ツキナリ先生は豆腐メンタル
受信:月成先生
件名:なし
本文:ヘルミ
果てしなく広がる水平線のごとく、どこまでも意味不明なメールが日向野の携帯に届いたのは、ちょうど午前の仕事を終えた頃だった。
つい数秒前まで「メール届いたよ! ほら、さっさと見ろや!」と言わんばかりに、ブルブルと震えていた黒い端末を握りしめながら日向野は固まる。そして、ただひたすら、この謎に包まれた文面の真意を突き止めようと唸るが……ダメだ、サッパリ分からん。というか、あまり分かりたくない。思わず眉間にしわが寄る。
冷めかけのコーヒーを片手に苦しそうな顔をする日向野。その様子に気が付いたらしく、左隣であるデスクから「先輩?」と敬意を込めた呼び方で話しかけられた。
「どうしたんですか? 女子高生を見るような顔して」
「いや、何か変なメールが届い……って、こんな顔で見ねぇよ! そもそも女子高生なんて見ないからね!?」
「じゃあ、どこぞのアルプスの少女と共に平和に暮らすヤギを求めて動物園へ行ってみたけど実際会ったらそこまで可愛さを感じないし、むしろ鳴き声が奇妙すぎてショック受けた、みたいな顔してどうしたんですか?」
「ご丁寧に言い直してくれてありがとう! でも意味分からない! 旗本くんの親切心が俺には理解出来ないよ!」
旗本、そう呼ばれたスーツ姿の男は「なぜだ?」とでも言いたげな表情を露わにしながら日向野を見る。その視線から改めて、自分が後輩にどのような目で見られていたのか様々な意味で知ることの出来た日向野は、悔しいんだか泣きたいんだか、複雑な気持ちを抑えつつ「そ、それより」と苦し紛れに話題を逸らした。
「少し……いや、かなり解釈不可能なメールが届いたんだけど、旗本くん見てくれない?」
「ハーゲンダッツで手を打ちましょう」
「たかがメール見るだけでハーゲン!?」
「冗談ですよ」
しれっとそう言いながら旗本は日向野の手元へ視線を注ぐ。後輩の言葉にいちいち突っ込んでいる自分が情けなくなり、日向野はまた泣きたいような心境に陥るがギリギリのところで抑え込む。職場で泣き顔を晒すなど言語道断なのだ。
一人で頷く日向野の左では、旗本が数秒黙ってディスプレイを眺めた後、少しだけ眉間にしわを寄せながら感慨深そうに呟いた。
「……なるほど、これは確かに解釈が難しいですね」
「だろ? この『へルミ』ってどういう意味なのか、サッパリ分からなくて」
「『ヘイ! ルイージ、ミカン買ってこい!』の略でしょうか」
「ごめん、多分それは違う」
大真面目な表情で言われた回答を素早く否定する。かなり自信があったのか、旗本は口を尖らせ「えぇー」と声を落とした。
「何でですか、絶対これですよ。他にないじゃないですか」
「その内容だったら俺の名前がルイージになっちゃうだろーが」
「いいじゃないですか、日向野ルイージ」
「俺は純日本人だ」
「日本産の日向野ルイージ」
「何か商品名みたいじゃん! つーか嫌だよ!? どこぞの土管工事しながらコイン集める兄弟と同じ名前なんて!」
そう叫ぶと肩を大きく上下させながら溜め息を吐く。そのまま手早くデスクの上を片付けながら身支度を整え、日向野は立ち上がった。
スーツのジャケットを片手に立ち去る日向野へ、不思議そうな顔だけを向けつつ旗本は「せんぱーい?」と声を投げかける。
「どこ行くんスかー」
「月成先生のところ。内容は意味不明だけど、メールが来たってことは何かあったんだ」
ちょっと見てくる、と背中越しに右手をヒラヒラ振る。だが、そんな状況なんてものはお構いなしで遠ざかる背中に向けて旗本は言葉を紡ぐ。
「帰りにガリガリ君買ってきてくださーい」
「自分で買いに行け」
