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氷の魔法使い  作者: 星野 葵
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#2 賢者

山が見える。いや、見えると言うよりは、囲まれていると言った方が正しいか。セクエは景色を眺めながらそう思った。


(ここは変わらないなぁ。)


セクエは今、故郷のすぐそばまで来ていた。代々賢者と呼ばれる者が治める、小さな、あまりにも小さな村だ。村へ行くための道は無く、何も知らない人が通りかかったら、きっと気づかないで通り過ぎてしまうだろう。辺境の地とはこのような場所を言うのだろうとナダレもつぶやいていた。


「本当に、いざとなったら逃げる気でいるのだろうな?何度も言うようだが、我は面倒なことには巻き込まれたくない。」


ナダレは険しい顔をしている。


「大丈夫だよ。きっとそんなことにはならないから。…あ、そうそう、ナダレは村の人に見られちゃいけないよ。」

「なぜだ?」

「ナダレも分かってると思うけど、私は数年前にこの村から突然姿を消したってことになってる。それで、きっと死んだことになってるはず。それがいきなり帰ってきて、しかも知らない人を引き連れていたら、みんな警戒するでしょ?私はそれでもいいけど、もしナダレが面倒なことを避けたいっていうなら、今はナダレをみんなに見せるわけにはいかない。」


ナダレの顔がますます険しくなる。


「…それではいざという時、我はお前を助けられないぞ。それでもいいのか?」

「私はそこまで考えてここまで来た。一人でもなんとかできるよ。」


ナダレはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、それでもしぶしぶといった感じでセクエの中に入った。


(ごめんね。)


ナダレが心配する気持ちは分かる。だが、セクエには一人でなんとかしなければならない個人的な理由もあった。


(賢者は、私にとっては憎らしい存在。だから、賢者とのやりとりは私一人で解決しないと。ナダレを巻き込みたくない。)


セクエは飛び上がった。そして音を立てずに村の中央にある円形の賢者の屋敷に着地した。まだ早朝で辺りは薄暗い。セクエの姿は誰にも見られてはいない。


(私から見てちょうど右側に入り口がある。賢者がいる部屋は屋敷の奥にあるはずだから、おそらく私から見て左側に、賢者の部屋があるはず。)


再び地面に降り、周囲の気配を気にしながら慎重に壁に手を触れる。ひんやりとした、石でできた壁。とても人が住む家とは思えない。なんだか神殿みたいな雰囲気がある。


(…壁に結界魔法がかけられている。)


結界魔法は外界から内部を守るために使われる魔法。つまり、簡単には侵入できないようになっているということだ。


壁だけなら、すり抜けの魔法で侵入することができる。だが、結界となると、もはや入り口から入るしか方法は無い。


(でも、入り口から入るわけにはいかない。そんなことをしたら、賢者にどんな顔をされるか分かったものじゃない。なんとしても、他人に知られずに中に入らないと…。)


だが、どう考えても方法は無い。


(仕方ないか。できれば使いたくなかったけど。)


セクエはまず壁にすり抜けの魔法をかけた。見た目は変わらないが、通り抜けられるようになる魔法だ。これで壁は問題無い。


次に、結界をなんとかしなければならない。セクエは目を閉じ、意識を集中させてつぶやく。


「消滅せよ。」


すると、結界が揺らめいて薄くなった。セクエはその隙を逃さず屋敷の中に飛び込んだ。


ーーーーーー


その青年は、長い間机と向かい合っていた。そして、困り果てていた。


(どうしたものか。相談など、とてもできたものではない…。このままではまずいぞ。一体どうすればいいんだ。)


文字通り頭を抱え、青年は悩み続けていた。


すると、ふと魔力の乱れを感じた。しかし、耳をすませても、何も聞こえない。人の気配も無い。


「気のせい、か。私もだいぶ疲れているようだな。少し休んだ方がいいかもしれない…。」

「何が『気のせい』なんですか?」


突然声が聞こえて、青年は飛び上がるほど驚いた。


「誰だ?どこにいるっ!」


部屋中を見渡す。驚きのあまり呼吸が荒い。


「あの…私なら、ここにいますけど。」


部屋の隅でおずおずと手を挙げたのは、まだ幼い少女だった。


「な、なんだ、お前は?なぜここにいる?どうやってこの部屋に入った?」


青年は一気に問い詰める。だが、少女はその反応に怯えた様子は無く、静かに言い返した。


「その質問にはお答えしますが、その前に、一つこちらから質問させていただけませんか?一つでいいのです。」


受け答えは丁寧で、悪意は無かった。その様子を見て、青年は少し冷静になって話すことができた。


「いや、駄目だ。なぜ私がお前のような見知らぬ侵入者の質問に答えなければならないんだ。お前に話すことは何もない。私の質問に答えろ。」


少女はまた静かに言い返した。


「あなたのその考えはお察ししますが、しかし、言っていることがおかしいと、自分でお思いになりませんか?」

「おかしい?何が?」

「あなたが私の質問に答えたくないのは、私が見知らぬ者だから。では、なぜ私は見知らぬあなたの質問に答えなければならないのでしょうか?あなたは何か勘違いしているようですが、私はあなたが何者なのか知りません。ですから、あなたが何者なのか、それだけ教えてほしいのです。それさえ答えていただければ、あなたの質問には全て嘘をつかずお答えしましょう。」


青年は困った。彼女の言っていることは正論だ。言い返しようがない。


「…分かった。お前の質問に答えよう。何が知りたい?」


少女はほっとした顔つきになり、そして言った。


「あなたは、賢者ですね?」


(なんだ、そんなことか。)


「ああ、いかにも。私は二十六代シェムトネ賢者、アトケインだ。」


すると少女はニコリと微笑み、嬉しそうに言った。


「やはり、そうでしたか。…では、あなたの質問にお答えしましょう、賢者さん。なんでもお聞きくださいな。」


少女があまりにも気楽な態度をとるためか、アトケインはなんだか気落ちしてしまう。


「そうだな、まず、お前はどこの者だ。どこから来た?」

「ここで生まれました。」


少女は答える。なんだか妙な答え方だ。


「ここ?お前は村の外からきたのではないのか?」

「旅をしていて、小さい頃から、ここじゃない場所で生活していたんです。なぜ帰って来たのかは、里帰りのためと思ってくれていいです。」


少女はスラスラと答える。やはり嘘はついていないようだ。


「親は?一緒にいないのか?」

「はい。二人ともすでに亡くなっています。」

「…そうか。」


アトケインは一瞬聞き間違えたかと思った。そんなとんでもないことをよく普通に言えたものだ。


「他には?これで終わりですか?」


少女がせがむように言う。


「どうやってこの部屋に入った?」

「壁をすり抜けて入りました。」


アトケインは顔をしかめる。


「結界が張られていたはずだが?それはどうした。」

「それは…」


少女が初めて答えに詰まった。言いにくいことでもあるのだろうか。


「どうした?言えないことでもあるのか?」


少女はうつむいたまま喋らない。諦めて次の質問に移ろうとするが、ここでようやく、少女は言いにくそうに答えた。


「結界は…『解除』と呼ばれる力を使って、消しました。」


(解除?何だそれは?)


