことがあります」
「そんな大層なものじゃないわよ」
「一人より二人です。僕と一緒に、悪を斬りませんか?」
本音なのだろう。目と口でわかる。
この男は心から、正義を為したいと思っている。
初音は静かに首を横に振った。
「悪いけど、私、正義の味方ごっこは卒業したの。小学校にあがるくらいでね。自警団に入るつもりもないわ」
「ならば貴女は何故、羅刹を?」
ふんと鼻を鳴らして答える。
「あいつらは良い奴だったのよ」
「はい?」
「暴力を揮っても良い奴ってこと、ただそれだけ。やってみたかっただけ」
本当のことを語る義理があろうか。
あれは自分と友の、最後の思い出だ。
もっとも、この理由とて嘘八百というものではない。
己が全力をぶつけても良い相手を、今でも欲している。
(誰でも良いわけでは、今のところ、ないけど)
自虐的な笑みを浮かべかけた、そのとき──近衛が構えを取る。