「じゃあハーゲンダッツでもいいでーす」
「サラリと値段上げんな!」
お互い顔が見えていないにも関わらず普通に会話をする二人。「チャラチャラしてんのに、根は真面目なんだよなー」と考える日向野へ、旗本はいきなり大声で叫んだ。
「あッ! 先輩!!」
「んー?」
呼び止められて極自然に振り向く。
戻した視線の先には、慌てたような表情をした明るい茶髪の後輩が一人。至っていつも通りの風景である。
しかしこの直後、日向野は振り向いたことを後悔するのだが。
「先輩のお兄さんって、名前はマリオですか!?」
「だからルイージじゃねぇつッてんだろ!!」
それに俺は一人っ子だ!!という旗本以外の人間には謎の捨て台詞を吐きながら勢いよく扉を閉める。取り残された職場でイスに座りながら、大きな音で閉ざされた出入り口へ笑顔で手を振る旗本は「もー、先輩ってば面白すぎー」と独り言のように呟いた。
一方、閉まった扉の向こうで日向野は「ッたく、アイツは……先輩を何だと思って」などと言葉にしながら、出てきた部屋から離れていく。
扉には「サクラソウ文庫編集部」と印刷された紙が風に揺れていた。
◇◆◇
月成冬馬。
今を時めく人気作家であり、日向野が担当する人物だ。数年前、当文庫で行われた「サクラソウ新人賞」にて審査員奨励賞を勝ち取り、見事デビューを果たしただけあって、繊細な文章で描かれる心理描写についての評判は高く、編集部内でも一目置かれている。
だが、そんな先生こと月成は有名作家という肩書きと共に、職場ではちょっとした問題児としても名が知れ渡っていた。天才は奇人、という言葉の通り少しだけ癖が強い性格なのである。編集社勤めの長い日向野でさえ、これほどまでに月成を表すようなことわざは他にないだろう、そう思っているくらいだ。
気だるい体を半ば引きずるようにして月成の住むマンションまで歩く。エレベーターで五階まで上がっていく中、さっきのメールの謎解きを脳内でしていたが結局何も分からずに部屋へ到着。
肌寒くなってきた空気を頬に受け少し身震いする。「今年もあと二ヶ月で終わりか」頭の隅でそう思いながら慣れた様子でインターホンを一押しすると、機械的な電子音が無人の廊下に響き渡った。
「…………あれ?」
静かに返事を待つが何も起こらない。気づいていないだけなのかもと感じもう二、三度押してみるが状況はまったく変わらず。数秒、眉を潜めながら考えた結果、思いきってインターホンのマイクに向かって声を投げかけた。
「……せ、せんせー? 月成先生?」
名前を呼んでいるにも関わらず返ってくるのは無音のみ。
さすがの日向野も不審に思い始めたのか、なるべく近所迷惑にならぬよう控えめに扉をノックする。叩きながらも名前を口にするが返事はない。
「人のこと呼んでおいて留守かよ……」
溜め息混じりに呟きながら手を下げる。ふと、下げている途中掴んだドアノブを何気なく回してみると、あれほど反応のなかった扉がスンナリ開いた。若干古くなりつつある扉はギィと軋む音を上げながら、日向野を部屋の中へと招き入れる。
驚きながらも薄暗い部屋の中を覗く。が、少し見回した直後、日向野は玄関から伸びる廊下で倒れている人影を発見した。まるで廊下で雑魚寝しているようなその姿の正体はパッと見で分かったが、それ以前にこの部屋の主は一人しかいない。
嫌な汗が額から流れ、心臓がドクリと脈打つ。
「先生!?」
早まる動悸を何とか抑えながら倒れている月成へ駆け寄る。廊下の先にある部屋へと頭を向けた姿勢で体を投げ出している男性は苦しげに呻き、僅かに身をよじらせた。まだ意識がある反応を見せられ、小さく安堵の息を漏らす。しかし、安心したのも束の間。救急車を呼ぼうと端末を取り出した日向野の目に赤いものが映る。よく見てみるとそれは赤い液体で、流れている元を辿った先には月成の肩があった。
