影絵
ある泥棒が月明かりも星明りもない夜、美術蒐集家の自宅に忍びこんだときのことでした。
泥棒がお目当ての絵画を一枚、首尾良く奪っておさらばしようとしたのですが、偶然にも家主の老人に見つかってしまいました。
「待て」
家主は使用人を呼ぶでもなく静かに言いました。とがめる口調ではありません。
「その絵には触れないでくれ。他のどんな高価で高名な作品を盗っていこうがかまわんから、その絵だけは……」
泥棒は怪訝な顔をしました。その絵とは、この部屋に唯一掛かっている、可愛らしいチュチュに身を包んだ少女が描かれた重厚な油彩画だけです。悪くない筆致ですが、泥棒の肥えた目からすると三流以下の作品。見逃すもなにも、食指さえ動きません。
「おいおい。誰がこんな陰気な絵なんか盗むかよ。こっちの絵がいただけりゃあ、オレはそれでいいんだよ」
そういって泥棒は包みを開けて、持ちだしたばかりの高名な作者による、世間の絶賛を浴びた絵を見せつけました。
「ああ。そんな絵はいい。だからこれだけは」
「じじい。何でそんなにこの絵にこだわるんだ」
聞けば、絵の中で今にも踊ろうとつま先立ちをしている少女は、老人の亡くなった孫だというのです。
納得したように「ふうん」と絵を眺める泥棒ですが、やがていたずらっぽい笑みを浮かべると、ポケットから一本の絵筆を取り出しました。
「おい、何をする!」
思わず叫ぶ老人。
何と、泥棒は絵の具のまったくついてない筆で、少女の背後の壁に一本のロウソクが灯る燭台をひとなでで描いたのでした。
老人は悲鳴を上げました。
その声を聞きつけて、大男の使用人がやってきました。泥棒はすいと自分の後ろの壁に絵筆を滑らし扉を描くと、その扉を開けて逃げていきます。「大切にしなよ」の台詞を残して。
その晩は、月明かりも星明りもありません。カンテラを照らしていた泥棒は逃げ、ランタンを持っていた使用人は泥棒を追って行きました。
そして再び部屋に暗闇が訪れるはずでした。
でも闇は訪れません。
何と、絵の中の燭台が幽かに光を放っているのです。
揺らぐ明りに照らされ、少女の影が床を伝い反対側の壁に写し出されます。
「おお……」
絵の中の少女は止まったままなのに、彼女の影が踊っているではありませんか。
ふわふわ、ふわふわ――。
おしまい
ふらっと、瀬川です。
「深夜真世」名義で他サイトに発表した旧作品の加筆訂正版です。
不思議な一夜の光景をお楽しみください。