アトケインはその言葉に聞き覚えがなかった。だからなぜ言いにくいのかも分からなかった。


「…その、解除とは何だ?」


アトケインは尋ねた。すると、少女は顔を上げ、驚いた様子でこう言った。


「『解除』を、知らないんですか…?」


信じられない、という顔で少女は続ける。


「『解除』とは、魔法や魔力を完全に無効化することができる力のことです。…賢者であるあなたが、なぜ知らないのですか?」


(魔力を完全に無効化?そんな力が本当に存在するのか?)


アトケインは信じられないでいた。なぜ賢者である自分が聞いたこともない力をこの少女は使えるのか、本当にそんな力があるのか。


(この子は、賢者である自分なら知っていると思っていたようだった。ということは、知っていて当然ということか?いや、もしかしたら、その名前を聞いたことがないだけで、私も知っているのかもしれない。)


「私の前で、その力を見せてもらおうか。」


アトケインは言った。その目で確認するために。


「…では、私とあなたの間に、結界を張ってください。私が結界を消して、まっすぐにあなたのところに行けたら、それでいいですよね?」


アトケインは頷いた。そして結界を張る。この結界は少女には見えないし、どこにあるかも分からない。この少女にそんなことができるわけがないとアトケインは思っていた。


少女は一歩ずつ近づいてくる。そして結界にぶつかると立ち止まり、結界にそっと手を触れ、そして呟いた。


「…消滅せよ。」


その瞬間、まるで火が風に吹き消されるように、結界は消えた。その仕草はあまりにも簡単そうに見えた。そして少女はアトケインの前に立ち、満足ですか?とでも言いたげな顔でアトケインを見た。少女は余裕そうな表情をしていた。


「…分かった。そういう力があり、それをお前が使えるということは、よく分かった。では、次が最後だ。…お前、名は何という?」


今度は少女は答えに詰まらなかった。


「セクエ、といいます。」


また耳を疑った。その名前はアトケインには聞き覚えのあるものだった。


「…本当なのか?」


これが最後と言っておきながらアトケインは聞き返した。その名前は、ここシェムトネでは知る者は少なかった。


しかし、この名前は恐るべき肩書きを持っていたのだ。この少女がその肩書きとあまりにも不釣り合いなので、アトケインは正直反応に困ってしまったのだった。


「私が今ここで嘘をつく必要がどこにあるんですか?それに、私は嘘はつかないと初めに言いました。」


少女の反応はいたって冷静だった。


「その名前が、この村でなんと言われているのか、知っているか?」

「知りません。」


アトケインは答えようと口を開く。それと同時に少女は言った。


「最年少の魔法使いにして、殺人、脱獄を行った最悪の犯罪者。」


その答えにアトケインはまた驚いた。セクエという少女が殺人、脱獄を行ったことはこの名前を知っている人の中でも賢者を含めたごく数人しか知らない。それをこの少女はなぜ知っているのか…。


「知っているじゃないか。さっきは知らないと言ったのに。」


アトケインはなんだか騙されたような気分になって言った。


「今知りました。」


少女は当然のように言う。


「今?どこかに書いてあったとでもいうのか?」

「いえいえ、あなたの思いを読んだんですよ。私は他人が考えていることを読み取ることができる。『読心術』って、聞いたことありませんか?」


読心術。


アトケインが知る中で、それを使える人間は一人しかいない。


彼は自然と立ち上がり、少女の前に歩み寄って、その小さな手を握って言った。


「ご無事だったのですね。ずっとあなたの身を案じていたのです。セクエ殿。」


ーーーーーー


「…は?」


セクエは呆れた。今まで生きてきた短い人生の中で一番呆れた。


(この男は馬鹿なの?私が犯罪者と知っていながら、私の手をとって、しかも『殿』って…)


もしかしたらこの賢者は恐怖で頭がおかしくなってしまったのかもしれない。セクエは罪悪感からその顔をまっすぐに見ることができなかった。


「こんなところで立っていても仕方ない。どうぞ座って下さい。」


アトケインはセクエを椅子に座らせた後、向かい合って置かれている椅子に座った。


「あの…これはどういうことですか?」


セクエはうつむきながらやっとのことで言った。


「どうか敬語はやめて下さい。あなたと私とでは、どちらが上かなど、分かりきっていることです。」

「じゃあ、あなたも極悪人である私にそんな言葉を使うのはやめて下さい。…なんだかムズムズしてきますから。」


頭がおかしくなったらしいアトケインは、それでもちゃんとその言葉の意味を理解できたらしく、普通の口調に戻った。


「それもそうだな…。だが、あなたに会えて嬉しい。ぜひ一度話をしたかったのだ。私には、どうしてもあなたがそんなことをするとは思えない。それに、あなたが持つ魔法の技術も、非常に興味がある。一度直接会って魔法と魔力に関する話し合いをしてみたいと思っていたんだ。ああ、こんなに嬉しいことはない…!」


アトケインは顔を輝かせ、身を乗り出すようにしてセクエに語った。どうやら本当に魔法に興味を持っているだけらしいことが、ようやくセクエにも伝わった。


「ヘレネは、死んだの?」


セクエは尋ねた。


「ああ。四年ほど前、病で亡くなった。」


ヘレネは先代の賢者の名前だ。彼女は、セクエにとっては決して忘れることのできない人だった。


アトケインは続けて言う。


「残念だ。彼女は、当時のあなたを知っている数少ない人物の一人だと言うのに。」


アトケインは本当に悲しそうな顔でそう言った。


「そう…。」


先代が死んだことはアトケインにとっては悲しい過去だった。その話題を変えようと、アトケインはセクエに尋ねた。


「ところで、セクエ殿はどうやって地下牢から脱出したのだ?何か魔法を使ったのか?」

「それは違うよ。というより、できなかった。あの地下牢は内側にいた私の魔力を制限していたから。」

「そうか…では、どうやって?」

「何て言えばいいか分からないんだけど、『守護霊に助けられた』…って感じかな。」

「守護霊…。」


これはナダレのことだ。ナダレは地下牢に入れられていたセクエ外へと連れ出した。だから、まあ守護霊という表現はあながち間違ってはいない。


「そういえば、あの地下牢は残ってる?」

「もちろん。セクエ殿がいなくなってから、地下牢には誰も近付かなくなった。なにより、あそこには歴代の賢者の魂が眠っていると言われている。壊せばきっとバチが当たると、みんなが怖がっているんだ。だから、あの時のまま、そのまま残っているよ。」