瞬間、短い単語が頭をよぎる。
「ッ血! 肩、怪我して……!」
救急車より止血が先だと判断し月成の肩に近づく。すると、細く開かれた月成の口元から微かな吐息が漏れた。気づいて顔を上げると、月成は言葉を紡ぐように唇を上下させる。
「先生! 俺です、日向野! 分かりますか!?」
「ーーーー」
何か喋っているようだが、聞き取りにくいため口元に耳を寄せる。か細い声が鼓膜を震わせた。
「ーーめん…………り……た」
「も、もう少し大きくお願いします」
「……ひ、がのくん。ごめ、ん」
「ち、着色料……こぼ、した」
◇◆◇
二人分の椅子しかないダイニングテーブルの上で二人分のコーヒーが湯気を昇らせていた。何も手を加えていないブラックのまま、深みのある香りを部屋に充満させているコーヒーだが、その苦さにも勝るほど渋い顔をする日向野はさらに刺々しい口調で、向かい席に座る甚平姿の男性へ話しかけた。
「……つまり、廊下に倒れていたのは空腹と徹夜によるせいで、俺が血と見間違えたのは赤い着色料だった、と?」
「ご名答だよ、名探偵ヒガノ」
「ふざけないでください!!」
言いながらテーブルを叩いたせいか、マグカップに注がれたコーヒーが僅かに揺れを見せる。
「びっくりさせないでください! 俺の寿命が縮みます! だいたい何で着色料なんか持ってたんですか!?」
「え、いや……栗金団でも作ろうかと思って。もうすぐ正月だし」
「まだ十月ですよ馬鹿野郎ォォォッ!!」
「馬鹿野郎!?」
「それに栗金団作る過程に着色料いらないですから! 使うならクチナシですよまったくもォォォ!!」
嘆くように叫んだ後ハッと我に返り、日向野は月成を見る。案の定、そこには涙目になりながら「……ッひ、日向野くんごめ、ごめんなさ……」と謝罪の言葉をこぼす姿があり、秒単位で激しい後悔の念に襲われた。
月成が編集部で問題児扱いされている理由ーーそれは、月成自身が超打たれ弱い性格だから、である。今のように少しでも大きな声で叫ぼうものならすぐ涙目になり、放っておけばネガティブな発言ばかりを繰り返す様なので担当の日向野はもちろん、編集部の人間も手を焼いていた。だが一度文章を書かせると『向かうところ敵なし』の天才なため、心中では面倒くさいと思っていても誰も口にはしないのだ。
思っていることを正直に言ってしまうタイプの日向野としては、自分と月成の相性は最悪なのではないかと心配しているが『逆にそっちの方が先生の性格を直すきっかけになるかも』と編集部は念を押してきたので、仕方なく担当を引き受けたのだが、
「もう……ホントごめん、責任とって死ぬよ」
「そこまでしなくていいです!」
……正直言ってうまくやれる自信はない。
今にも窓から飛び降りそうなほど暗い表情の月成を、日向野は精一杯フォローする。
「お、俺は先生を心配して言ったんです! 別に責めてる訳じゃないですから、ね!?」
「……心配?」
「そうですよ! 本当に心配したんですから」
「無事で良かったです」と引きつった笑みで告げると、月成は少し顔をほころばせた。その表情から弱気モードを脱出したことを確認し日向野も一安心する。ひとまず窓から飛び降りる可能性が消えただけありがたい。
今までこの人どうやって生きてきたんだろう、てかよく生きてきたな、などと色々脳内で自問自答していると、控えめに名前を呼ばれた。
「日向野くん」
「はい?」
「し、心配してくれてありがとう」
「…………いえ」
三十過ぎた男に言われても何か微妙……!!
