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氷の魔法使い  作者: 星野 葵
2/5

#1 目覚め

目の前に、何かがいる。


それが何かなんて、そんなことは分からない。分かるのは、それが真っ黒い『何か』であることだけだ。

セクエはその『何か』と向かい合っている。


やがて『何か』はその真っ黒い手をセクエに伸ばしてくる。いや、それが手なのか、はたまた触手なのかということも、分からない。ただ、その『何か』は何か長いものをセクエに向かって伸ばしているのだった。


セクエはじっとしている。驚くことも、怯えることもない。ただ静かに、その『何か』を見つめている。


ーここから出て行けー


『何か』は長いものを伸ばしたままセクエに語りかける。これも、声というものとは少し違う。耳で聞いているような気もするが、頭の中に直接響いているような気もする。


ーここから出て行け…さもなくば…お前を…ー


お前を、の次に何を言われるのか、セクエは分かっている。聞き飽きた言葉だったからだ。


『何か』の長いものはやがてセクエの首に巻きついて、ギリギリと締め上げる。


苦しい。首が取れてしまいそうだ。


しかし。


セクエはここでは死ぬことはないと知っている。何度も何度も経験していることだ。たとえこの苦しさから逃げたくても、死んでしまいたくても、その瞬間はやっては来ない。失神することもない。ただ苦しみ、この声を聞くこと。それがセクエにできることの全てだった。


だから、セクエは決して声を出さない。それが無駄だということは分かりきっている。


ーお前を…コロス…ー


コロス…ころす…殺す…。


頭の中でその言葉だけがぐるぐる回っている。


「…なんで…」


(ああ、言ってしまった。)


ここでセクエはいつも声を出してしまう。声がかすれ、息もうまく吸えないが、何か言い返さずにはいられない。このまま黙って聞くことがどうしてもセクエにはできなかった。


「どこから、どうやって…。それを…教えなければ…分からない。分からなければ…できない…。」


この声が聞こえているのかいないのか、『何か』は同じことを繰り返して言うだけだった。


ー出て行け…さもなくば…殺す…お前を…ー


「黙れ…。」


耳障りだった。もう聞きたくない。なんでいつもいつもこんなことにならなければいけないんだ。


ーさもなくば…さもなくば…ー


「黙れ…!」


ーお前を…殺す…ー


「黙れっ!」


セクエは叫んだ。そして、目を覚ました。


ーーーーーー


セクエは目を開ける。悪夢といっていいほどの夢だったのに、飛び起きることも、ハッと目を開くこともなく、ゆっくりと目覚めた。


頭痛がひどい。本当に首を絞められていたかのようだ。


(最近は、本当にあの夢ばかり見る。)


『何か』と向かい合い、首を絞められる、あの夢。


(でも、分からないじゃない。出て行け、なんて言われても。私にできることなんて、ないじゃないか。)


セクエは起き上がる。頭痛はいくらか治まっていた。両足を床につける。だが、セクエはベッドから立ち上がることなく、腰掛けたままだった。


(動きたくないな。)


どうやらあの夢はどこか現実と繋がっているようで、昨日あたりから寝ていなくてもあの声が聞こえてくるようになった。あの声を聞くことになると思うと、何をするにもやる気が出ない。それほどまでにうっとうしいのだ。


セクエは、さてどうしたものかと、天井を見てぼんやり考えた。


ーーーーーー


今セクエがいるのは通称「学舎」と呼ばれる場所だった。学舎があるのは、どこか古い火山のような場所だ。空を丸く切り取るように周囲を岩壁に囲まれ、その岩壁には洞窟はもちろん、裂け目や割れ目など、人が通り抜けられるような穴は全く無い。そんな土地にこの学舎は建っている。名前からして、学校かと思うかもしれないが、ここは普通の学校とはずいぶん違う。


ここで学ぶことは、字の読み書きでも計算でもなく、いわゆる『扱い方』というものだ。それも、機械や道具のそれではなく、神々が持つ不思議な力、通称「奇跡」と呼ばれる力の扱い方を習うのだ。


そして、神々の奇跡を使うことを許されるのはごく一部の選ばれた人間だけだった。ここはその選ばれた者たちが集まり、その力の引き出し方、抑え方を学ぶ所なのだ。


選ばれた者、とはどういうことか?それは一般に神と呼ばれる魂たちが、人間の世界で見つけた奇跡を扱える才を持つ子供たちのことだ。才能を見出された子供たちは、その才能を見出した神によって学舎へと連れてこられる。そして、その神を体に宿す「器」になるのだ。


神と呼ばれる魂たちは、世界中をくまなく飛び回って才能を持つ子供を探す。そして、才能を持つ子供なら、たとえ少年でも少女でも、金持ちでも貧しくても、肌が白くても黒くても、関係なく学舎へと連れてくる。そして混乱を防ぐためにそれまでの記憶を消し、奇跡の使い方を教える。


神が器を信頼し、器が奇跡を完全に使いこなせるようになった時、器と神は完全な神として覚醒する。そうして覚醒した神は学舎を出て行く。そして人間の世界を守る神として、人間の世界で暮らす。


この少女、セクエはその神の候補、すなわち神を宿す器なのだった。


ーーーーーー


(誰かに相談しようか…いや、でも、相談できる人なんて…。)


いない、と思ったが、そこで一人の少年の顔が思い浮かぶ。彼なら、きっと話を聞いてくれる。


(会うのは久しぶりだなあ…。しばらく顔も見てない。今も元気だろうか?)


そう思ってみるが、セクエはすぐ首を横に振った。

(元気じゃないはずがない。彼は元気を絵に描いたような人だから。)


しばらく会っていないにもかかわらず、目を閉じれば、セクエ、と自分を呼ぶ彼の声が聞こえてくるようだ。それほどまでに明るく、元気な少年だ。


(話をするだけ、してみようか。久しぶりに会いたいし。)


セクエは立ち上がり、自分の部屋から出る。そして向かった。その少年、バリューガの部屋へと。


ーーーーーー


ノックをするが、返事がない。おそるおそる扉を開けてみると、誰もいない。


(なんだ、いないのか。)


バリューガだって神の器だ。今は、きっとどこかで奇跡の使い方を練習しているのだろう。しかし彼がいないとなると、時間を持て余すことになる。


(少し散歩でもしようかな。)


学舎の土地は、器なら誰でもどこへでも自由に行くことができる。セクエは外へ出ることにした。


(外の空気を吸えば、少しは気分も晴れるだろうし。)


まっすぐ出入り口に向かい、そのまま外へ出る。


青空だった。風がそよそよとセクエの肌をなでて、肩より少し長い彼女の黒い髪をなびかせた。


うーんと伸びをする。思えば、ここに来てから外に出たのは初めてのことだった。それまでずっと室内で問題無かったのだ。


あてもなくぶらぶらと歩く。とりあえず学舎の周りを一周して、それからふと思いついて学舎の裏にある草原に足を踏み入れた。


あちこちで器の姿を見た。神の種類によっては外で練習した方がいい場合もあるのだろう。風を巻き起こす者、草花を芽吹かせる者、天候を操る者…神には多くの種類があるのだ。


しばらく草原を歩いて、またふと思いついて少し左に曲がって歩いた。もちろんあてなど無いのだから、なんとなく歩いているだけだ。


草原はかなり長く続いていたが、やがて草もまばらになり、ごろごろと石が転がっている荒野に出た。それでもセクエはまっすぐ歩き続けた。


目の前に岩壁が見えてきた。


(あれ、もう学舎の土地の端まで来たんだ。)


この際、壁まで行ってみようと思い、セクエは歩調を早めた。始めは早歩き程度だったが、そのうち走り出し、何回か足元の石につまづいて転びそうになった。


息を切らしながら岩壁に到着する。遠くからだと分からないが、表面にはほとんど凹凸が無く、なめらかだった。


(考えたこともないけど、これじゃあ登れないね。逃げようと思ってもできないんだ。)


