前編 見参のマスクド・サムライ
路地裏にひっそり建つビル、その三階にはかつてビリヤード場があった。
しかし今では、いわゆる不良集団の溜まり場と化している。
彼らは自らを〝羅刹〟と称する。
トレードマークは、チームのロゴが背に刺繍された革ジャンである。
主なメンバーは十数名と小規模だが年齢は十六歳から二十二歳までと幅広い。
毎晩のようにバイクで爆音をかき立てながら乗り付けて、未成年であろうとなかろうと、酒や煙草を呑んで馬鹿騒ぎ。
時には適当な女を連れ込んで愉しむこともある。
今日は特別に、危なげな雰囲気が満ちていた。
揃いの革ジャンを着た面々に、金髪の少年が取り囲まれていた。
後ろ手に縛られ、跪かされている。
俯きがちな顔は既に大きく腫れあがり、唇も切れて血だらけ。
地元じゃ悪い意味で有名な制服、その上着のボタンは留められておらず、覗くワイシャツにまで血糊は着いていた。
余程の暴力に曝されたとわかる。
円陣から黒い長髪をオールバックにした男が前に出る。
少年の金髪をがっしり掴むと顔を上げさせた。
「なぁ、これでもまだ抜けるってのか? 考え直せよ。今ならまだ、許してやる」
夏だと言うのに底冷えしそうな声だった。
目も同じく氷のよう。
しかし少年は極めて緩慢な動作で、首を横に振った。
オールバックの男は「そうか」と呆れたように言って仲間の一人に指示を下す。
「連れてこい」
すると短く答え、何処かへ姿を消す仲間。
いや子分と言った方が正確だろうか。
少年を除く、この場の誰もが逆らえない。
そのような雰囲気が醸し出されている。
事実、この男こそ〝羅刹〟が頭──厳島賢慈。
悪賢く、無情な男。
しばらくして子分が連れてきたのは、中学の制服を着た女の子だった。
同じく後ろ手に縛られ、口には猿ぐつわを噛まされている。
暴力を受けた形跡はないものの、目元は真っ赤に腫れていた。
可愛い顔が台無し。
どこか虚ろであった金髪の目の色が変わる。
「て……めぇ……!」
厳島は愉快気かつ残忍な笑みを返した。
「いいぜ、チームを抜けるのは。だが、ケジメはつけなきゃな。お前は済んだから、次は妹だ」
「関係……ねえだろ……」
「頼まれたんだろう? お願いされちゃったんだろう? それをお前は聞いた、優しい兄貴だ。別にいいさ、それはそれで。だが、そういうことなら、俺らのチームを抜けるよう頼んだ奴も、ケジメをつけなきゃ公平じゃない。そうは思わないか?」
「妹に、手出してみろ……殺してやる……」
「やってみな。と言いたいところだが、そのためには、まず手を出さなきゃあなぁ」
厳島が目で合図する。
妹の真愛が、兄浩一の前に放り出された。
その背後に厳島は回りスカートに手を掛ける。
「お愉しみのあとに、もう一度、言ってくれ。そうしたら俺も言ってやるよ、『やってみろ』ってな」
浩一は目を血走らさせ、立ち上がらんとする。
満身創痍。
両腕は使えない。
それでも両足がある、頭がある。
だが厳島の子分たちによって、瞬く間に抑えつけられてしまった。
このまま、大事な妹が暴行されるのを、ただ見ていることしか出来ないのか。
激しい後悔の念に襲われた。
そもそも自分が、軽い気持ちで〝羅刹〟になど入らなければ良かったのだ。
だが、もう遅い。
全ては己の心の弱さが招いた。
優れた妹、優しい妹が自分の心配をすることに優越感を覚えた。
親にも教師にも見下げられた自分を、妹だけが。
その浅ましく愚かな性根が招いたことなのだ。
押し寄せる後悔。
だが、もう遅い。
──そのとき、ガンガンガンッ、と音が立てられた。
「良いところだってのに……」
興の削がれた厳島は子分に怒号で命じ、その音がした方、すなわち店のドアへ向かわせた。