心配されたのがよほど嬉しかったのか、さっきとは一変してニコニコし始める月成に、とてつもない違和感を覚える。相変わらずの喜怒哀楽の激しさに振り回される中、日向野は本題を思い出し「そういえば」と月成へ問いかけた。
「先生、俺にメール送りましたよね?」
「メール?」
「そうですよ、そのメール見て俺来たんですから」
ほら、と言って日向野は自分の端末を月成の眼前に掲げる。見えにくいのか手元の眼鏡をかけた月成はその画面を直視した後、思い出したように右拳を左手に打ちつけた。
「あぁうん、そういえば送った」
「メール送るのは構わないんですけど……この『ヘルミ』って何ですか?」
「…………ヘイ! ルイージ、ミカン買ってこい!」
「旗本ォォォッ!!」
「ちょ、冗談だよ! どうしたの日向野くん、テーブルに手なんか叩きつけて……旗本って誰?」
「……すみません何でもないです」
早口でそう呟くと日向野は不可解なメールの正解を促す。
「それより本当は何なんですか? まったく検討がつかないです」
「別にたいしたことじゃないんだけど……『ヘルプミー』って打とうとして、ぶっ倒れたから文が変になったんだと思う」
苦笑いでそう言う月成に日向野は驚く。意味不明な文面が指していたのは助けを求める言葉だったのか、到底分かるはずのない答えを聞いてドッと疲れが押し寄せた。
だがすぐに思い直す。「……ん?」
「ヘルプミー……って、何かあったんですか?」
何気ない日向野の問いかけに、月成はギクリと体を強張らせた。明らかに挙動不審な様子を露わにしながら「いや……えっと、その」と宙へ目を泳がせる。
やがて、心を読み取ろうとする日向野の冷たい視線に耐えかね、意を決したかのように深呼吸を一つすると、静かな口調で話し始めた。
「……この前、雑誌に載せる短編小説を頼まれた」
「先生? いきなり片言喋りになりましたね」
「結構有名な雑誌だから、頑張って書こうと思った」
「おぉ……珍しく前向きな発言が」
「けど、頑張りすぎてよく分からなくなった」
「え?」
「ほぼ毎日家にこもってるから、日付け感覚も狂ってきた」
「あの、先生。嫌な予感しかしないんですけど」
「それで気がついたら」
「……気がついたら?」
そこで言葉を途切れさせると月成は手元のコーヒーを口に含む。静かにマグカップを置き、部屋の中を静寂が支配した後、真面目な顔つきで言った。
「締め切りが明日なのに原稿真っ白」
「絶対そうだろうなぁと思いましたけど、これだけは言わせてください。何してんですかアンタはァァァッ!!」
勢いのあまりイスから立ち上がる日向野。怒鳴り声でビクリと体を震わせる月成に気づき、声のボリュームを下げるが怒りゲージは簡単に下がりそうにない。
とりあえず深呼吸をしてから向かい席で怯える男に言葉を投げかけた。
「……分かりました、俺も手伝いますから」
「え? で、でも」
「どうせ、明日原稿を取りに来るのは俺の仕事なんです。明日になって原稿出来てない、なんて嫌ですからね」
次からは気をつけてくださいよ、と注意してからコーヒーを飲む。感動のあまり涙目になっている月成は潤んだ瞳を輝かせるが、すぐに申し訳なさそうに言った。
「本当に……いつもごめんね、日向野くん。情けない人間で。私が死んだら遺産全部あげるよ」
思わずコーヒーを吹く。苦しげな様子でむせながら「べ、別にいりませんからね!?」と伝える。
「縁起でもないこと言わないでください!」
「アハハ……ごめん」
「まったく……ほら、さっさと原稿書きますよ」
「あ、うん」
そう促してパソコンがある仕事部屋へと足を運ぶ。自分の部屋だと言うのに、客人である日向野の後ろをチョコチョコと着いていく月成。いよいよ本気でこの人の余生が心配になってきた日向野は、口を開きかけて背後を振り返るが、