「…今日、時間はある?」

「ああ。こんな小さな村では賢者の仕事など、ほとんど無いようなものだからな。それが、どうかしたか?」


セクエはアトケインの目をまっすぐに見て言った。


「…会ってほしい人がいる。私に魔法を教えてくれた人だから、きっと魔法の技術もいくつか教えてくれるかもしれない。」

「セクエ殿に魔法を?そんな人物がいるのか!ぜひ会いたい!…あ。だが、今はまだ忙しい。そうだな、今日の夕暮れ頃には片付くと思う。それからでも良いか?」


セクエは頷いた。


ーーーーーー


アトケインが仕事を片付けるまでの間、セクエは村のはずれにある小屋へと向かった。その小屋はセクエが暮らしていた小屋だ。懐かしいとは思うが、帰りたいとは思わない。


セクエは小屋の前に立ち、しかし戸を叩きもせず、窓から中の様子を覗くこともせず、ただ小屋を眺めていた。


セクエには、母に笑いかけられた記憶が無い。母の顔はいつも暗く、いつも何かに怯えているように見えた。娘の前でも笑わない母のことを、セクエ自身は正直嫌っていた。


(母が恐れていたのは、きっと私だ。)


セクエはそう思う。


生まれつき、並の魔法使いより大きい魔力を持って生まれた自分。そしてそれを制御できなかった自分。実際、セクエは魔力の暴走によって、多くの物や命を傷付けてきた。誰から教わっても魔力は制御できず、大きすぎる魔力は周囲の人を、そしてセクエ自身を苦しめ続けた。


そして、あの日。あの、忘れたくても忘れられないあの日。セクエはとうとう、一つの命を、この世から消してしまった。傷が付いても治るかもしれないし、壊れても作り直せるかもしれない。だが、命は一度消してしまったらもう元には戻らないのだと、当時三歳だったセクエは幼いながらに悟ったのだった。


賢者は、物を傷付けるだけならまだしも命を奪ってしまったセクエに何らかの罰を与えなければならなかった。ただでさえ、万一の場合を考え他人との接触を制限されていたセクエは、さらに、地下牢という人とも自然とも隔離された世界で暮らさなければならなくなった。


目を閉じれば、今でもあの地下牢の様子が目に浮かぶ。


風も入ってこない。日の光も射さない。草も苔も生えず、獣はおろか、人も、虫さえいなかった。固く閉ざされた扉。隙間一つ無い岩壁。硬いベッド。たまに運ばれてくる必要最低限の量の水と食料。灯りは壁につるされた小さなランプ一つだけ。油が補給されるところは見たことがなかった。


そんな地獄のような場所で、セクエはある一人の男と出会った。その出会いがセクエの運命を変えた。その男こそ、セクエに正しい魔力の制御の仕方を教えてくれた人だったのだ。


ーーーーーー


暗くなった道を、セクエはアトケインと並んで歩いていた。


「ああ、そうだ、あなたのことは、ケインって呼ぶから。」

「ケイン?なぜだ?」

「アトケインって名前、長いでしょ?言いにくいから省略して、ケイン。その方が呼びやすい。」


アトケインは複雑な表情を浮かべた。今まで名前を呼ばれることはあってもそれを省略されることはなかったのだから、当然といえば当然だ。


(自分の名前はそんなに言いにくいだろうか?)


アトケインは反応に困ってしまう。


そうしているうちに、二人は道が途切れる辺りまで来た。正確に言うと、誰も通らないから草が生えて道が見えなくなっただけなのだが、ここから先はしばらく曲がった道が続いているので、下手に歩くと迷ってしまう。


「ねえ、ケイン。道を忘れちゃったんだけど、ここからどうすればいいんだっけ?」


セクエは尋ねる。実は、この見えなくなった道の先には地下牢は無い。文字通り地下にあるのだから、地面に潜らないといけないのだ。


アトケインは答える。


「地面に向かってすり抜けの魔法を使えばいい。地下は意外と広いから、空間が見つけられないことはないだろう。」


アトケインは地面に手を突いて魔力を集中させ、唱えた。


すり抜けの魔法ファソット。」


魔法の効果を確認してからアトケインがセクエを見ると、もういない。


(速いな。さすがセクエ殿だ。)


アトケインもセクエに続いて地面に潜る。すぐに空間を見つけられた。


目の前に扉が見える。


「地下牢はこの向こうか?」

「ここが地下牢だよ。魔力が制限されるでしょ?」


確かに、体に力が入らない感じがする。


(地下牢の外に出るつもりだったが、中に出てしまったか。)


「ところで、私に会わせたいという人はどこにいるんだ?まさかこんなところにいるわけではないだろう。」


セクエはイタズラっぽい笑いを浮かべた。


「それが、こんなところにいるんだよ。私も会った時は驚いたけどね。」


セクエは扉に背を向けて、入り口の反対側にあるベッドの下に手を突っ込んだ。それからしばらく手を動かして、何か探しているようだったが、ようやく見つけたようで、ベッドの下からあるものを取り出した。


それは、一冊の古い本だった。かなり大きな本で、新品だった頃はさぞかし立派だったのだろうが、今は表紙がだいぶ擦り切れていて、もはや何の本だか分からない。


「その本が、どうかしたのか?」


セクエは表紙のホコリをかるく払うと、それをベッドの上に置いてページを開いた。その内容を見てアトケインは驚いた。


何を意味するのかさえ分からない複雑な文字が、黄ばんだページに所狭しと並んでいたのだ。


「これは…?」


この本が何なのか、なぜこんなところに本があるのか、アトケインには分からなかった。


そんなことはおかまいなしにセクエは言う。


「ケイン。この上に手を置いて、魔力を注ぎ込んでくれない?」


アトケインはわけが分からないまま本の上に手を置いて、魔力を集中させ、その本に注ぎ込んだ。しかし、何も起こらない。


「…セクエ殿。これが、何だと言うんだ?」

「うーん、おかしいなぁ、私がやったら成功するんだけど。」


そう言われると、何だか見下されているようで気分が悪かった。


「もっと集中させてやってみてよ。」


仕方なくアトケインは魔力を強くした。全力で魔力を注ぎ込む。


「くっ…。」


しかし、アトケインが魔力の半分ほどを使っても、何も起こらない。彼は手を離して言う。


「悪いが、私には無理だ。これだけ魔力を注いで駄目なら、私にはできない。」


やや息切れしながら言う。セクエはやれやれといった感じで本の上に手を乗せると、魔力を注ぎ始めた。


(ずいぶんと余裕そうだな。)


自分でさえ何も起こらなかったというのに、セクエにできるなんてことがあるだろうか?そう思うとなんだか馬鹿らしくなった。だが、何か起こるのかも気になるので、様子を見ることにした。


すると突然、魔力の流れを感じた。凄まじい勢いだった。


(まさか、これをセクエ殿一人で?)