そうしている間にもドアは、ガンガンガンッ、と狂ったように叩かれる。
一体、何者か。
ガンガンガンッ。
地元の人間は、この場所がどういう場所か知っている。
だから決して近寄らない。
ガンガンガンッ。
地元でもない人間が、ここに近寄る理由は、ない。
まさか警察だろうか。
馬鹿な、でも。
ガンガンガンッ。
浩一は、そんな期待すら抱いた。
ガンガンガンッ。
ガンガンガンッ。
ガンガンガンッ。
ガンガンガンッ。
ガンガンガンッ。
子分の手がドアノブに掛かる。
「うっせぇぞッ!!」
そして開かれた瞬間、ドアベルが綺麗な音を立てたかと思えば、子分は吹っ飛んでいた。店内中の視線が一斉に、まず倒れた子分に、それから扉の向こうにいる者に集まる。
木刀を前へと突き出す姿勢で留まる正体不明が、そこにはいた。
剣道着を身にまとい、顔が防具の面で隠れていた。
防具はただそれだけ。胴や籠手はない。
足元は意外、足袋草履である。
子分は、そいつの一突きで吹っ飛ばされたのだった。
異様極まる光景だった。
潰れたビリヤード場に不良たち。
その身が危うい兄妹。
突如として乱入してきた、謎の剣道人。
だが厳島は流石に無頼をまとめ上げているだけある。
その異様さを飲み込んだ。
何が起きたか未だ分かりかねている愚図どもを怒鳴りつけて武器を取らせる。
木刀、チェーン、金属バット、コンバットナイフ……多種多様。
次々と店内に侵入する剣道着に襲い掛かっていった。
厳島はそれには交じらず兄妹を睨み付けた。
「どっちだ? あれはどっちが呼んだ? 答えろ」
二人は共に首を振る。
兄は本当に何も知らなかった。
だが妹には、一つだけ心当たりがある。
(初音ちゃんだ! 西東初音ちゃんが来てくれた!)
時は一時間前に遡る。
妹──筒井真愛は塾から帰る途中だった。
二つ上の兄と違って、普通の真面目な中学二年生だった。
兄は成長するにつれてスレてしまったが、嫌いではない。
自分にとっては優しい人だし、本当に悪いことは出来ない人だと信じていた。
ただそれは一人でいるときなら、の話。群れてしまえば分からない。
自分だって周囲に流されてしまうことがある。
そうした危惧から、荒れている高校に進んだ兄が悪名高き〝羅刹〟に加入したときには、彼女らしからぬほど強く反対し脱退の説得をこの一年間続けてきた。
それがようやく実を結んだのが先日。
兄はチームを抜けることを約束してくれた。
とても嬉しかった。
真愛には中学一年のときから兄についての悩みを聞いてくれていた友達がいる。
それが西東初音だった。
彼女にも知って欲しく、帰路につきながら電話で話していた。
真愛が〝羅刹〟に攫われたのは、まさにそのときだった。
不幸中の幸いと言えよう。
何故なら現在──。
「クソが、相手は一人だぞ……。なにチンタラやってんだボケどもが!!」
厳島は一向に倒されない襲撃者に焦りを感じてか、兄妹から目を逸らしていた。
木刀を持つ子分の男が、剣道着に向かっていく。
上段の構え、とは決して言えぬほど無様、ただ大きく上に振りかぶっただけ。
その振り下ろしを初音は悠々と払い除け、反撃。
恐ろしく速い突きを容赦なく鳩尾へと見舞う。
「お゛」
と声をあげ吹っ飛んでいき、ビリヤード台に激突。
沈黙。
初音の背後に忍び寄る影。
チェーン使いの女。
両手でピンと張った鎖を、首に巻き付けんとしていた。
だがしかし、初音は頭を軽く下げて躱しつつ、木刀を素早く引っ繰り返した。
そして脇の下を通して後ろの女を突く。
女が怯む。
初音は振り返り、もう一突き。
仰け反り倒れた女には、前歯が数本なくなっていた。
口内で血が泡のように膨らんでは消えてゆく。