そう考えると、ここにいることがなんだか恐ろしくなってくる。まぁ、神として覚醒すれば外へ出られるのだが。


岩壁に沿って歩く。足場が悪かったので、転ばないように気をつけた。すると。


「穴、だ。洞窟かな?」


岩壁がくぼんで、人が十分通れるほどの大きさの洞窟ができていた。どこか自然にできたとは思えない雰囲気がある。


一、二歩踏み込んで、奥に誰かがいることに気づく。


「誰かいるの?」


セクエは声をかけてみる。


「ん?…セクエじゃねえか!久しぶりだな!」


話しながら外へ出てきたのは、バリューガだった。思った通り彼はいつでも元気なようだ。


「おまえ、外に出ることがあるんだな。ずっと閉じこもってんのかと思ってたぜ!」


その一言にセクエは呆れる。


「元気そうで何より。ちょうどバリューガを探してたんだよ。」


すると、バリューガは意外そうな顔をする。


「へえ?探してたって、どこを?」

「どこって…。」


考えて、首をかしげる。思えば不思議なものだ。セクエは一度も外に出たことが無いのに、バリューガの所までほとんどまっすぐにやって来た。外がどうなっているか分からない上に、バリューガがどこにいるかも分からないはずなのに。


「バリューガの部屋に行って…適当に歩いてたら、ここに来た。」

「ヘヘッ。さすがだな。テキトーでここまで来れるなんて、普通じゃねえや。」

「普通じゃないって…どういう意味?」


セクエは聞き返す。


「普通じゃないほど運がいいってことだよ。まあ、こんなところで話さないで、とりあえず、奥まで来いよ。オレ、普段はここで練習してんだ。ついでにおまえにも見せてやる。」


そう言ってバリューガは奥へと戻っていく。セクエもそれに続いて中に入っていった。


ーーーーーー


はじめ、セクエはこんな狭い所で一体何を練習しているのかと思っていたが、奥は意外にも広くなっていて天井も高かった。さらに、どこかに穴でもあるのか、洞窟全体はぼんやりと明るかった。


(なるほど、これなら練習できるね。)


セクエは一人で納得した。


それから、ふと違和感を感じる。


(なんだろう?空気が濃いっていうか、なんかむせ返りそうというか。空気自体は外とそんなに変わらないはずなのに。)


セクエはなんとなく気になって少し首をかしげる。

バリューガはそのことに気付かないらしく、話を続ける。


「あ、そういや、まだセクエにはオレが何の神の器なのか言ってなかったな。お前の力も見てみたいし、ここでとりあえずお互いに教え合うってのはどうだ?」


セクエからしてみれば、教え合うというほどの秘密ではないのだが、まあ、お互いに知っておいた方がいいだろうとセクエも思い、まずセクエから言うことになった。


「ほら、早く言えよ。」


バリューガがせがむ。


「えーっと、私に宿った神は、ナダレっていうんだ。解凍と凍結、氷と水の流れを司る神…つまり、氷を溶かしたり凍らせたりして、自由に流すことができる神なんだけど…ここは氷も水も無いから力は見せられないね。」

「ふぅーん。よし。次はオレだな。」


バリューガはなぜか意気込んでいる。


「オレはな、ヒョウって神に認められたんだ。えっと…氷とか、雪とか、そんな感じのものを作り出すんだ。こんなふうにな。」


バリューガがさっと手を振る。


「雪よ!」


すると、雲も無いのに天井から雪が降ってきて、床にうっすらと積もった。


「へえ、これなら私の力も見せられるね。」


セクエは少し喜んだ。力を使うのは久しぶりだったから、気合が入る。セクエは力を集中させる。


「氷たちよ。」


まずは積もった雪を溶かす。雪の積もった床は一瞬で水たまりだらけになった。


「水よ…!」


そしてその水を宙に浮かべる。それをしばらく眺め、それから思いついて、細く伸ばし、くねらせながらその空間に流れを作る。


それほど難しくはないことだった。だが、今バリューガには、その水はきっと空を飛ぶ水の蛇、あるいは竜のように見えていることだろう。


それをしばらく楽しんでから、セクエは水を部屋の中央に集め、凍らせて、床に落とした。中に気泡が一つも無い、透明な氷だ。


「へえ、なかなかやるじゃねえか。オレより早くここから出られるんじゃねえか?」


バリューガが褒めてくれた。だがセクエはそんなことよりももっと気になることがあった。


「ねえ、なんか変な感じ、しない?」


セクエはバリューガに尋ねる。さっきよりもずっと空気の違和感が大きくなっているような気がするのだ。


(なんだろう、この感じ。どこかで、感じたことがあるような…。)


「うーん。別にそんな感じしないけどなぁ。どんな感じなんだよ?」

「どんなって…空気が濃いっていうか、見えない力があるみたいな。」


そう言いながら、セクエは少しだけ思い出した。


(そうだ、私が学舎に来る前。私が覚えていない頃に…何か、これと似たものを感じたことがある。なんだっけ、確か名前があったはず…)


とても大事なことな気がする。自分の故郷や家族に、何か深い関係があるような気がしてならない。


「そう…確か、これは…」


思い出せそうな気がした。そしてほぼ無意識にセクエは呟いた。


「魔力…。」


その瞬間、セクエの頭の中で何かが弾けた。自分が発した『魔力』という言葉によって、決して戻るはずのない、ナダレに抜かれた過去の記憶がセクエの中に戻っていく。


と同時に、セクエを激しい頭痛が襲った。起きた時の頭痛とは比べ物にならないほど強く、激しかった。頭が今にも割れそうな、そんな痛みだった。


(割れそうなんてものじゃない。今にも、爆発してしまいそう…!)


そのあまりの痛さに、セクエは目をつむって両手で頭を抑え、それでも足りずに倒れこみ、呻きにも似た悲鳴を上げながらもがいた。


そうしていながらも、セクエの頭の中には過去の記憶が次々に思い出されている。自分の家が見えた。鏡に映る幼い自分が見えた。自分を見つめる母の顔が見えた。


そして、すべてを思い出した。


ーーーーーー


バリューガは、完全に混乱していた。


セクエがいきなり『魔力』とかいうことを言った。正直なところ、バリューガにはそれが何なのかさっぱり分からない。だから聞き返そうとしたのだが、今度はいきなり頭を抱えて苦しみ始めたではないか。見たところ頭痛のようだが、その苦しみ方は異常だった。駆け寄って声をかけたのだが、もはやそれには何の意味もなく、セクエは悲鳴を上げ続けるだけだった。


だが、それもだんだんと治っていったようで、しばらくすると、息切れこそしていたが、体を起こした。


「…大丈夫か?かなりひどい頭痛だったみたいだけど…。」


セクエはゆっくりと立ち上がりながら言った。


「うん、もう大丈夫。問題ないよ。」


その言葉を聞いて安心する。安心しすぎて、バリューガはセクエのその顔に悲しそうな色が浮かんだことに気づかなかった。


セクエはうーんと伸びをして、それからバリューガに向き直って言った。


「じゃあ、見せてよ。」


バリューガはキョトンとする。


「だから、力を見せてくれるって言ってたでしょ?それを見せてって言ってるの。」


セクエが呆れたように言う。バリューガもようやくセクエが何を言っているのか分かった。


「ん、ああ、そうだったな。そんじゃ、見てろよ。…氷よっ!」


勢いよく手を上に振る。すると、たくさんの氷が出現した。次に意識を集中させ、氷に命令する。すると、氷は四方に飛んでいき、壁に強くぶつかって砕け散った。


「ま、こんなもんだな。ついでだから、お前もやって…」


バリューガは振り返る。そして、言葉を詰まらせてしまった。


壁に当たって砕け散った氷のかけらがいつの間にか集まって、自分の方を向いてぴたりと止まっている。それを操っているのがセクエであることはすぐに分かった。セクエがやろうと思えば、いつでもこの氷を自分に向けて動かすことができるということも。


