その場から、前という方向
「お疲れー」
彼はその言葉と共に、バイト先のレストランを後にした。
午後三時半。ランチタイムの仕事がひと段落して、ディナーには今日はシフトが入っていない。要するにこれからの時間は暇だ。
彼はフリーターだった。
現在は、たった今しがた出てきたばかりのイタリアンレストランでバイトをしている。時給はそんなに良くない。それでも彼がそこのバイトを続けているのは、彼が料理をするのが好きだから、というだけの単純な理由だ。
彼は料理が好きだった。
それが理由で、高校を卒業した後は迷わずに調理師の専門学校に通った。高校から続けて、もう六年間ほど飲食店ばかりでアルバイトもしている。卒業して、調理師の資格も取った。そこまでは順調だったのだが。
「あー、ダルい……」
彼はポツリと呟く。
原付に乗る。ヘルメットを被って、エンジンをかけた。
走り出す。
彼は――鳥飼タクミは、フリーターだった。
名古屋市の郊外。一言で言えばタクミの生活圏はそういう場所だった。バイト先はJRの駅前、家はそこから原付で五分ほど走ったところ。出掛けるとしても滅多に名古屋市の外へは出ない。
特に予定があるわけでもなく、彼はただなんとなく原付のアクセルをひねっていた。さてこれからどうしよう。家に帰ってもすることはないが、かといって外でブラブラしているだけというのも意味がない。行くアテも無いが。この時間、友達は働いているか大学とかに通っているか、とにかくあまり連絡もとれない。
五月半ば、この時間でもまだ日は高い。ぼんやりと考えながら、タクミを乗せた原付は郊外の町を走る。暖かくなった風が身体に当たり、それが気持ち良かった。
「……あ」
そこでふと気付く。そういえばタバコを切らしていた。
なんてことはない目的だが、行動の指針を得た彼は原付を駅近くのコンビニへと走らせた。クールマイルドを一箱買って、とりあえずコンビニの外で一本取り出して火を付けた。
煙を吐く。空を見上げた。雲ひとつ無い晴天。
「ふー……」
そうやってのんびりと、タバコをふかしていた彼のそばを、通りの向こうから歩いてきた一人の少女が通り過ぎた。そのままコンビニの中へ入っていく。暗めの茶髪をポニーテールにまとめた、背の低い活発そうな少女。それだけなら気にも留めなかっただろうが。
少女が、なにやら紙の束を抱えてコンビニから出てきた。どうやらコピーをしに来たらしい。そのまま去っていく、かと思いきや、彼女はすぐそばの電柱の前で足を止め、抱えていた紙の束、その一枚をポケットから取り出したセロテープでぺたりと貼り付けていった。そして、通りの向こうへ消えていく。
「……」
なんとなく気になって、タクミは少女が紙を貼り付けていった電柱へ歩み寄った。
目に飛び込んできたのは、大きく書かれていた『急募!』の文字。
『正社員急募! オープニングスタッフ。新規開店のダイニングバーで働きませんか? アルバイトも募集中! 勤務時間は応相談』
手書きの求人広告。言ってしまえばただそれだけのものだったが、その紙面にはなんとなく、エネルギーのようなものが満ち溢れているように思えた。
「正社員……か」
タクミは自分自身のことを思い出して、ふとそうつぶやいた。いつまでもバイトだけで食っていけるとは思わない。それに、ただ食っていくためだけに働くというのも真っ平だった。やりがいだとか、楽しみだとか。そういうもののために働きたい、そうずっと思っていた。思っていたのだが。
たぶん、今の自分にはそれが無い。そういうエネルギーのことを、夢だとか目標だとか、そんな言葉に置き換えたりもするのだろう。
いつ、それを無くしてしまったのだったか――
「あの」
「わっ!?」
いきなり声をかけられて、ぼーっとしていたタクミは思わず飛び上がってしまった。そんな彼の様子に逆に驚いたのか、声をかけてきた相手もやや身を引きながら続ける。
「あ、あのー。そのチラシに、興味ある? ……んですか?」
「あ……」
それは、さっきの少女だった。まだ手には紙の束を抱えている。戻ってきたらしい。
「あ、あの。あたし、霧島クロカって言います。この店の――」
一度、言葉を切る。
「ダイニングバー『ファミリア』の店長です!」
大きな声で、そう宣言した。
霧島クロカと名乗ったその少女は、どう見ても高校生より上には見えなかった。歳はせいぜい十六かそこら、に見える。なのに、それなのに彼女は店長なのだそうだ。
「君が?」
疑いの目を隠そうともせずに、タクミは聞き返した。誰だって疑いたくもなるだろう。
ところが目の前にいる少女は少しも動じることなく、当たり前のように頷いた。
「そうです。あたしが店長。今度ね、ここのすぐ近くに新しくオープンするあたしの店をさ、手伝ってくれる人を探してるんだ。求人情報誌とかにも広告載せたりしてるんだけど、だめだねー。なかなか人、集まらないんだ」
困ったような顔をして、霧島クロカと名乗ったその自称店長は額に手を当てる。その様子を、タクミはどう対応していいかよくわからない心持で眺めていた。
こんな若い、若すぎると言っていい娘が、一つの店を持つ。
飲食店を一つ経営するということがどういうことかを、タクミはよく知っていた。だからこそそんなことが本当にありえるのかと疑ってしまう。
そんな疑念には気付いていないかのように、クロカはそれからすぐに目をキラキラさせて、タクミにずずいっと顔を寄せてきた。