セクエは手から本へと直接魔力を注いでいる。なのに、本から離れているアトケインにも魔力が感じられた。ということは、本に注がれた魔力の一部が溢れ出しているということだ。


(漏れ出した魔力だけでこの勢いか。実際に本に注がれている魔力が一体どれほどになるのか…想像もつかない。)


そう考えている間にも、溢れる魔力の量は多くなっている。息ができないのではないかと思うほどの濃密な魔力が、すでに部屋には充満していた。アトケインはその魔力量にただただ圧倒されるしかなかった。


いつまでそうしていただろうか。そろそろセクエの魔力も限界かと思った頃、いきなり本が輝きだした。と思ったら、ボムッとベッドの上に煙が起こり、その中から老人が現れた。


それは、いかにも老人、といったような顔つきなのだが、長く白い髭といい、その服装といい、どことなく知性を感じる老人だった。しかし、その目は優しく包み込むような光を宿していて、堅苦しさを感じさせなかった。


そんな人が現れたというのに、アトケインは思わず吹き出してしまった。


「セクエ殿。これは何かの冗談か?」


その老人は手に乗せられるくらいの大きさ、つまり、とても小さかったのだ。


「…もうちょっと大きくなってくれない?せっかく魔力をあげてるのに、これじゃ拍子抜けしちゃうよ。」


セクエは老人に向かって言った。


「なあに、久しぶりじゃったからのう。少し加減を間違えただけじゃよ。」


そう言うと、老人はまるで風船が膨らむように大きくなり、アトケインよりも背が高いくらいになった。


「せ、成長した…?」


アトケインは思わずつぶやく。老人はそんなアトケインを睨んで言う。


「失礼な奴じゃのう。わしが普通の人間とは違うということも分からんのか?セクエ、この若造は一体誰じゃ?」


セクエは答える。


「賢者だよ。」

「ほう?ヘレネはこんなに若かったかのう。それに、ヘレネは女だった気がするのじゃが…」

「ヘレネ様はもう亡くなった。病で、四年前に。」


アトケインが答える。


「ほうほう、とうとういなくなったか!それも病でとはのう!あの魔法使いとも呼べないような出来損ないの心の腐った女にはちょうどいいわい!」


フォッフォッフォ、とそれはそれは嬉しそうに老人は笑った。


(なっ?賢者の死を笑うなんて!それにこの言われ方、ヘレネ様は何か悪事を働いていたのか?いや、そんなことは聞いたことがない…。)


アトケインはこの老人がなんだか信頼できる相手ではないような気がしてきた。


「ところでセクエ。いくら代替わりしたとはいえ、賢者をここへ連れてくるとは、どういうつもりじゃ?気でも狂ったか。…ふむ。さてはおぬし、この若造と恋仲ホギャアッ?」


一瞬、老人が消えた。セクエが本から手を離したのだ。セクエが本に再び手を乗せると、老人はまた現れた。


「ああもう、死ぬかと思ったわい…。」

「じい様が変なことを言うからでしよ。私がケインをここに連れてきたのは、ケインがただ単に魔法に興味があるだけだって分かったから。もしヘレネみたいに権力目的で賢者をやってるようだったら、問答無用で殺そうかとも考えてたけどね。」


その言葉を聞いたとたん、アトケインの頭の中であの肩書きとセクエが一致した。なるほど、恐ろしい娘だ。


「セクエ殿、この方は一体…?」

「ああ、そういえば、まだ紹介してなかったね。彼はゲイウェル。私に魔法を教えてくれた人。で、彼はアトケイン。さっき言った通り、シェムトネの賢者。」

「じい様、というのは…?」

「呼んでるだけだよ。間違っても私の祖父じゃないから、勘違いしないでね。」

「そんなことより、セクエよ。わざわざ来たということは、わしに何か用があったのじゃろう?」


ゲイウェルが会話に割り込んできた。


「そうそう、実は、ケインに、『大賢者の力』について教えてないといけないんだ。」


セクエはそう切り出した。『大賢者の力』とは、初代賢者が使っていたとされる力だ。他の誰にも使えなかった力だということ以外、どんな力なのかはまったく伝わっていない。それをこの老人と少女は知っているという。アトケインにとってはうさんくさい話だった。


「ふむ、教えないといけない、とはどういうことじゃ?」


セクエは照れくさそうに答える。


「うっかりしててさ、彼の前で使っちゃったんだよ。後で問題になっても困るし、教えた方が早いかなって。」

「なるほどのう…。では仕方ない、と言ってやりたいところじゃが、それはセクエ、お前の失態じゃ。お前が後で教えてやれ。わしを巻き込むな。」


セクエが落ち込んだのが見ていて分かる。このゲイウェルという男はずいぶんと面倒くさがりなのだろう。アトケインは見ていてそう思った。


「じゃが、魔法について教えてやることはできるぞ?見たところ、この若造はそれなりの才能を持っているようじゃ。」


いきなりそう言われて、アトケインは正直に照れた。


「そ、そうなのか?」

「おお、そうじゃ。そうじゃのう…セクエの五分の一くらいの魔力を持っておるの。」

「え、私の五分の一?普通はだいたい七分の一くらいなのに?へぇ、さすが賢者。」


セクエも感心している。


「セクエ殿は、私の五倍なのか…?」


アトケインとしてはその方が驚きだった。おそらくこの反応は間違っていないだろう。この二人の基準がずれているのだ。多分。


(だって、私の周りではどんなに差があっても二倍がいいところだ。私は中でも比較的高い方だが、セクエ殿はそれのさらに五倍…よくそれだけの力を暴走させずにいられるものだ。)


「おい若造。おぬし、どこまで魔法の知識を持っておる?」


ゲイウェルは尋ねた。


「えっと、まず、魔法とは、あらゆる自然現象を発生させる力のこと。そして、魔法を使う者を魔法使いと呼び、魔法使いは魔力によって魔法を発動させる。また、精神状態も魔法の質に大きく関わっている。」


ゲイウェルは、ほう、と意外そうな顔をした。


「そこまで知っておるのか。ならば、セクエよりも基礎知識はあるようじゃな。そこまで知っておれば、もう教えることなど何もないわい。」

「えっ…」


アトケインは戸惑った。シェムトネではこの知識は魔法を教わるより先に教えてもらえる。本当に基礎でしかない知識だった。


「魔法を教えてくれるのではないのか?」

「ん?わしはそこまでは教えんよ。セクエにもそこまでしか教えとらん。」

「しかし、ならばセクエは誰に魔法を教わったんだ?」

「セクエの場合は、基礎さえあれば、あとは独学で魔法を使っていたのう。」

「独学?」

「セクエはこう見えて魔法制作の才能があるからのう。使いたい魔法は全て自分で作っておった。じゃからわしはセクエには魔法を教えてはおらん。」


魔法の制作にはかなりの知識と経験が必要になる。どんなに経験を積んだ研究者であっても一つの新しい魔法を作るのに半年はかかるといわれている。それをセクエは三歳の頃から行っていたというのだろうか。


「信じておらん顔じゃな。よし、セクエ。なんか作ってみよ。」

「なんかって…何をすればいいの?」


ゲイウェルの言い方がいい加減すぎて伝わらなかったようだ。


「お前は何を聞いておったんじゃ!何か魔法を作れと言っておるんじゃ。」

「ふうん……知らない魔法ならなんでもいいよね?」


セクエは顎をつまんで考えて始めた。


「じゃあ、こんなのでいいかな?」


セクエはアトケインを指差しながら言った。


(何をしたんだ?)