「ど、どういうつもりだよ。これ…。」

「それはこっちが言いたい。」


セクエは冷たく言い放つ。


「どこ狙ってるの?もっと全力でやってよ。」

「全力って…どういうことだよ。何が言いたいんだ?」

「力を見せてくれるって、言ったよね?だったら…その全力を、私に示してみてよ。」


バリューガはますます混乱するばかりだった。


「示す?よく分からねえよ。何がしたいんだよ?」

「そう。分からないか。じゃあ、言い換えるね。…勝負をしよう、バリューガ。私と、あなたで、どちらが強いか。」


セクエがそう言ったとたん、バリューガは殺気を感じて、しゃがみこんだ。頭上をすごい勢いで氷のかけらが通り過ぎていく。


(ますます訳わからねえぞ?なんでこんなことになってんだよ?)


「何ぼうっとしてるの?そんなんじゃ、つまらないでしょっ!」


セクエがまた氷を操ってこちらに向けてくる。バリューガは避けるだけで精一杯だった。


「おい、やめろよ!どうしちまったんだよ?」


セクエは答えない。ただ無言で氷を向けてくるだけだった。


(くそっ、こうなったら…。)


「氷よっ!」


バリューガは一つ氷を作り出し、セクエに向けて発射した。氷はまっすぐにセクエへと向かっていく。しかし、氷はセクエに当たる前に水へと変わり、セクエを避けて後ろの壁に当たっただけだった。


セクエは一つため息をつく。


「なんだ。思ってたよりずっと弱いね。期待するだけ損だったかな?」


その時、氷の一つがバリューガの左肩を切り裂いた。バリューガは呻いて倒れた。血が止まらない。こんな大きな怪我をしたのは初めてのことだった。さらに、当たった所が悪かったのか、左腕がまったく動かない。その現実がますますバリューガを混乱させた。


(セクエ…笑ってる。)


この状況でセクエは笑っていた。声を上げてはいないが、それでも確かに笑っていた。


「痛え…。何すんだよ、セクエ!」


バリューガは呻きながら怒鳴った。その瞬間、セクエの目の色が変わった。


「セクエ?…セクエ、か。違う。そんな名前じゃないんだ。私は…セクエじゃない…!」


セクエは今にも泣き出しそうな、悔しそうな顔をしてバリューガを睨んだ。だが、その理由がバリューガには分からなかった。


「何、言ってんだよ?お前がセクエじゃないなら、何だってんだよ。」

「セクエはあくまで体の名前。」

「……?」

「私はセクエじゃない。この体はセクエだけど、その中にいる私は違う。私はもう、バリューガが知っているセクエに戻ることはできない。全部、思い出したから…。」


(なんだよ…それ。そんなことがあるのか?人に違うとか正しいとか、そんなのあるのかよ?)


セクエが言っていることはバリューガにはほとんど理解できなかった。セクエは続けて言う。


「今までの私は、この力が人を救うためにあると信じ込んでた。でも、思い出したんだ…自分がセクエじゃないってこと、思い出したんだよ。だから今なら言える。その考え方は間違ってるってね。」


肩に再び激痛が走り、バリューガは再び呻き声を上げた。見れば、肩の傷から出ている血が、凍りついていた。セクエが力を使って凍らせているのだ。恐ろしい光景だった。だが、一瞬、ほんの一瞬だけ、バリューガはそれを美しいと思った。人の中にはこれほどに美しいものが流れているのかと思った。だが、これは美しいと同時に強い痛みを与える魔の宝石だった。バリューガは肩を手で押さえてなんとか痛みを抑えようとするが、冷たい氷はより大きな痛みをバリューガに与えただけだった。バリューガは呻きながら叫ぶ。


「おい、止めろ!止めろっ!」

「この力は、その強さを他人に見せつけるためにある。人間に順位をつけるためにある。弱者を倒し、支配し、殺す。そして強者だけが上に立つ。そのためにこの力は存在する…!」


セクエは苦しむバリューガを無視して地面に散らばった氷を集め始めた。


(それで、何をする気なんだ…?)


ただ恐ろしかった。もしかしたら、このまま死ぬのかもしれない。そう思うと、不思議と痛みをあまり感じなくなった。バリューガは氷もセクエも見ないですむように仰向けになって目を閉じた。


「だから、弱者は強者によって倒され、支配され、殺されなければならない。」


(声が…震えてやがる。)


バリューガは混乱しすぎてまともに考えられない頭でぼんやりとそんなことを思った。


セクエは氷をすべて集めると、それを水に変え、それを中に浮かべたまま言った。


「正直がっかりしたよ。私はこれでも、バリューガのことは高く評価してた。だから期待してたのに、まさかこんなに弱いなんて…。」


その水をバリューガの方へ向ける。バリューガは地面についている背中の辺りに水が流れてきて、それが氷に変わっていくのを感じた。セクエは、バリューガにも聞き取れないような小さな声でつぶやいた。


「私を止められるって、思ってたのに…きっと止めてくれるって…信じてたのに…。」


水はバリューガの体を包みこみ、そして氷に変わり続けた。動くこともできずに、バリューガは大きな氷の塊に飲み込まれてしまった。


ーーーーーー


氷の中のバリューガを、セクエはただ呆然と見ていた。バリューガは、ぐったりとしたまま動かない。いや、動けない。


(そうなんだ、いつだってこの力は、戦い、殺し合うためにある。)


氷の中のバリューガは、まるで眠っているような表情をしていた。遠くから見れば、ガラスの容器に入れられた人形のようだった。


セクエは目をぎゅっとつむって首を振る。


(やっぱり止めよう。こんなこと、間違ってる。バリューガを殺すなんて、そんなこと…。)


氷からバリューガを出そうと力を集中させた、その時。


膝から突然力が抜け、セクエはがっくりと倒れ込んでしまった。体に力が入らない。いつの間にか息切れもしていた。


「魔力を…使い過ぎた…の…?」


セクエが考えていた通りなら、まだ魔力を使い果たすには早すぎる。しかし、魔力が無くなってしまったのは確かだ。その証拠に、バリューガを覆っていた氷はその形を保てなくなり、水に変わり床に流れてしまっている。


(そうか、私はまだ完全に魔力に目覚めたわけじゃなかったんだ。バリューガを、助けたかった、けど…。)


意識が薄くなる。もうどうしようもないことは分かっていた。


(バリューガは死んじゃうのかな。自分でやったことだけど、でも、そんなのは嫌だ。…誰かに見つかったら、きっと私は何かしらの罰を受けるんだろうな。もしかしたら処刑されるかも。…でも、もう関係無いのか。そうしたら私はこの体から抜けて、また別の体に宿る。それが、私の生き方。私に与えられた定め…。)


少し唇を噛み、悔しそうな、悲しそうな顔で、彼女は気を失った。


ーーーーーー


バリューガは目を覚ました。目を開ける。


(ここは…どこだ?)


自分は寝かされている。そして、肩の痛みとその場の雰囲気から、ここが病室であることが分かった。

(オレはなんでここにいるんだ?)


記憶がはっきりしない。なぜ自分がここにいるのか、なぜ怪我を負ったのか、思い出せない。


「気がついた…?」


小さな声。首を横に向けるとそこにまだ七、八歳と思われる少女がいた。


「あんた、誰だ?」


バリューガは尋ねる。少女は恥ずかしそうに、弱々しく小さな声で答えた。


「あたし、リア。治癒の神。あなたの肩の傷、とても深いから…動かないでね?」

「あ、ああ、そうか。」


(肩の傷?いつできた?どうして?)