「ねえ、ひょっとしてあんたさ、飲食店の経験とかある?」
初対面でいきなりあんた呼ばわり。まあそのへんは置いておくことにしよう。
「まあ……六年。最初はファミレスで、居酒屋、定食屋、蕎麦屋、で、今はイタリアンレストランで働いてる」
「わ……マジで?」
目のキラキラがいっそう増す。両手を握りこぶしに、さらに顔を息がかかるくらいまで近づけてきた。タクミのほうが身を引いてしまった。
「よぉーし! これはもう、あれだ! うちの店で働いてくれませんか!」
そう言ってくると思った。だが、まさかあっさりオーケーしてしまうわけにもいかない。なにしろそれは、自分が働く場所になるのだから。
「いや、そんな、いきなり言われても」
困った顔をして首を傾げてみる。クロカは腕を一つ組んで、難しい顔でうーんと唸った。
「そっか……そうだね、いきなり即決してくれるわけ無いか。仕事もしてるみたいだし」
「あ、いや……バイトなんだけどさ」
「え? あー、ひょっとして学生なの?」
「フリーター」
なんの抑揚も無い声音でタクミは答えていた。フリーターで、イタリアンでアルバイト。それが彼の全てで、それ以上の肩書きもなにもない。
――前にも、後ろにも進んでいない。
「なら、問題ないね。それじゃあ」
少しだけぼーっとしていた。そんなタクミの手が、正確には服の袖が引っ張られて彼は我に返る。見ると、自称店長の少女が彼の腕を引いていた。
「行こ!」
「ど、どこへ?」
困惑して尋ねると、彼女は明るい声で答えた。
「お店!」
ぐいぐいと有無を言わせない勢いで、クロカはタクミを引っ張っていく。駅のそばを通り過ぎ、線路沿いに進んでいく。
「まだ建ててる最中なんだけど、もうだいぶ出来上がってきたからさ。まずはちょっと見てってよ。ね?」
「ま、まあ……見るだけなら」
女の子に引っ張られて歩くと言うのも、悪くない気分だ。まあそういう動機もちょっとはありつつ、タクミは新しくできるというその店を見てみたい気持ちはあったのだ。
駅からほんの五分ばかり歩いて、そこでクロカの足は止まった。
「どう? これがあたしの店、ファミリア!」
じゃじゃん! と効果音もつけて、彼女は誇らしげに言い放った。
まだ施工中のその店には全体にブルーシートがかけられて、ちょうど工事のおじさん達が塗装作業をしているところだった。全体の色は白らしい。大きさは標準的なコンビニよりも多少大きい程度、席数も三十が関の山だろう。
入り口や窓のガラスにもシートが張られていて、中の様子は見えない。
「どう? どうどう?」
嬉しそうな顔でタクミを覗き込んでくるクロカ。タクミはしばらく、建設中のその店をぼんやりと眺めていた。
木造の、少し古めかしい感じのするたたずまいはどこか懐かしさを感じさせる。
「うん……いいな」
「でしょ!? だよね! 店長としてもさ、大満足!」
本当にクロカは嬉しそうな様子だった。まるで子供のころからの夢が叶ったかのように。
「夢……」
ぽつりとタクミは呟いて、ふと思い出す。
「……っていうか、あのさ。君が店長って、ほんとなの?」
当たり前の疑念を忘れていた。こんな子供が、店一つを経営できるとは思えない。そんな質問には慣れっこなのだろうか。クロカは眉をひそめながら、めんどくさそうに答える。
「しつこいなあ。そうだよ。あたしが店長。一応許可も取ったし、あれこれ検査も済んでるし。なんなら許可証でも見せようか?」
タクミが頷くと、彼女は下げていた鞄からおもむろに一枚の紙を取り出した。そこには確かにクロカの名と、食品管理の営業許可を与える旨が書いてある。
「マジか……? あのさ、何歳?」
「あたし? 十九」
「十九……まだ十五とかだと思ってたけど」
「失礼な! あ、いや、嬉しいかも……でもなあ」
なんだか複雑そうだ。まあ、そんなことはおいといて、
「まあ、十九だとしても若いよな。なんだって、居酒屋なんか始めようと思ったの?」
「……夢だったからさ」
うつむき加減に、クロカはごにょごにょと言う。
「昔っからね、好きだったの。飲食店。普段はつまらないーっていう生活をしてる人でも、こうやってお店でなんか食べよう! っていう時にはさ、ちょっと特別っていうか、そんな気分になれるじゃない? それで、みんなハッピーになって。そういうのがさ、嬉しいんだよね」
「……そっか」
「いろんな人に手伝ってもらって、やっとここまで来たの。でもまだ人手が足りなくて。キッチンにしても今一人しかいなくて、手伝ってくれる人は必要だし、メニューもちゃんとしたものを作っていかなきゃいけない。ホールもね。経験者がいないもんで」
「は……いない?」
タクミは思わず聞き返してしまった。経験者がいない、って、それはまさか店長たる自分も含めてなのだろうか。そう尋ねると、クロカは頬を膨らませて、
「うるさいなあ。いいじゃん」
「よくねーだろ! いや、よくそれで店やろうとか思うな」
「うるさい! やりたかったの! わかるでしょ!?」
「わ……わかんない……こともない、けど、普通はどっかで経験積んでから始めようって思うだろ?」
「普通じゃ嫌なの! っていうか、そんなことしてらんないの!」
なにかただならぬ訳でもあるのだろうか。クロカは両手を振り回してわめく。まるでおもちゃをねだる子供のようだ。あれ買って! あれ買って!