「ケイン、動いてみて。」


セクエが言う。アトケインは一歩踏み出そうとして、気づいた。


体が全く動かない。息はできるが、声は出ないし、まばたきすらできない。


「うん。成功したみたいだね。」

「セクエ、何をしたんじゃ?」


ゲイウェルがニヤニヤしながら言う。それに対してセクエも嬉しそうに答える。


「体を空間に縛り付けたんだよ。だから、息はできるけど体はピクリとも動かないし、もし地面が崩れてもケインの体はここに浮かんだまま。名付けるなら、『対象固定』の魔法ってところだね。」

「この若造には聞こえておるのか?」

「うん。感覚は残ってるから。」


セクエが手をパンと叩くと、アトケインはようやく動けるようになった。


アトケインは動けるようになるとすぐにまばたきを繰り返した。目が乾いて痛くなっていたのだ。


「なるほど、確かに魔法の制作の才能はあるようだ。だが、セクエ殿は呪文を使わなくても、魔法を使えるんだな。」


しばらくまばたきを繰り返してから、アトケインは率直に思ったことを言った。


セクエはキョトンとしている。


「何、それ?」

「呪文を、知らないのか?これほどの魔法が使えるのに?」


アトケインとセクエの会話が噛み合わない。ゲイウェルが笑いながら二人の代わりに答えた。


「そういえば、まだセクエには呪文は教えておらんかったのう。それにこの言い方だと、若造の方は念の使い方を知らんらしい!面白いのう〜。フォフォフォ!」


彼の呑気な声を聞いていると、なんだか気が抜けてしまう。


「その、念というのは?」

「呪文って?」


二人は同時に尋ねる。ゲイウェルは笑いながら答えた。


「まあまあ、まずは呪文から教えようかのう。呪文とは、ある特定の言葉によって魔力に語りかけ、魔法を発動させる方法じゃ。おい若造。なんか呪文を使ってみい。」

「分かった。…力魔法タズハム。」


アトケインは何をするか少し迷ってから、近くにあった小石に視線で魔法をかけ、それを宙に浮かべた。


「この呪文には、魔力を力に転換させ、物を持ち上げるという意味がある。このように、特別な言葉で魔力に語りかけるのじゃ。この場合、あまり魔力を集中させなくとも言うだけで発動されてしまうことがあるため、管理が難しい。場合によっては、寝ている間に寝言で発動させたという事実もある。」


説明が終わるとアトケインは小石を下ろした。セクエが質問する。


「寝言?…てことは、魔力の集中は必要無いの?」

「そういうことになるの。じゃが、もちろん集中させれば魔法の精度は上がる。ま、よほどのことがない限り思わず声に出しても寝言で呟いても魔法を発動させることはないじゃろうな。」


ゲイウェルはここでひとまず言葉を切り、セクエが理解できたかを確認した。どうやら質問が無いらしいことが分かると、今度は念の説明を始めた。


「念は、言葉を用いず、意思によって魔力に語りかけ、魔法を発動させる方法じゃ。この場合、魔力の集中は必須になるの。それから、魔法の効果をイメージしないといかん。その代わり、呪文よりも細かい効果を持った魔法を使うことができる。たとえば、さっきセクエが使った魔法は、対象が指差した相手であること、対象の体を動けなくする、すなわち対象の体の支配、しかし呼吸だけは対象の意思に任せること、といった、まあ思いつくだけでもこれだけの命令を魔力にした上で発動された魔法じゃ。それを呪文で発動させるとなると、呪文はどうしても長く複雑になってしまう。そういう点において、念は呪文よりも優れていると言えるの。」

「なるほど。」


アトケインが納得して言う。


「つまり、浮遊魔法と似ているんだな。あれも確かに魔法だが、呪文を必要としていない。」

「そうじゃな。命あるものを自由に動かすことはなかなかに困難な魔法なのじゃからの。どうしても呪文での発動は難しくなってしまう。」

「へえ、いいこと知った!来て良かった。」


セクエが嬉しそうに言う。アトケインもそうだが、セクエも魔法の原理や仕組みには興味があるようだ。


(これだけの制作の才能と魔力、意欲があれば、いい研究者になれそうだな。)


アトケインは一人そんなことを思った。


「まあ、わしが教えられるのはここまでじゃ。あとは研究するなり練習するなり勝手にやっとれ。わしは疲れたから休む。」


ゲイウェルはそう言うとパッと一瞬で消えてしまった。セクエが本から手を離す。


「じい様はこうなるとしばらくは出てこないからね。私たちもそろそろ出ようよ。これだけの話でも、なかなかいい勉強になったんじゃない?」


セクエは言う。確かに、アトケインにとって念の存在はいい勉強になった。


(これでまた、村のみんなにいろんなことを教えられる。)


賢者にとって、得た魔法の知識は村のみんなと共有するのが当たり前だ。アトケインはいい土産話ができたと内心嬉しく思った。


ーーーーーー


入った時と同じようにすり抜けの魔法を使って外へ出る。アトケインは注意してセクエを見ていたが、やはり呪文は唱えていなかった。入る時もこうしていたのだろう。これなら速かったのもうなずける。唱える手間がかからないからだ。


地下にいた間に雨でも降ったのか、外の空気は湿っていて息苦しかった。それでも地表に出た開放感からか、二人はそろって大きく深呼吸をした。湿気が多くて重たい空気で肺を満たし、それを一気に吐き出すというこの行為は、地下の空気から地上の空気に体を慣らすための一種の儀式のようにも見えた。


ふと見上げると、山の方(ここは山に囲まれているので『方』という言い方もおかしいのだが)がうっすらと明るくなっている。


「もう、夜が明けたのか。」


アトケインは独り言のようにボソリと呟く。


「セクエ殿は、しばらくここに留まるのか?」


アトケインはセクエを見てそう尋ねた。


「どうだろう。今すぐ出て行こうってわけじゃないけど、長居するつもりもないし…それがどうかした?」


セクエはアトケインを見ずに答える。


「…もし行く当てが無いなら、また、私に会いに来てくれないか。」

「……。」


セクエはすぐには答えず、しばらく黙ったあと、仕方なさそうに答えた。


「そうだね。まだ話してないこともあるし、また会いに行くよ。いつならいい?」

「では、昼頃に。」


セクエがアトケインを見て言う。


「話が長くなるかもしれないよ?夜か夕方の方がいいんじゃないの。」

「その点なら問題無い。それに、もう寝不足は勘弁だ。」


その一言で、セクエは思わず笑った。それにつられてアトケインも笑う。ひとしきり笑ったあと、アトケインは言った。


「それでは、昼頃。私の部屋で。見つからないように気をつけてな。」

「うん。また壁を抜けて行くよ。」


という、どことなく奇妙な別れの言葉を口にして、二人は別れた。


ーーーーーー


部屋に入ったアトケインが真っ先にしたことは、睡眠時間の確保だった。なにせ一晩中起きて魔法の話をしていたのだ。肉体的に限界だった。


数十分寝て、はっと目を覚ますと、すでに辺りは明るかった。寝台から起き上がり、水を一杯飲んでからまた机に向かう。


机の上に上がっているのは、昨日からずっと解決していない、ある書類だ。その書類は、今年の祭に関する資料だった。


シェムトネでは、年に一度大きな祭がある。魔法使いとして生まれたことを祝い、今後のさらなる発展を仲間と誓う祭だ。


そしてこの祭の一番の楽しみは、真昼に始まる魔法競技大会だ。腕に自身のある強者たちが集い、最強を決めるという、ありふれた大会だ。毎年様々な魔法がこの大会で公開されるので、観戦だけでなく技術を求める者もこの大会を楽しみにしている。