傷の深さから考えて、普通にできる怪我じゃなさそうだ。バリューガは勇気を持ってきいてみた。


「なあリア、オレはなんでこんな怪我を負ったんだ?」


えっ、と小さな声をもらしてから、リアは答えた。


「…みんなは、セクエっていう女の人がやったって言ってるよ。覚えて、ないの…?」


心配そうな声だった。もし記憶がないなら、誰か他の人に連絡した方がいいと思っているのだろう。だが、なんとかバリューガは何があったのかは思い出せた。


「セクエ…?」


バリューガは動く方の手、すなわち右手で顔を押さえた。


(そうだ。オレはあいつと会った。そこで、オレはセクエと…)


「セクエは、悪くない。」


バリューガはつぶやく。


「へっ?」

「なあ、セクエはどこだよ?あいつと話がしたいんだ。」


リアは困ったようにうつむいて、答えない。


「なんだよ?セクエも、怪我でも負ってるのか?それで、会えないとか…。」


どうやらそうではないらしいことは、自分で言っていて分かった。


「なあ、答えろよ。何があったんだよ?」


バリューガは慌てて言う。リアはようやく口を開いた。


「セクエは…もう、いない。」

「え…?」

「本当は、あなたが目覚めるまで待つ予定だったんだけど、一向に目覚めないものだから、セセィラが…」


(セセィラ?あの、雷の力を持ってる、女のくせにやけに気が強いあいつか。問題が起こると必ず口出ししてくるやつだからな。)


「こんな危険な奴は、もうこれ以上、生かしておけないって…。反対する人もいたんだけど、でも、そうするしかないって決まって…それで…」


それで、どうなったのか、バリューガは聞く前に分かってしまった。できれば聞きたくなかったが、それでもリアは言った。


「昨日…処刑されたって…。」


ーーーーーー


リアが出ていって、静かになった部屋で、バリューガはぼうっとしていた。出て行く寸前、何かバリューガに言っていた気がしたが、バリューガには届いていなかった。


(セクエが、死んだ?)


その現実はバリューガの胸を深くえぐり、その他のことを何も考えられなくしてしまっていた。


(セクエは、何もしてない。なのに処刑されたのか?なんでセクエがそんなことにならないといけなかったんだ?)


あの時、セクエは確かに自分はセクエとは違うと言っていた。結局、バリューガは何も分からないままだった。


(もう少し、オレが早く目覚めていれば…。)


セクエの無罪を証明できていれば、いや、無罪とはいかなくても、何があったのか説明さえできれば、きっと彼女は死ななかったはずだ。


(オレは、あいつに何もしてやれなかった。)


幼馴染だったのに。友達だったのに。


(守ってやれたかもしれないのに…。)


まだ肩の傷は鈍く痛んでいた。右手でそっと触れる。触れた所が激しく痛んだが、その痛みも気にならなかった。触れたことで少し血が出たが、そのことには気付かなかった。


自分が涙を流していることにも、気付いていなかった。


ーーーーーー


やがて、肩の傷は治った。大きな傷痕が残ったが、後遺症も残らず、見た目以外は綺麗に治った。


バリューガは表面だけは明るく振る舞った。もうここではセクエは反逆者で、誰も同情なんてしていなかった。セクエのことを話したり、そのせいで元気が無い様子を誰かに見られたりしたら、きっとおかしいと思われるに違いなかった。だから、表情だけではなく、言動にも気をつけた。しかし、セクエのことは一瞬も忘れはしなかった。


怪我が治ってから、バリューガは今までより一人でいることが少しだけ多くなった。誰かと一緒にいると、どうしてもセクエを思い出してしまう。あの時の自分が弱かったからセクエが死んだ。そう思わずにはいられなくて、つらかった。


そして奇跡の練習も忘れなかった。いつもの場所、セクエと戦ったあの場所で、少しでも完璧になれるように練習し続けた。もう誰かを守れなかったなんてことがないように、同じことをしないために、バリューガは必死だった。それは同時に悲しさを紛らわすためでもあり、怒りをぶつけるためでもあった。


そして、セクエの処刑の日からだいたい一年ほど経った頃、バリューガは覚醒した。ヒョウが彼の体と一つに溶け合って、バリューガは完全な神になった。


ーーーーーー


夜、誰にも告げず、バリューガは外に出た。覚醒したことは誰にも言ってない。完全な一人。


(うわー、すげえ星。)


今日は天気が良かった。空には一面星が輝いている。


そういえば、人間には、死んだ者は星になって空で輝くという考え方をする者がいるらしい。


(とすれば、セクエもあの中に…)


考えて、首を大きく横に振る。


(何考えてんだ、オレは。もう一年も経つっていうのに、いつまでもセクエのこと考えて悲しんで。どんなに悲しんでも、オレがセクエのことを守れなかったのは変わらない。もう終わっちまったことだ。どうしようもないんだ。)


気を取り直し、飛ぼうと念じた。すると、体がふわりと浮き上がった。


(あの噂、ホントだったんだ…。)


学舎の噂によると、覚醒した者は自在に空を飛ぶことができるという。その力でこの出口のない学舎から出て行くのだ。


バリューガは飛んだ。とりあえず学舎を囲む崖の上に立つ。暗くて見えないが、この向こうには学舎とは違う世界が広がっているはずだった。


(ここに、人間の世界があるんだ。国があって、町があって、そこに人間が暮らす、そんな世界が目の前にあるんだ。)


そして、そこは自分が生まれた世界でもある。記憶がないから懐かしいとは思わない。だが、それでも、学舎の外にはどこかに自分を産んだ両親がいて、自分が生まれた町がある。それがなんとなく不思議だった。


(そんじゃ、行くとするか。)


バリューガは風に乗って飛んだ。迷わずに、まっすぐ、一番明るい星の方へと。


ーーーーーー


どれくらい飛んだだろうか。空がうっすらと明るくなってきた。まったく気付かなかったが、今バリューガは森の上を飛んでいた。


(少し疲れてきたな。そろそろ決めないと。)


覚醒した神は、自らの治める土地以外の場所に足を付けてはならない。分かりやすく言い換えるなら、最初に足を付けた土地を治めることになるのだ。つまり、最初の一歩が一番重要で、簡単に決めると後で後悔しかねない。


(でも、しばらく森が続いてるみたいだな。近くに町でもあればいいんだけど。)


だが、ここまで森が一面広がっていれば、町なんてまだまだ見えてこないだろう。疲れるが、しばらくは飛び続けるしかないようだった。


飛び続けて、視界の隅に何かが見えた。これだけ木が生えているのだから、違う物があれば目立つのも仕方がない。


(なんだろう?こんな森の中で。)


バリューガは止まってその何かを探した。木以外に何かあるなら、それが何なのかを確かめずにはいられなかった。


(このあたりかな?)


見当をつけてそこから少し離れた場所に降りる。歩きながら近づくと、そこには立ち枯れの木が一本生えていた。そして、その木の根元にいたのは…


(人間?しかも子供だ。なんでこんな場所にいるんだろう。…何してるんだろう。)


バリューガは木の陰から様子を見た。


その子供は木の根元に寄りかかるようにして座っていた。フードの付いた長いマントを着ている。そのフードを深くかぶり、さらにマントを布団のように体にかけていたので、顔は見えなかったし、男か女かも分からなかった。


(寝てるのかな?)