「あの、せんせ」
「ひ、日向野くん」
「はい?」
先を越されたので返事をする。月成はしどろもどろになりながら、身振り手振りで必死に話した。
「え、えっと……手伝ってくれて、ありがとう」
なぜか照れ臭そうに笑いながらそう言う。しばらく呆気にとられた後、自分より少しだけ背が低い図体を眺めて思わず吹き出した。
かなり軟弱な人だけど悪い人ではないのだと改めて思う。ただ他人に比べて精神面が弱いだけで、感受性が豊かなだけで。
何か憎めないなぁ、と思いながら「いえ、大丈夫ですよ」そう返答する。
不思議そうな表情で天然パーマの目立つ黒髪を揺らしながら首を傾げる月成を前に、日向野の口から溜め息と共に小さな声が漏れた。
「……先生が女だったらなぁ」
「ん? どうしたの?」
「何でもないです」
◇◆◇
パソコンの電源が入るのを待つ中、日向野はイスに座る月成の背後で携帯を操作していた。内容としては旗本宛に、しばらく帰れそうにないことの連絡と『ヘルミ』の真意だ。返信を待っていると、パソコンを立ち上げていた月成が「日向野くん」と声をかけてきた。
「何ですか?」
「さっき、原稿真っ白だって言ったけど色々書いたやつはあるんだ」
「え?」
驚いて画面を見る。確かに表示されたデータフォルダにはいくつかの欄が並んでおり、簡単なジャンルが題名としてつけられていた。まさかストックのようなものがあるとは思わなかった日向野は、これなら早く終わりそうだと頬を緩ませる。
さすが天才作家と言うべきか、やるときはしっかりとやってくれるのだ。少々性格が曲がっているだけで。
「すごいじゃないですか、こんなにたくさん!」
「けど、どれも中途半端で……」
とりあえず一番上から、と言って月成は題名が『ラブコメ』になっているワードを開いた。
「いっけなーい! 遅刻しちゃうわ!」
こんにちは! 私の名前はユリエ。今日から念願の女子高生なんだけど、ドジな私ったら寝坊しちゃったの。昨日夜遅くまでモンスターハンターをプレイしてたせいかしら、次からは気をつけなくっちゃ!
「いってきます!」
温かい春の陽射しを体に感じながら家を飛び出す。口に咥えたロールパンを頬張りながら腕時計を確認。うん! 少しだけ余裕が出来たかも! でも急がなきゃ!
曲がり角に差し掛かったとき、急いでいた私は人影にぶつかってしまった。
「きゃッ!」
ぶつかった衝撃で尻もちをつく、いたた……。
しゃがみ込んだままの私に、相手の人は手を差し伸べてきた。
「ごめんよ、怪我はない?」
「えぇ、大丈夫……」
顔を上げた私はその相手の顔を見て息を飲んだ。
「タ、タダシ!?」
「まさか……ユリエか?」
そう、相手は私の元カレ、タダシだったの。
「…………え、元カレ?」
「うん」
「いや、うんじゃないでしょうよ! これこの後の展開どうする気なんですか!?」
「タダシの今カノであるメイコが出てきてユリエとタダシを取り合う勝負を持ち込むんだけど、そしたら今度はユリエの今カレのナオツグが出てきて、しかも実はメイコとナオツグは幼い頃に将来を誓い合った仲で」
「あぁもう、ややこしい!!」
もはやこれはラブコメではないことを確信した日向野は、既に諦めたような表情で静かに呟いた。
「……他のにしましょう」
「え? これダメ? ボツ?」
私は気に入ってるんだけど、と話す月成を無視して勝手にマウスを操作する。次の題名には『ミステリー』と書かれていた。
ビシリとしたスーツに身を包んだ男、屋久島は血生臭い部屋に転がる遺体を眺めながら頭を回転させていた。ここで起きた殺人事件の真相へ繋がるヒントを探しているのである。ガタイの良い体格とは裏腹に、頭の回転の素早さは署内でもナンバーワンだった。