そして、一体昨日からアトケインが何に頭を抱えているかというと、この大会に賢者は強制参加だ、ということなのである。実はアトケインは保持している魔力量だけは飛び抜けているが、あまり魔法の技術を持っていないのだ。賢者たるアトケインがありふれた魔法ばかり使っては、大会がつまらなくなってしまう。代理がいてもいいとのことだが、もちろん頼める人などいない。アトケインはまだ賢者になったばかりで、友人もいなかったのだ。というわけで、アトケインは良く言えば突破口を、悪く言えば逃げ道を探しているのだった。


(セクエ殿に頼む、というわけにはいかないか?)


そんなことを考えていたのだが、あの様子では無理そうだ。故郷とはいえ、長い間地下に閉じ込められていたのだ。村に留まりたくないのは分かる。


(となると、やはり私が魔法の勉強をするしかないのか。)


そう半分ほど諦めていたが、それでも一応セクエには尋ねるつもりでいた。名前は隠さなければならないという点が少々面倒だが、セクエの実力なら村の人たちも満足できるだろう。


(それに、村の外で生活するなら、賢者としてそれなりの保護をしてやらないと。)


シェムトネでもまれに旅に憧れる者がいる。彼らが無事に旅に出られるように準備をしてやるのも賢者の仕事だ。


(とにかく、今はどうやってこの危機を乗り越えるかが問題だ。)


アトケインはまた机に向かって書類とにらめっこを始めた。


ーーーーーー


昼になった。太陽がまぶしい。木の上で昼寝していたセクエはその光で目覚めた。


「うーん、よく寝た。」


ひらりと地面に着地し、一つ伸びをする。


「もうそろそろケインの所に行く頃かな。」


話さないといけないことがたくさんある。大賢者の力のこと、ヘレネのこと、それからゲイウェルについても。考えただけで気が重い。


「ま、とりあえず行こうか。変なことを言ったって、どうせ私を捕まえることなんてできるわけないんだから。心配するだけ無駄だよね!」


自分で自分を勇気付けて、セクエは飛び上がった。


透明化メイル・ファソット!」


セクエは唱える。呪文においてもセクエの魔法制作の才能はその効果を発揮し、すでにセクエは呪文を持つ魔法を自由に作れるようになっていた。


「うん、うまくいったみたい。」


今セクエが唱えた透明化の魔法は自分の姿が他人に見えなくなる魔法だ。これなら村の人たちの目を気にせずにアトケインのところまで行くことができる。


(でも、やっぱり念の方が楽でいいな。わざわざ声を出すなんて、なんか無駄な感じがする。)


それに、やや魔力の消費が多いような気もする。


(念の場合はこんな風には感じないんだけどな。)


セクエは村へと向かった。さすがに昼間は朝方と違って活気がある。子供は走り回って楽しそうだが、大人は何かよく分からない話をしていて忙しそうだ。それでもたまに笑い合ったりしているので、もしかしたらたわいもない話をしているだけなのかもしれない。セクエは人とぶつからないように気をつけながら屋敷のそばまでやってきて、声を出さないようにして結界を消して中に入った。


中ではアトケインが机に突っ伏して寝ていた。


(まあ、一晩中起きてたんだから、当然か。)


肩をつつく。するとアトケインは目を開け、驚いた様子で部屋の中を見渡した。アトケインが緊張しているのが伝わってくる。ピリピリした魔力が肌を刺すようだ。


「ケイン?」


おそるおそる声をかける。


「セクエ殿、なのか?」


今度はだいぶ落ち着いた様子でアトケインがいう。


「なぜ姿を隠している。姿を見せろ。」


ここでセクエは気づいた。まだ透明化の魔法を消していなかった。つまりケインから見ると姿は見えないのに声がする、という、なんとも不気味なことになっていたのだ。


「ごめんごめん、この魔法を使ったのが初めてだったから。消すのを忘れてたよ。」


魔法を消しながらセクエが言う。アトケインはよほど緊張していたのか、一つ大きく息を吐き出してから皮肉を言った。


「まったく、セクエ殿は人を驚かすのが上手い。最初のことといい、もう少し普通に入ってこられないのか?私はてっきり…いや、なんでもない。」


(何を勘違いしたんだろう。意外と臆病なんだ。)


セクエは少しおかしく思えて微笑んだ。


「ん?セクエ殿が来たということは、もう昼になったのか。ということは、ずいぶん長いこと寝ていたようだな。やはり夜に寝ないと体がもたない。」

「時間、ある?」


セクエは言う。寝ていたなら、まだやることが残っているかと思ったのだ。


「いや、大丈夫だ。セクエ殿に尋ねようと思っていたから。」

「私に?…何を?」


セクエは少し怖くなって尋ねた。


「…今度行われる祭に参加してほしい。」

「祭?」

「そうだ。私の代わりになってほしい。」

「…その祭に何かあるの?」

「魔法競技大会に出場してもらいたいんだ。というのも、みっともない話だが、私は魔力ばかりあって魔法があまり使えないからな。これでは賢者の威厳が損なわれてしまう。なんとかそれを回避したいんだ。賢者は強制参加なのだが、代理がいてもいいとのことだから、なんとかセクエ殿に参加してもらえないかと…。」


ずいぶんと必死になって頼まれたが、セクエからしてみれば、そんなことはどうとでもなる内容だった。


「なあんだ、そんなこと。」


セクエはすっかり安心して言う。


「『そんなこと』ではない。この祭は村のみんなが毎年楽しみにしていて、特に競技大会は一番盛り上がる。ここで失敗するということは、村の人たち全員の期待を裏切るということなんだ。そう甘く考えてもらっては困る。」


アトケインは真剣に言う。


「それで、いつ頃なの?その祭。」


話を聞いてもらえていないようだ。


「…再来月だ。」

「再来月ってことは、来月の来月だね。分かったよ。その頃になったらまた戻ってくる。『戻ってこれたら』だけどね。」


なんだか意味ありげな言い方をする。


「戻ってこれたら、ということは、またここを出ていくのか?」

「うん、そうだね。」

「やはり、そのまま留まるというわけにはいかないのか…?」


(一体セクエ殿は過去に何があったのだろう?ここはセクエ殿の故郷であるはずなのに、なぜセクエはこの村を出ていくのだろう?なぜ私にはそれを止めることができないのだろう。)


悔しかった。ようやく戻ってきた仲間を、また外の世界に返さなければならないことが。


「まあ、いろいろあってね。じゃあ、もう行くよ。」


セクエが壁の方に近づく。その手が壁に触れた時、アトケインは思わずその名を呼んだ。


「セクエ殿…。」


セクエが振り返る。目と目が合う。つい先ほどと何も変わらない目。それなのに。


その目を見たとたん、アトケインは恐怖で凍りついてしまった。身体中が本能的に危険を知らせている。


(何かが、さっきまでと確実に変わっている。何が、どこが違うというんだ?この恐怖はどこから来ている?)