もう少し近づいてみようと思った時、その人が言った。


「誰?」


バリューガは驚いた。まさか気づかれているとは思っていなかったのだ。動けないでいるバリューガに向かってその子は言う。


「まぁ、誰でもいいや。もう少し近づいてくれない?このままじゃ会話もできないよ。私の方からそっちに行ければいいんだけど、あいにく今私は動けないからね。」


男か女か分からない声をしていたが、私と言うからには女の子なんだろう。少し恐ろしい感じもするが、どうやら敵意は無いらしい。バリューガはゆっくり近づいた。


「君は、似てる。」


その子はいきなり言った。明らかにバリューガの方が年上で、それも三歳ほど差がありそうな子供に君と呼ばれるのはなんだか見下されているような気がした。


「…誰にだよ?」

「私の知り合いにだよ。もう二度と会うことができない彼に、君はよく似てる。」

「ふうん…。」


(もう二度と会えない、か。)


「なんで顔も見てないのに似てるって分かるんだよ。」

「気配が似てる。」

「気配って…そんなんで似てるって言っていいのかよ。」


バリューガは少し呆れて言った。


「それだけじゃない。君はここに来るまで足元を気にしてばかりいたからね。下を向いていたけど、こっちからは君の顔はよく見えた。だから似ていると言えるんだ。」

「なんだその理屈。」


そこでバリューガはふと気になった。


「あんた、こんな所で何やってんだ?近くに町でもあるのか?」


その子は答えた。


「町?フフフッ…この辺りに町なんて無いよ。ここは一面森。ここで何をしているかなんて、見て分からない?休んでるんだよ。とても疲れてるからね。」


(町は無い、か。まいったな。)


とりあえずこの子供から離れようとするが、そこで声をかけられる。


「で、君は?」

「え?」

「だから、君はどうしてこんな場所にいるのかと質問しているんだ。この辺りに町は無い。一面が森。人なんているはずもない。なのに君はここにいる。君は何をしているんだい?」

「オレは…」


(えっと、なんて言えばいいんだろう?)


「…何ていうか、旅?みたいな感じかな。具体的な目的があったわけじゃなくて、ただなんとなくここに来ただけっていうか…。」


はっきりとは答えられない。答えるわけにはいかないのだ。バリューガが神であることは人間には知られてはいけない。それは神たちの間で決められていることだ。


「ふうん、旅、ね。いいんじゃない。私も、もう少し休んで元気になったら、旅に出ようと思ってたんだ。」

「あんたは、旅をしててここに来たんじゃないのか?」

「うん、違う。私は旅をしてここに来たんじゃなく、ここから旅に出るんだ。ここが旅の始まりなんだよ。」

「じゃあ、あんたはここに住んでたのか?」

「いいや、故郷は別にある。私は今まで住んでいた地を離れてから、人気の無い場所で休もうと思ってこの森にやってきたんだ。休もうと思ってこの森に来ることは、旅とはいわないでしょ?だから、ここへきた理由としては、君と大差ないね。人がいなければどこでもよかったんだから、この森である必要は無かった。ただなんとなく、ここに来た。」


ふう、とため息をついて、その子は言った。


「少し話しすぎたかな。私は疲れたよ。だから一眠りすることにする。君、もしよければ、またいつかここに来てくれないかな?私はしばらくは休んでいないとだから、暇つぶしが欲しいんだ。」


暇つぶし扱いされ、バリューガは少しムッとしたが、悪意は無いようだから仕方ない。その人のそばを離れ、飛ぼうとして、そこで気づく。


「あっ?」


足元をみる。両足がしっかりと地面についていた。


(あーあ、オレ、足つけてるじゃん。)


まったくの無意識だった。


(オレはこんな簡単に場所を決めたのか?ただあの子が気になったってだけで決めちまったのかよ?)


そんな自分に失望した。


ーーーーーー


次の日、バリューガは木の上で目を覚ました。とりあえず近くの手軽な木に登って一晩を明かしたのだ。

目の前に鳥がいた。小さくて、目がクリクリしてて、可愛らしい。


バリューガはそっと手を伸ばす。すると、驚いたのか、すぐに飛び去ってしまった。その様子を見てバリューガは落胆する。


(ここの神になった以上、動物たちにも慣れてもらわないとなぁ。)


木から飛び降り、うーんと伸びをする。木から離れるとなんだか寒かった。そういえば、今はちょうど秋から冬に変わる頃だ。


(久々に雪でも降らせてみるか。)


両手を上に上げ、力を集中させる。その力を雲に向けて飛ばす。いきなり雪が降らないように、少しずつ。今のバリューガの力なら、かけ声は必要無い。


(よし、おしまい。)


今はまだだが、やがて雪が降ってくるだろう。


(さーてと、あの子の所にでも行ってみるか。そういえば、まだ名前も知らないし。)


その枯れ木に着く頃には、雪はもう降り始めていた。頭の上に雪を積もらせながら、バリューガはその人を見た。


あの子はまだ枯れ木の根元にいた。


(なんとなく雪を降らせてみたけど、あの子には少し寒かったかな?)


心配したが、問題無さそうだ。とくに震えている様子も無いし、体を小さくしている様子も無い。むしろ楽しんでいるようで、マントの間から手を出して、手のひらを上に向けて、積もる雪を眺めていた。


なんだかとても絵になっていて、バリューガはしばらくそれに見とれていた。


すると、その子が言った。


「氷たちよ。」


この言葉を聞いて、バリューガは自分の心臓が飛び出そうになるのを感じた。この言葉はセクエが言っていたかけ声と同じだ。


(まさか、この雪が溶け始めるってことは無いよな?)


バリューガは緊張した面持ちでその様子を見守った。


結果から言って、雪が溶けることはなかった。


ただ、雪が溶ける以外のことは起こった。


その子がそう唱えた途端、上に向けられていた手のひらに雪が集まってきた。降ってくる雪が渦を巻きながら手のひらに集まっていく。


集まった雪は何かの形になる。兎だ。雪で作られた雪兎は、手の上からぴょんと飛び降り、その子の周りをぐるぐる飛び回り始めた。その後もその子は雪兎を作り続け、いつの間にかその子の周りは雪兎だらけになっていた。


それはなかなか愉快な光景だった。雪兎が薄く積もった雪の上を飛び回り、その子は雪兎の様子を見守り、時には近寄ってきたその頭を撫でたりしている。それなのに、とても楽しそうなのに、その子はなんだか悲しそうだった。


さく、と一歩踏み出す。すると、雪兎たちの動きがぴたりと止まった。


「見て、たんだ…。」


その子が残念そうに言う。


「不気味だって思うでしょ?それとも化け物みたいだって思う?逃げたいなら逃げていいよ。叫びたいなら叫んでもいい。私は君のことは襲ったりはしないから。」


本当につらそうな声だった。顔がわずかにこちらに向けられていて、フードの間から少しだけ顔が見えていた。


すぐ隣まで近づいて、バリューガは言う。


「あんた…」

「いいんだよ。そうさ、私は化け物だよ。私はこの力のせいで大切なものをほとんど全部失った。今さら何を失っても、何も変わらないから。」

「そうじゃなくて…」

「でも、もし許されるなら、君ともう少し話がしたかったな。退屈でたまらなかったから。」


一向に話を聞いてくれないので、バリューガはイライラしてきた。


「聞けよっ!」


その子は話すのをやめた。


「おまえ、セクエだろ。」


その子はしばらく黙ったままだった。そしてゆっくりと立ち上がったかと思うと、いきなりバリューガを突き倒した。そしてその上にのしかかり、喉に氷でできたナイフを押し当てた。素早い動きだった。


それからやっと口を開いて、こう言った。


「なんで、その名前を知ってるの。君は誰?言っておくけど、嘘はつかない方がいい。正直に話さないと…」


その子はナイフをより強くその喉に押し当てて言う。


「その首、切らせてもらうことになるから。」


感情の無い、冷たい声だった。


(こいつ、本気でやる気だ…。)


ごくりとつばを飲み込む。だが、目の前にある顔は、間違いなくセクエのものだった。


「オレがその名前を知っているのは、会ったことがあるからだ。オレは、バリューガだ。」


バリューガは正直に言った。セクエと思われるその子は笑って言う。


「…嘘つきだね。彼はもういない。確かに私が殺したんだ。生きているはず無い。」


その子がナイフを持つ手に力を込める。バリューガは続けて言う。


「それはおまえもだろ。」


その子の動きが止まる。ただじっとバリューガの目を見つめていた。


「オレが知っているセクエは、処刑されているはずだ。一年くらい前にな。だけど、あんたが今やったことは、セクエが見せてくれた力によく似てる。顔だってそっくりだ。オレは嘘はついてない。思ったことを言っただけだ。」


その子はナイフを喉から離し、ゆっくりと立ち上がった。そしてバリューガを見下ろしながら言った。


「なるほど。筋は通っているね。なら、何か証拠を見せてみてよ。あなたが本当にバリューガなら、何かあるはず。それを私に見せてよ。」


(証拠?)