男が三人、初音を取り囲む。
その手にはコンバットナイフが握られている。
刃渡りはいずれも二十五センチメートルほどだろうか。
初音は面の奥から、冷めた目でそれを見ていた。
初音は通っている道場で、頭の上と顔の左右に置いた林檎を真剣で貫かれる、という経験をしたことがある。
そんな彼女がナイフ、それも素人が手にするもので怯むことがあろうか。
否、ない。
だが油断もなし。
刃物の脅威を馬鹿にはしない。
毅然とした足捌きで回りつつ三方向を警戒かつ威嚇する。
男たちの陣もまた、それに合わせて緩やかに回っていく。
彼らの表情には、臆す気持ちが見て取れる。
ドアを開けた最初の一人こそ不意打ちだけれど、以降は違う。
この襲撃者は明らかに強者。
蹴散らされるだけの雑魚でも、いや雑魚だからこそ本能で理解する。
厳島というボス猿のもとでとは言え、およそ喰う側にいた自分は、今、喰われる側にいる、と。
しかし逃げるわけにはいかない。
まだボス猿への畏怖が上回っていた。
ちょうど一回りしたとき、一人が突然、初音に切り掛かった。
上から下への大振り。
初音は木刀から片手を離し、その腕を引っ掴んだかと思えば次の瞬間、男の身体が宙に浮き、反対側から続けざまに襲い掛からんとしていた男の方へ飛んでいった。
相手の突進する力に円運動を加えて、投げ飛ばしたのだ。
呆然とした様子の残り物、その隙は初音にとって大きすぎるもの。
顎を一突き。
それで終い。
投げ飛ばされた二人が立ち上がり、一度に襲い掛かってくる。
それぞれのナイフを握る手目掛けて籠手を放つ。
突きも恐ろしく速いが、籠手も敗けてはいなかった。
破裂するかのような音、そして悲鳴の二重奏。
そうして怯んだところで、初音は二つの顎を払う。
二人はその場で崩れ落ちた。
だが、まだ敵はいる。
友の闘いぶりを見て、真愛は涙が零れそうになるのを、ぐっと堪えていた。
今ここで、そんなことをしてしまえば、襲撃者が自分と関係しているとバレてしまうかもしれない。そうなったら、初音がここから逃げたとしても、いつか報復にあってしまうかもしれない。
それだけは許せない。
真愛は涙をぐっと堪えながら、初音を見つめる。
目は口ほどにものを言う。そうなることを願って。
(初音ちゃん、お願い、逃げて! わたし達のために、そんな危ないことしないで! いくら初音ちゃんが強くても、相手はまだ十人以上いる……無理だよ……。だから、お願い……!)
初音は、小学校低学年から〝剛毅流〟という突き技を主体とする剣術を習い、中学の剣道部では一年生の時点で全国大会に出場、優勝している。
それも中学は突きが禁止されているから、本領を封じられた状態でのことである。
西東初音はまさに天才剣士と言えよう。
そのことを真愛も、当然、知っている。
だからこそ危惧する。
今回のことが露呈すれば、その名に傷がつくことは間違いない。
暴力沙汰だ。道場を破門、退部を余儀なくされるかもしれない。
真愛は、自分なんかのために大切な友達が不利益を被ることなどあって欲しくなかった。
あってはならないことだった。
拉致られて怖かった。
助かりたい。
その気持ちもある。
初音が助けに来てくれて嬉しくもある。
だがそれでも、友のために、それを封じ込めて目で訴える。
自分はいいから早く逃げて、と。
ちらりと、面がこちらを向いた。
その奥に、微かなれど、確かな眼光が見えた。
真愛には、その瞳はこう言っているように思えるのだった。
「必ず助ける」と。
都合の良い妄想、そう断じて真愛は逃げてと訴える。
だがそのときにはもう、面はこちらを向いていなかった。
雑魚に向かって一直線。
また一人、打ち倒した。