分からない。ただ、恐ろしかった。しかしその視線をそらすことができない。指先がわずかに震るのを感じた。


(もしかしたら、ここで殺されるのか?)


それは思ってはいけないことだった。だが、セクエから感じるのは殺気以外の何でもない。


(私は何をしたんだ?ただ、名前を呼んだだけだというのに。)


分からない。セクエからは怒りも憎しみも感じない。純粋な殺意だけだった。


ー最年少の魔法使いにして、殺人、脱獄を行った最悪の犯罪者。ー


そういったセクエの声が頭の中に響く。


セクエがアトケインに向き直る。一気に冷や汗が吹き出し、全身に鳥肌がたった。


「セッ…セク、エ、殿…」


情けない声しか出ない。何か、変えなければ。この状況のままでは、自分が危ない。


セクエがゆっくりとその右手を上げる。


(もう、駄目だ…。)


ーーーーーー


ナダレはセクエの中からずっと外の様子をうかがっていた。さっきまではなんともなく、正常だった。が、この男が声をかけたとたん、セクエの中で何かが変わった。


セクエが手を上げ始めたところで、ナダレはセクエの中から飛び出し、上がりかけたその腕を掴んで止めた。


「やめろ。」


声をかけるが反応がない。表情は変わらず、その目はどこか遠くを見ていた。


(まずいな。完全に正気を失っている。)


視線が動く。ナダレを見る。湧き上がっていた殺気が今度はナダレに向いた。


「…!」


油断していた。こちらには殺気が向かないと思っていた。こうなった以上、もうのんびりしているわけにはいかない。


ナダレは一旦腕から手を離し、両手で肩を掴んで強く揺すった。


「セクエ、セクエ!」


セクエの頭がガクガクと揺れる。少しずつ焦点が合ってくる。セクエの中でまた何かが変わったのを感じると揺するのをやめ、その目を正面からしっかりと見つめて、声をかけた。


「しっかりしろ、セクエ。」


セクエは呆然としながら呟く。


「ナダレ…?」

「我が、分かるな?」


セクエがゆっくりとうなずく。


「私…また…。」


掴んでいる肩が震えていた。


「また…」


セクエは目をつむってうつむく。


(まだ安定していないな。かなり動揺している。)


「少し、休め。」


ナダレはセクエの額に触れ、催眠魔法を使って眠らせた。それからセクエを近くにあった長椅子に横たえ、しばらく様子を見ていたが、もう何も起こらないと分かると、アトケインに向き直って言った。


「賢者、一応確認するが、お前には、我が見えるな?」


アトケインは慌てて頷いた。そのあとに不思議そうな顔で尋ねた。


「あの、あなたは…もしやセクエ殿が言っていた、守護霊、なのか?」

「なるほど。確かにセクエは我のことをそう説明していたな。だが我は守護霊ではない。ただの魂だ。名はナダレという。間違っても守護霊なんて呼ぶな。」


(我は守護できていない。今も、セクエを守りきれないでいる。)


「そうか…。その、セクエ殿に、何が起こったんだ?いきなり、人が変わったように見えたが…。」


ナダレは一つため息をつき、しばらく思案してから、仕方なさそうに答えた。


「我は面倒なことは嫌いだ。セクエがどこまでお前に伝え、どこまで隠すつもりだったのか、我には分からない。だから、すべてお前に話そう。」


ナダレは視線をセクエに戻して言った。


「セクエはそそのかされていたのだ。お前を殺せ、とな。」


この答えに、アトケインは明らかな動揺を見せた。


「なっ?誰が?なぜ、そんなことを…。」


ナダレは冷静に答える。


「…ある男がいた。その男は、魔法を使い、人工的に魂を作り出した。男は、ある目的のために強い魔力を探していた。その具体的な目的は、我にも分からんがな。…やがて男はその魂を外へ放した。魂は、男の意思通りに強い魔力を持つ身体を探し、世界を飛び回った。そして、まだ母親の中にいた胎児に宿った。そうして生まれたのが、セクエだ。」


アトケインは声を出さなかった。そんなことがあるとは、とうてい思えないのだろう。


(しかし、これが事実だ。)


ナダレは続けた。


「だが、その男がそのままセクエを放っておくはずが無い。やがて、その目的のために、セクエを支配し自分のもとへ連れて来ようとするだろう。その時、セクエがこの世界に未練を残さぬよう、男はセクエが心を許した相手や、親しんだ相手を、全員、一人残さず殺そうとしている。セクエを使ってな。…この際面倒なのが、セクエは自らが望んで殺したと思い込んでしまうことだ。セクエが動揺すれば、それだけ心に隙ができる。隙ができれば、それだけ支配されやすくなる。」

「ナダレ殿は、それを止めようとしているのか?」


ナダレはアトケインを見て、フッと笑って言った。


「さあ?我自身、我が何をしたいのか、よく分からん。だが、命を私利私欲のために利用することだけは、我は許したくはない。それだけははっきりしている。」

「父親のようだな。ナダレ殿は。」


ナダレは不意をつかれたように驚いたが、やがてこらえきれなくなって笑い声を上げた。


「フフッ、フハハハッ…!なかなか面白いことを言うな、賢者。」

「わ、私は決してからかっているのではなく…!」


言い返そうとするアトケインを止めて、ナダレは言う。


「分かっている。お前がふざけて言ったのではないことは。だが、そのように考えたことなど今まで無かったからな。つい笑ってしまったのだ。悪く思うな。」


(父親か。)


ナダレはセクエの父親を見たことが無かった。早くに亡くなったということは知っているが、どんな人なのかは分からない。


「セクエ殿の父親は、既に亡くなっているらしいが、きっとヘレネ様が、その代わりになっていたんだろうな。」


アトケインが呟いた。


「いや、それはありえん。」


ナダレは言う。


「なぜ?確かにヘレネ様は女性だから、父親というのもおかしな話だが…。」

「そうではない。」


ナダレがさえぎる。


「セクエにとって、ヘレネは親どころか、むしろ恩を感じる相手ですらないだろう、ということだ。」


アトケインは不思議そうな顔をする。


「どういう、ことだ…?」

「悪いが、そこまでは言えん。我が話すことではない。どうしても知りたいなら、セクエからきけ。」


アトケインはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、それを無視してナダレはセクエを見て、そして言った。