バリューガは立ち上がる。


(こんなでいいのかな。)


バリューガは氷を作り出す。そしてそれを浮かべたまま、言った。


「これじゃ、ダメか?」

「当然。そんなこと、力のある者なら誰でもできる。」


(誰でもって、神の力ってそんなもんなのかよ?)


バリューガはもう何もできない。何が自分の証拠になるのかが分からなかった。


「どうやらもう何もする気が無いようだね。証拠を見せられないなら…」


セクエはバリューガに飛びかかる。その手にはやはり氷のナイフが握られている。


「死んでもらうっ!」


バリューガは上に飛んで逃げる。高く飛べば大丈夫だと思っていたが、なんとセクエも地面を蹴ってバリューガと同じ高さまで飛び上がった。


(こいつ、覚醒してないんじゃないのか?)


覚醒していなければ飛べない。そのはずなのに、セクエは確かに飛んでいた。


その時にできた一瞬の隙を、セクエは見逃さなかった。素早く近づき、その喉めがけて大きくナイフを降った。


バリューガはとっさに逃げたが、かわしきれなかったようだ。服が切れる音がした。


(くっそう、どうすればいいんだよ?)


相手がセクエだと、むやみに傷付けるわけにいかない。いや、そもそもまともに戦えるかも分からない。バリューガにとっては圧倒的に不利だった。


しかし、そこで、セクエは氷を蒸気に変えてナイフを消した。そしてつぶやいた。


「その傷痕…」


バリューガは腕を見る。破れた所はちょうど左肩、あの傷痕がある場所だった。


「まさか、そんなはずは…だって私は確かに…でも、この傷痕は…」


そんなことをぶつぶつ言って、それからしばらく黙りこんで、そしてやっと、まだ信じられないというような口ぶりでセクエは言った。


「本当に、バリューガなの?」

「…だから、さっきからそう言ってるじゃねえかよ。気づくのが遅すぎるんだよ。」


セクエはよろよろと二、三歩下がり、近くにあった木に寄りかかるようにして座り込んだ。


「生きて、たんだ。殺して、なかったんだ。」

「お、おい…」


バリューガは慌てた。セクエがいきなり泣き出したのだ。セクエは声を出さず、肩を震わせて静かに泣いた。


「セセィラが、バリューガはまだ目覚めてないって…もう目覚めないかもしれないって…だから、殺したんだと思ってた。もう二度と、会えないんだって、思ってた…。」


そこでバリューガは理解する。セクエもまた、バリューガと同じように苦しんでいたのだと。殺したと思い、そのことを後悔し、もう決して会うことはないと思い続けていたのだと。


「殺してなかったんだね。また、本当にバリューガと会えたんだね。生きてて、くれたんだね。」


セクエは泣き続けた。目は真っ赤に腫れていて、泣いているようにしか見えないのだが、それでもその口元だけは、確かに笑っていた。


「セクエの方こそ、生きててよかった。でも、なんでなんだ?処刑されたって聞いたんだが、あれは嘘なのか?」


バリューガは尋ねる。


「逃げたんだよ。殺される前に。」

「…どうやって?」

「それは…難しいな。なんて言えばいいんだろう。…私はね、魔法使いなんだよ。だからその力で逃げた。」

「えっと…」


(待てよ、今セクエのやつ、さらっとヤバイこと言わなかったか?)


「魔法使い、ってなんだよ?」


セクエはしばらくキョトンとしていた。それから、ああ、と気づいて、加えて説明した。


「魔法使いっていうのは、神みたいな力、魔法を使う人のこと。私が飛べたのも、その力のおかげだし、その他にも、やり方が分かればいろんなことができる。」


バリューガとしてはますます分からない。


「そう言われても…神以外にそんな力を持ってるやつがいるなんてこと信じられないし、おまえがそれだってことも信じられない。」


そう言うと、セクエは困った顔をした。なんと説明したらいいのか分からないのだろう。


「…なら、見せてあげるよ。その方が早い。」

「は?見せるって、何を?」

「記憶。私がどうやって逃げたか、その時の記憶をバリューガに見せるの。口で言うより、その方が分かりやすいでしょ?」


セクエはすっと立ち上がると涙を服の袖でぬぐって、バリューガの正面に立つ。


「ちょっ、待てよ。何する気なんだよ?」

「だから、記憶を見せるって言ってるの。いいからじっとしてて。」


するとセクエは右手の人差し指と中指の二本の指でバリューガの額を触れようとしたが、ギリギリのところでその手を止めた。


「ねえ、バリューガ。」

「な、なんだよ。」

「もし、私が本当にバリューガに記憶を見せたら、どう思う?」

「どうって…」


なんて答えればいいんだろう。一瞬バリューガは迷ったが、嘘をついてもしょうがないので、本当のことを言った。


「正直、かなり不気味だ。」

「…化け物みたいだって、思う?」

「化け物って、なんだよ。」

「…人間じゃないモノ。」


それを聞いて、バリューガはなんだか安心した。


「なあんだ、そんなの心配すんなよ!セクエは誰がなんと言おうと人間だって!ちょっと怖いけど、でもオレが保証してやるからよ。」

「そっか…。ありがとう、バリューガ。」


セクエは嬉しそうに微笑むと、止めていた手で額に触った。実のところ、バリューガは何をされるのかと気が気ではなかったのだが、やがて触れられているところが急に熱くなって、思わず目を閉じた。


「っ…!」


そして、何がなんだか分からなくなって、その場に倒れこんでしまった。


ーーーーーー


「成功したのか?」


セクエの中からナダレが出てきて後ろから声をかける。


「うん。久しぶりだったから、少し不安だったけど、大丈夫。うまくいったみたい。」


バリューガは倒れたまま意識が戻らない。一旦眠らせ、夢を見るように記憶を見せるのだ。記憶を見せるには他にも方法があるが、この方法が一番身体に負担がかからない。


「にしても、どうしたらいいかな。」

「何がだ?」


セクエは振り返る。


「だって、バリューガは私のことをセクエだと思ってるけど、正確に言うと私はセクエじゃないでしょ?なんて説明したらいいのかなあって。」


セクエの顔は暗い。


「ああ、そのことか。…なら、その時の記憶を消しておけばいいだろう。それで解決だ。」

「もうそこまで回復したの?」


セクエが心配そうに尋ねる。セクエは学舎に来て間もない頃、ナダレの力を使いすぎてしまったのだ。そのため、ナダレはセクエの中から出てこられなくなってしまっていた。学舎を出てから、ずっと休み続けていたのもナダレの力を回復させるためだった。


「問題ない。さすがに、我の力のほとんどを使われた時は驚いたが、今はもう大体回復している。それに、記憶操作は我の得意分野だ。失敗することはまずありえん。安心していい。」