そんな彼女に、タクミは思わずため息をついた。
なんにしても、新店を立ち上げるのに経験者がいないのでは話にならない。
「だいたい、そのために人を集めてるの。あたしと一緒になって、お店を作っていってくれる人。さっきも言った、みんなのハッピーを作っていける人をね」
そう言って、彼女は笑う。タクミも思わず苦笑した。
エネルギー。夢。
そんなものが、今目の前にあった。目の前にそれはいて、そうしてその思いを形にしようとしている。
「ね、よかったらさ、うちに来てみてよ。一応これ、あたしの番号書いてあるから」
彼女はタクミの手に、チラシの束のうちの一枚を握らせた。
「どーか、よろしくお願いします!」
その後、タクミはクロカに頼んで店の中も見せてもらった。さすがに新築、やっぱり少々狭いものの、キッチンもホールもどこもかしこもピカピカで、居心地はよさそうだった。
まだ器具や食材もなにも運び込んではいないので、どこか殺風景だった。けれど、そこにはあの少女の、それを支えてきた人たちの、夢や希望が詰まっているように思えた。
タクミは家に帰って、今は自分の部屋にいた。ベッドに寝転んで、くわえタバコのままクロカに渡されたチラシを眺める。そうしながら、今日出会ったあの少女のことを思い出していた。
飲食店が、好き。
タクミと一緒だ。それでいて、どういうわけか彼女はあの年で自分の店を持つという。
経験も無いのに。
湧いてくる気持ちは、例えば羨ましいとか、そういう類のものとは違っていた。
「……なにやってんだろうな……俺は」
ぼんやりと思い出すのは、そう遠くない昔のこと。
調理師の専門を出て、タクミはあるレストランで働くことになった。それなりに有名なホテルのレストランだ。そこで下積みの生活に入った。格式の高い店だった。専門を出たところで、いきなり調理に関われるわけでもない。大量の仕込みと洗い物、様々な雑用。
はじめのうちは、それらをこなすだけで精一杯だった。そしてそれにやりがいを感じることも出来たし、次に繋がるステップだと思っていた。
そういう生活が続いて、半年ほど経ったある日。ふと、彼は不安になった。
不安になったのだ。本当にこれが、やりたかったことなのか。この先に自分のやりたいことがあるのだろうか。この道は本当に、自分の行きたい場所へと繋がっているのか。
目隠しをしたまま歩くような、そんな気分を抱えながら、日々が過ぎて。
そして。
入ってから一年も経たず、彼はフリーターになった。
仕事が辛かったわけでもない。つまらなかったわけでもない。
ただ胸のうちにあったのは、虚無感。それから恐怖。
その仕事を嫌いになってしまうのではないかという、自らへの恐怖。
よくある。本当によくある話だ。結局タクミは、どこにでも転がっているような若者の一人でしかない。
けれど結局、彼が飲食店というものを嫌いになることはなかった。他の仕事を見つけようとも思わなかったし、考えられなかった。だからこうして、アルバイトとしてその業界にとどまっている。
それが今現在の、鳥飼タクミという青年だった。
タクミはもう一度、手の中のチラシを見る。
店を持つこと。飲食の業界で働いているなら、そういう目標を持つものはそれこそはいて捨てるほどいる。タクミもその一人だった。といってなにか具体的な目標の形があるわけでもなく、ぼんやりとそう思っているだけのことなのだが。
「……夢か……」
そうだった。昔の自分には夢があって、エネルギーがあった。クロカのように。
あの少女のことを思い出す。
赤面ものの夢でも、胸を張って自らの頭上に掲げ上げる、そんなパワー。これがしたいから、これをやる。多少の無茶でも押し通してしまうほどの、あの意志力。
今の自分には? どうだろうか。あるのだろうか。そんなエネルギーが、自分の身体の中に内在しているのだろうか。
自問して、それから彼は苦笑する。
決まっている。だから彼は、飲食店というものが好きなのだ。
足を動かさなければ、何年待とうが前には進まない。
「よぉーし……やるか」
寝転んだまま、タクミは携帯に手を伸ばす。
久しぶりの投稿。
といって、以前書いたものを直して投稿してみただけです。
ご一読に耐えれば、この上なく、幸いです。