「我はそろそろセクエの中に戻る。もしセクエが何も覚えていなかったら、突然倒れたということにしておいてくれ。実はセクエには出てくるなと言われていたのでな。」


ナダレがセクエにそっと手を伸ばす。すかさずアトケインが言った。


「ナダレ殿!」


まだ何かあるのか、と、明らかに嫌そうな目でナダレはアトケインを見た。


「私に、何かできることはないか?セクエ殿が苦しんでいるのなら、私はそれを助けたい。」


(できること、か…。)


「これは、我が頼むことではないのかもしれんが…」


ナダレは再びアトケインに向き直って言う。


「セクエに、故郷を捨てさせないでやってくれ。」


アトケインがその意味を理解できていないようだったので、ナダレは続けて言った。


「セクエには、どうやらこの村に良い思い出がないらしい。だが、それでもセクエの故郷はここしかない。そういうことを、セクエに分からせてやってほしい。もし、セクエが故郷を捨ててしまったら、セクエが、セクエでなくなってしまうような気がしてならんのだ。」


アトケインに意味が伝わったかどうかは、ナダレには分からなかった。だが、そろそろセクエが目覚めてしまう。その前に、ナダレはセクエの中に戻った。


ーーーーーー


(一体、何を言いたかったのだろう、ナダレ殿は。)


ナダレがいなくなり、眠っているセクエと二人きりになって、アトケインはナダレの言っていたことの意味を考え続けていた。


「故郷を捨てさせない、か。セクエ殿にとって、シェムトネはいたくない場所なのか…?だとしたら、私はどうすれば…。」


何かが動く気配がした。セクエが起きたのだ。


「セクエ殿。気が付いたか。」


セクエは上体を起こし、しばらく頭を押さえていたが、やがて言った。


「私、どうなったの?」

「私が声をかけたとき、突然倒れたんだ。大丈夫か?」


セクエは今度はアトケインの顔をじっと見ていたが、しばらくすると立ち上がって言った。


「うん。平気。じゃあ、もう行くよ。邪魔になると悪いし。」


セクエが壁に向かう。


(何をすればいい?このままでは…。)


そのとき、ふとひらめいた。


「待ってくれ、セクエ殿!」


慌てて声をかけ、机の中を調べる。


(たしか、この辺りに…。)


書類でいっぱいになっている引き出しを開けて、手を突っ込む。すると、指先に何かが当たった。


(あった!)


壊さないように慎重に取り出し、セクエのところに持っていく。


「これを。」


アトケインがセクエに手渡したもの。それは、小さな紫色の宝石がついたネックレスだった。


「これ、何?」


セクエが不思議そうにネックレスを見つめている。


「セクエ殿のお母様が、いつかあなたに渡してほしいと、賢者に託したものだ。はじめはヘレネ様が預かっていたんだが、亡くなってからは、私が預かっていた。今のうちに渡しておこうと思う。」


すると、セクエはあからさまに嫌そうな様子を見せた。


「お母さんが?私に?」


それならいらない、とでも言いたそうな顔だ。


「どうしてもいらないなら、後で火に入れるなり川に流すなりすればいい。だが、私が持っていても仕方がない。とりあえず、もらっておいてくれ。それに、どうやらただの装飾品ではなく、魔力を制御するはたらきをもつ魔道具のようなんだ。いかにもセクエ殿のお母様らしい品だ。」


アトケインはそう言うと、ネックレスをセクエの手の上に置いて、書類が散乱している机の整理を始めた。それから、ふと思いついたように言った。


「そういえば、セクエ殿の使う読心術は、相手の心を読むためだけの魔法じゃないと、本で読んだことがある。」


アトケインは手を止めずに続けた。


「心とは、すなわち『思い』。場所や物に込められた思いも、読み取ることができると、その本には書いてあった。」


顔を上げると、もうそこにはセクエはいなかった。アトケインには、セクエがどこまで聞いていたのかは分からない。


(あのネックレスが、セクエ殿の何かを変えてくれるといいのだが…。)


アトケインは黙って整理を続けた。


ーーーーーー


セクエは賢者の屋敷の屋根の上に立ったまま、ネックレスを見つめていた。


日にかざしてみると、本当に美しかった。川辺に咲く小さな花を連想させる、淡い紫色だった。



それを持ってじっと見ていると、ネックレスに込められた思いが伝わってくる。


ーこの子は、きっと辛い運命を背負って産まれるわ…。ー


母の声だった。暗く、沈んだ声だった。


ー私の予想が正しかったら、自分の魔力の制御どころか、他人の魔力の影響を強く受けて、人格そのものが崩壊しかねない。ー


(これは、私が産まれる前の記憶。)


産まれる前から、自分は魔力の制御ができないと決まっていたのだろうか。


ー大丈夫だ。ー


聞きなれない声がした。勇気づけるようにしっかりとした口調で、その声は続けた。


ーそれならば、魔道具を作ればいい。この子の有り余る魔力を抑え、正常に戻す魔道具を。二人で共に作ろう。ー

ーこの子の未来は、どうなってしまうのかしら…?ー

ーどんな残酷な未来であろうとも、それをこの子と共に乗り越えていくしかない。この子は…私と君の、たった一人の大切な…ー


声が途切れた。セクエは自然と目を閉じて、意識をネックレスに集中させていた。



泣き崩れる母の姿が見えた。まだお腹は大きい。セクエは生まれていないようだった。


ーああ、どうして…どうして私を置いて行ってしまったの?私一人でなんて、とても無理…。ー


母の手には、透明な石のついたネックレスが握られていた。



場面が変わった。住んでいた小屋と村をつなぐ獣道だった。ヘレネが幼いセクエを連れて村に入っていく。それを見送りながら、母は呟いた。


ーなんで、笑えないのかしら。せめてあの子の前でだけは、笑っていないといけないのに。ごめんなさい、セクエ。どうかこんな私を嫌わないで…。いえ、でも、嫌われていてもいいんだわ。あれが完成すれば、きっとセクエに、素敵な未来を約束できる。あの方もきっと、それを望んでいる。それができる力が私にあるなら、たとえ嫌われたって…ー


母は後ろを振り返り、小屋のある方へ一人で歩いて行った…。



セクエはゆっくりと目を開けた。


(お母さんは、嫌われる覚悟でいた…。)


考えたことがなかった。ただ、母は自分を嫌っていると思い込んでいた。理解できていなかったのは、自分の方だった。


(まいったなぁ、あんなもの見せられたら、このネックレス、使うしかないじゃない。)


手に持ったネックレスを首にかけ、空を見上げた。不思議と息が楽になったような気がする。


「ナダレ。私、決めたよ。」


出てきていないナダレに向かってセクエは言う。


「私、バリューガを助けたい。だから…ここに残って、もっと魔法の勉強するって…。」


セクエの胸元で、紫の宝石がわずかに青く輝いた。

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