神は記憶操作ができる。それはセクエだけでなく、バリューガたち器の全員が知ることだ。器は学舎に来た時に記憶を抜かれるのだから。


「後で記憶が戻ることは?」


セクエは確認する。


「ほぼ無いな。おまえのような特殊な場合を除いて、記憶が戻ることはまずない。」

「そっか…。じゃあ、お願い。」


ナダレがバリューガのそばに寄る。頭の上に手をかざし、そこでふと思いついたように言った。


「そうだ、セクエ。お前、今の自分がセクエではないとか言っていたな。」

「それはそうだよ。本当のことでしょ。」

「確かにそれは事実だ。が、今のお前がセクエであることもまた事実。我の目の前にいるこの男をヒョウではなくバリューガと呼ぶように、今のお前はセクエと呼ばれ、それは間違ってはいない。たかが名前でそんなに悩むな。もっと他のことに頭を使え。」


ナダレは目を閉じる。その時セクエはバリューガの頭から煙か霧のようなものがナダレの手に吸い込まれていくのを見たような気がした。


記憶操作を終えるとナダレは立ち上がり、セクエに言った。


「では、行くとするか。」

「…どこへ?」


ナダレが振り返る。


「ここから出るということだ。バリューガはこの地に足を付けた。それはこの地の神となったということ。であるなら、一つの場所に複数の神がいるのはまずいだろう。それにお前も言っていただろう?『もう少し休んで元気になったら、旅に出ようと思っていた。』と。」


(なんだ、聞こえてたんだ。)


「それもそうだね。じゃあ、どこに行く?」

「どこでもいい。勝手に決めろ。器のお前の行く場所なら、我はどこへでもついていく。」


セクエはその無愛想な言い方がなんとなく気に入らなかったが、そこで一つ思い出す。


(ああ、そうか。ナダレはこういうやつなんだっけ。少し口が悪いけど、それでも私のことを考えてくれてるんだよね。久しぶりに会ったから忘れてたけど。)


今は元気なナダレがいる。それだけでセクエの心は少しだけ軽くなった。


「よし。じゃあ、まずは里帰りから。私の故郷に向かう。」


すると、どこでもいいと言っていたはずのナダレが顔をしかめた。


「いいのかセクエ?お前の故郷がどんな所かは我もある程度は知っているが、戻っても、あまり歓迎されないと思うぞ。」

「どこへでもついてくるんじゃなかったの?確かに、歓迎はされないだろうけど、でも、まあ、そのことは賢者と話してみてから考えるよ。」

「…それが一番危険だと思うのだが。賢者と言えば、お前の故郷の村長だろう?面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。」

「大丈夫だよ。いざとなったらどんな手を使ってでも逃げるから。」

「…全く大丈夫ではないな。」


ナダレは呆れ果てている。


「そうと決まれば、早く行こう。バリューガが起きるとまた面倒だから。」


セクエは飛び上がる。ナダレもそれに続く。


二人は飛び方を確かめるように一回大きく円を描いて飛び、それから目的地に向かってまっすぐに飛び去った。


ーーーーーー


バリューガはいつの間にか起きていた。起きて、立っていた。


外だった。小石がいくつも散らばっている荒野といった感じで、草もあまり生えていない。


(ここは…学舎?)


見覚えのある土地だから、見間違えるはずはない。とするなら、ここはかなり崖に近いところだろう。


(なんでオレはここにいるんだ?)


あたりを見回す。誰かが立っている。


バリューガはその人影に走り寄る。だが、近くに行く前に、それがセクエであることに気づき、足を止めた。


「なんで、セクエがここに…?」


よく見れば、セクエは立っているわけではなかった。地面に立てられた棒に体を縛り付けられて、そこに立たされているのだった。


そして、セクエの目の前に、もう一人誰かいた。


(あいつは、セセィラ、だよな。どうなってんだ?)


そこでバリューガはやっと思い出す。


(ああ、そういやこれは記憶なんだっけ。セクエが見せてくれるって言ってた、処刑当日の記憶…。)


「ようやく目が覚めたようね、反逆者。」


セセィラが冷たく言い放つ。


「そんな呼び方はしてほしくないな、セセィラ。」


ふん、とセセィラは鼻で笑った。


「あら?反逆者でないなら、あなたは何?仲間を傷付けて、それで笑っていたっていうじゃない。そんな奴、生かしておく価値もないわ。」


セセィラは言い立てる。バリューガにはセクエにその罪を見せつけようとしているようにしか見えなかった。だが、セクエはわずかに笑みを浮かべて言う。


「笑いながら傷付けた、か。あながち間違いじゃないけど、でも少し違うな。」


「ふうん、言い訳しようっていうのね。いいわ。聞くだけ聞いてあげる。」

「…嬉しくて、楽しくて、それで大笑いすることってあるでしょ?」

「そうね。楽しければ、笑うのは当然だわ。」

「でも、笑ってると、たまに涙が出ることがあるでしょ?嬉しくて笑ってるはずなのに、悲しい時に出るはずの涙が出てくる。」


セクエはふと悲しそうな顔になる。そしてうつむいて、つぶやくように言った。


「それと全く同じ。私は苦しくて、悲しくて、壊れそうだった。大声で泣き叫びたいほどにね。…なのに、いつの間にか笑ってたんだ。嬉しいことも、楽しいことも、何もなかったはずなのに、私は笑ってた。…楽しくて笑ったわけじゃなかった。」

「ふうん、そう。でも、どんな思いで、何を考えてやったんだとしても、やった事実は変わらないわ。あなたはバリューガを傷付けた。それは、この事件からもう五日経ってるっていうのにバリューガがまだ目を覚まさないことが証明してるわ。」


セクエがはじかれたように顔を上げる。


「まだ、目覚めていないの…?」

「そうよ?ようやく自分がやったことの重さに気づいた?看病してる治癒の神によると、もう目を覚まさない可能性は充分にあるそうよ。つまり、あなたが殺したってこと。」


セセィラは『殺した』の部分を特に強調して言った。


セクエは何も言わない。いや、何も言えないのかもしれない。自分の手で人を殺したなんて、誰だって思いたくないだろう。


「何?その反応。分かってたんでしょ?というより、むしろそれを望んでいたとしか思えないわ。殺そうと思わないと、あそこまでできるわけないものね。」


セセィラは続けて言う。セクエは言われるままになっている。


「もうこれ以上何も言うつもりはないようね。まあ、それでもいいわ。そろそろ処刑を始めないといけないから。」


セセィラはセクエのそばを離れた。バリューガは、誰にも見えないとは分かってはいたが、セセィラの目を盗むようにセクエに近づいた。


うつむいている。目を閉じ、何かを考えているようだったが、さすがにその内容までは分からない。


「セクエ…。」


無駄だと分かっていながらも、つい声をかけてしまう。それがなんだかおかしいと思えて、心の中で声をかけることにする。


(どうすんだよ。このままじゃ、本当に処刑されちまうんだぞ?逃げるなら今のうちだろうが!)