「屋久島警部!」
ふと背後から自分を呼ぶ声がして振り返る。
息を切らせながら走ってきたのは部下の篠崎だ。
「現場で走るな、篠崎」
「す、すみません! 遺体の死因が分かったので」
「死因だと?」
屋久島は眉を潜める。
「死因ならもう分かっているだろう」
「それが……さっき鑑識の方から、本当の死因は木綿豆腐による強打だと連絡がきて」
「なに! 木綿豆腐だと!? んな馬鹿な……絹豆腐だったはずじゃ」
「豆腐で死ねるかァァァッ!!」
机を叩いた日向野は月成に向き合う。
「先生! これ真面目に書いてますか!? 書いてませんよね!?」
「適度にギャグ要素は必要だと思って……」
「だとしたら完璧に分量間違えてますよ!」
マウスを握り締め、机に突っ伏す日向野は震える声で言葉を漏らした。
「もう……何かもう、先生に期待した俺が馬鹿だった」
「え? 何? 聞こえないよ、日向野くん」
「何でもないです」
そう言って疲れ切った様子で三つ目のフォルダを見る。『純文学』という題名になっているそれを見て、月成は嬉しそうに口元を緩ませた。
「あ、それ一番自信あるやつなんだ」
「え!? そういうことは早く言ってくださいよ!」
無駄な時間割いたじゃないですかー……、と言いながらフォルダを開く。
吾輩は日向野である。名前はまだない。
「アウトォォォッ!!」
「……やっぱり?」
「分かってるなら一番自信あるやつなんだ、とか言わないでくださいよ! しかも俺の名前! まさかの主人公が俺! 前文で名乗っておいて『名前はまだない』とか続かないでしょ普通は!!」
叫びすぎて息が荒くなる日向野の隣で、月成は涙ながらにポツリと呟いた。
「……わ、私、小説家向いてないのかな」
「この後に及んで引退宣言!?」
「いや、そろそろ老いぼれは引退した方がいいのかもしれないね……うん、そうだよ」
「三十代の人は老いぼれじゃないですよ!!」
「そうだ、引退しよう」
「んな京都行くみたいなノリで言わなくていいですからァァァ!!」
◇◆◇
「ッ!!」
目を開くとそこには見慣れた天井があった。
訳も分からずに荒い呼吸を整えながら日向野は、今自分の置かれている状況を確認する。
窓からはカーテン越しに太陽の光と小鳥の囀りが響き、背中にはフカフカした布の感触があった。
そこで、寝転んでいるのは自分のベッドだと分かり、ようやく理解する。
「……ゆ、夢か」
掠れた声でそう言いながら額の汗を拭った。未だ収まることのない大きな心拍音をゆっくりと落ち着け、頭の中を整理する。
旗本や月成とのリアリティある会話が脳内で再生され、背筋が凍った。苦笑の表情で呟く。
「夢の中でも仕事してるなんて……疲れてんのかな、俺」
乾いた笑い声が部屋に虚しく響く。自分を落ち着かせた後今日が休みであることを確認し、もう一度眠りにつこうとした。だが、
「……ん?」
ベッドの上に置かれていた端末が小さく震え始める。
その様子を見ながら日向野は引きつったような笑みを見せ、悩みに悩んだ末、端末と同じように震える手で電源を入れた。
メールボックスにあったのは一通のメッセージ。
受信:月成先生
件名:なし
本文:ヘルミ
「…………嘘だろ、おい」
誰に言った訳でもない言葉は宙へと舞う。
サクラソウ文庫第二編集部、日向野聡の一日はまだ始まったばかりだ。
「ツキナリ先生は豆腐メンタル」読んでくださってありがとうございました、作者の真野と申します。
ちょっと弱々しい人とか、後輩になめられてる人とか、先輩で遊ぶ人とか、そんな大人たちを書いてみました。ほのぼのしたり、クスリと笑えるような雰囲気になっていれば幸いです。
長くなりましたが、ここまでの閲覧ありがとうございました!