しかし、というか当然のことながら、その声はセクエには届かない。足音が聞こえて振り返ると、セセィラが数人の器たちを引き連れて来るところだった。


「あいつを囲んで。一瞬で終わらせるのよ。」


セセィラが指示する。言っていることはかなり残酷だったが、器たちはその指示にしたがって動いていた。セクエはまだうつむいたまま動かない。


「バリューガ…」


バリューガは呼ばれたような気がしてセクエを見た。振り返ってから、そんなはずはない、と我ながらバカバカしくなった。


セクエは独り言を言っているのだ。


「本当に、私は殺しちゃったの?もう、生きてないの?」


暗く沈んだこの声は、おそらくセセィラたちには届いていない。だが、バリューガにはちゃんと届いていた。


「ねえ、バリューガ。そうだとしたら、私はどうしたらいいのかな?私も死んだ方がいいの?いや、もしそうだとしても…」


バリューガは何かの気配を感じてセクエから視線をそらす。周りを囲む器たちが力を集めている。セセィラの雷をはじめとして、炎、風…中には毒と思われるような液体を操る者もいた。


「殺した分まで、生きていなくちゃいけないんだ。まだ、死ぬわけには…」


そこまでセクエが言ったところで、セセィラたちは奇跡の力を発射した。セクエめがけて、ついでにセクエのそばにいるバリューガめがけて様々な力の塊が飛んでくる。


(間に合ってねえじゃんかよ?どうする気なんだよ、セクエは?)


その勢いに押されてバリューガはしりもちをついた。もうダメだ、と目をつむる。


しかし、痛みはいつまで待っても襲ってこなかった。おそるおそる目を開けると、力は何かにぶつかったようにバリューガから一定の距離を置いてその場で止まっている。一瞬、バリューガは時が止まったのかと思い、そしてすぐにそうではないと分かった。


(オレたちの周りに、何かあるのか?)


結界。どこかでそんな物があると聞いたことがある気がする。もしかしたら、それなのかもしれない。


雷や炎の向こうに、セセィラたちの動揺した顔が見える。


「それに、今の私は一人じゃないんだ。私だけだったら、勝手に死んでもいいのかもしれないけど、今の私には、ナダレがいる。勝手に死んだら、ナダレに怒られちゃうから。」


セクエは自分の周りで何が起こっているのか分からないかのように、独り言を言い続けていた。


「私は…生きていなくちゃいけない。」


決心したようにそう言うと、セクエは少しだけ結界を緩めた。


(ったく、何考えてんだよセクエは!火が!入ってきてるじゃねえかよ?)


結界を緩めたところから、炎が入り込んでくる。バリューガは焼かれる、と思ったが、その炎はまっすぐにセクエの方に行き、体を固定していた棒と縛っていたロープを燃やした。それが燃え尽きると、炎は消え、あとには何事も無かったようにセクエが立っていた。服には焦げ跡は一つもついてない。


セクエは結界に近づき、その境界面にそっと触れ、そして言った。


「消滅せよ。」


その途端、セクエの手のひらに吸い込まれるように力が消えた。セクエ本人は消滅と言ったが、バリューガには吸収しているように見えた。


力を消滅させ、結界を消したセクエは、セセィラの方に近づいていった。セセィラはかなり怯えているようで、体を震わせていて、セクエが近づいてくると分かると、青ざめた顔で数歩後ずさった。


セセィラの正面に立ち、セクエは言う。


「悪いけど、私、もう少し生きることにするよ。」

「な…あなた、何を言ってるの?そ、そんなこと、許されるわけ…!」


セクエはセセィラに向けて手を伸ばした。ちょうど手のひらをセセィラに見せるような体制だ。


「や、止めて…。」


セセィラは今にも泣き出しそうな声を上げる。それに対し、セクエは落ち着いた様子で答える。


「脅すのはあまり好きじゃない、というより、むしろ嫌いなんだけど、あんまり分かってくれないと、本当にやるよ。」


セクエは表情を変えなかった。怒っているわけではなく、かといって楽しんでいるのでもない。自然な顔のまま、セセィラを脅していた。


はあ、と一つため息をついて、セクエは手を下ろす。


「セセィラ、私はね、自分の罪を無かったことにしようなんて思ってない。むしろ、何かの罰を受けないとだと思う。…でも、私が死んで、何か変わるの?」


セクエはセセィラに問いかける。セセィラは怯えているのか、それとも本当に分からないのか、答えない。


「私が今処刑されたら、実際には、私とバリューガが死んだっていう事実しか残らない。私は何の罪滅ぼしもできない。私に与えられる罰は、今ここで死ぬなんていう簡単なものじゃなくて、もっと…一生苦しみ続けるようなものでないといけない気がする。」

「…そ、そんなの、ただ生きていたいだけの言い訳じゃない。罪滅ぼしのために生きるなんて、そんなの、バリューガは必要としないわ…!」


セセィラが言い返す。そしてセクエも言い返す。


「セセィラは、バリューガのこと、どれくらい知ってるっていうの?どうして必要無いって言えるの?」


不意をつかれたようにセセィラはまた黙り込んでしまう。セクエは続ける。


「バリューガはね、私の幼馴染だったんだよ。本当に小さな頃から、一緒に遊んだりしてたんだ。だから彼のことはよく知ってる。彼は私にとって…掛け替えのない存在だった。たった一人の…友達だった。そんな大事な人を殺すまで傷つけた、その罪を、その責任を…投げ出すようなこと、私はしたくなんかない!」


セクエは怒鳴った。その目には少しだけ涙がにじんでいるように見えた。


「…もし、本当に私が死ぬことが罪滅ぼしになるって分かる時がきたら、その時は…自分で死ぬ。だから…私に、時間をください。罪滅ぼしを見つけるまでの猶予をください。勝手だって、分かってるけど…」

「もう、いいわよ。」


セセィラがさえぎる。


「あなたが、もう学舎に必要無い存在だってことは十分に分かったわ。だから、もう出てって。」

「えっ、でも…」


セクエは口ごもる。驚いていることがその口調から分かる。


「いいから!ここから消え失せてって言ってるのよ!この…化け物!」


その言葉を聞いて、セクエは青ざめた。何か恐ろしいものでも見たように、目を見開き、セセィラから視線をそらした。それから急に悲しそうな顔になり、今にも泣き出しそうな声で、言った。


「そっか…。」


セクエは何も見たくないように後ろを向いて飛び上がった。崖まで一気に飛んでいき、その上に着地する。


「…さよなら。」


振り返らなかった。それだけ言うとセクエは再び飛び上がり崖の向こうにその姿を消した。


ーーーーーー


気付くと、バリューガは森の中で倒れていた。正しく言うと横になっていた。


さっきまで記憶を見せられていたはずなのだが、どうにもその感覚がはっきりしない。まるで夢を見ていたように、思い出そうとすると忘れてしまう。


「おい、セクエ…。」


あれは一体どういうことだ、と尋ねようとする。なんとなく覚えている限りでは、セクエが『魔法』という何かを使ったのは分かった。おそらくそれを使う者が魔法使いということも分かった。だが、もしそれが本当なら、セクエは一体、何者なのか?魔法使いということを聞きたいのではなく、なぜそんなことができるのかを知りたいと思った。神でない者が、なぜそんな力を扱えるのか…。


「あれっ、セクエ?」


いない。いると思っていたのに。知りたいことがあったのに。その思いに反してその姿はどこにも無かった。


(まあ、セクエはここに住んでるわけじゃねえし、どこに行こうとセクエの勝手だからな。むしろいないのが当然なのか。)


しかし、何か一言声をかけてからでもいいのに。きっと神出鬼没とはこんな人のことを言うのだろう。


(どうせオレは追いかけられないからな。気長に待ってりゃ、そのうちひょっこり戻ってくるだろ。)


そうしたら土産話をしてもらおう。セクエならきっと面白い話をしてくれる。直感でそんな気がした。


(よし!セクエが戻ってくる前に、オレも少しは神らしくならないとな。まずは森がどれだけ広いのか、ちょっと見てくるとするか。)


バリューガは飛んだ。その時巻き起こった風で野生の動物たちがどれだけ怯えるか、バリューガはまだ知らない。野生動物は敏感なのだ。そのことを思いやれるようにならないと、バリューガは神らしくはなれないだろう。


バリューガは飛んだ。先の見えないほど広い森の、空と森の境目を、思い切り速く飛んだ。森はずっと遠くまで続いていた。

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