不運の加護持ちの私に、勇者になったわんこ系幼馴染が今日も会いに来る
「また、やっちゃった……」
タルシア王国の外れにある小さな村、エルム。
山と畑に囲まれたこの村で朝食の準備をしていた私は、エプロンの裾を少し焦がしてしまった。
香ばしいパンの匂いに、焦げた布の匂いが混ざる。
立ちのぼる煙を見上げて、私は小さくため息をついた。
不運なんて、いちいち数えていたらキリがない。
毎日どこかで転ぶし、パンは焦げるし、風が吹けば洗濯物は川に落ちる。薪を割ろうとすれば斧の柄が折れ、干していた薬草には虫がつく。
全部、私の持つ《不運の加護》というギフトのせいだ。
この国では、女神の気まぐれで《ギフト》と呼ばれる加護が与えられる。
戦闘系、回復系、生活支援系。
人の役に立つものが多いなか、私に与えられたのは、毎日のように小さな災難に見舞われるという、ありがたみの欠片もないものだった。
(そもそも“不運”に“加護”って、名前からして矛盾してるじゃない)
そう思いながら、私は焦げたエプロンの裾をぱたぱたとはたく。
小さなことを気にしても仕方ない。
そうやって今日も、私は淡々と日常をこなしていく。
(……そろそろ、来る頃ね)
毎日、食事の時間になるとやってくる幼馴染。
決まった時間に現れるその姿を、私はもうすっかり日常の一部として受け入れていた。
そう思ったのと、ほとんど同時だった。
カーテンが揺れるより早く、台所の空間がぱっと歪む。
次の瞬間、陽の光を弾く柔らかなブロンドと、蒼銀色の瞳を持つ青年が、いつものように台所のど真ん中に現れた。
「おはよう、アイリス!」
透き通った朝の空気をかき混ぜるような、無邪気で人懐っこい声。
現れたのは、レオン・エルネスト。
数ヶ月前、女神の神殿で《勇者》として選ばれた、私の幼馴染だ。
本来であれば、王都から仲間たちとともに魔王討伐の旅に出ているはずの人である。
――なのに、今日も朝から私の家にいる。
「今日のメニューは……この匂い、フェルグラットパンと……もしかして、ミルート根のポタージュもある!? どっちも俺の好きなやつ!」
「はいはい。喜ぶ前に手を洗ってきなさい」
「はーい!」
突然現れた勇者様にまったく驚かず、私はいつものように淡々と返す。
レオンは素直に井戸場へ走っていき、すぐに戻ってきた。まるで飼い主に呼ばれた大型犬みたいな勢いである。
並んで朝食をとりながら、私はふと気になって尋ねた。
「レオン。あなた、仲間の皆さんに迷惑をかけてるんじゃないでしょうね?」
「大丈夫! アイリスのごはんは最強のバフだから!」
「……何がどう“だから”なのか、まったくわからないんだけど」
じとっと見る私に、レオンはけろっとした顔でパンを頬張る。
旅立ちの日だって大変だったのだ。
神殿で勇者に選ばれたあと、王都へ向かうことが決まったレオンは、「アイリスと離れたくない」と泣き喚いた。
屈強な騎士たちが何人がかりで引き剥がし、神官様が説得し、村長が頭を抱え、私が「ちゃんと行きなさい」と叱って、ようやく彼は出発した。
――と思ったら。
数日後には、転移魔法で朝食の時間に帰ってきた。
それ以来、朝と夜の二回、きっちり私の家へ戻ってくる始末である。
勇者として魔王軍と戦っているはずなのに、今のレオンは、どこからどう見ても朝ごはんを楽しみにしている幼馴染にしか見えない。
けれど。
幼い頃に両親を亡くし、ひとりで生きてきた私にとって、変わらず隣にいてくれる彼の存在は、胸の奥をじんわり温かくしてくれるものだった。
食事を終えたあと、私にはもうひとつ大事な日課がある。
レオンを、きちんと送り返すことだ。
「レオン、行きなさい」
「えー……!」
レオンは椅子にしがみつき、子どものようにむくれた。
これも、いつものやり取りである。
「帰らないなら、レオンのこと大嫌いになるよ。お守りも取り返す。二度と作ってあげないし、名前を呼ぶのもやめる」
「それは絶対にいやだ……!!」
泣きそうな顔で、本気で慌てるレオン。
私が渡したお守りは、幼い頃に初めて作った不格好な布細工だ。
縫い目は曲がっているし、刺繍の糸もまばら。それでもレオンは「これが一番いい」と言って、今でも紐を通して首から提げている。
“取り返すよ”は、彼にとって最大級の脅し文句なのだった。
「だいたい、あなた、一日に四回までしか転移魔法を使えないんでしょう?」
「うん」
「その全部を、私に会いに来るためだけに使うのはどうなの?」
「アイリスに会えるなら、使い道としては最上級だと思う」
「魔物を倒すために使って」
「聖剣で倒せるから大丈夫!」
「じゃあ聞くけど、いつもどうやって戦ってるの?」
「王様にもらった聖剣で、こう! ガーンって!」
拳を振り下ろす仕草をする勇者様に、私は額を押さえた。
(……レオンのパーティーの皆さんに、心から謝りたい)
それでも最後には、レオンは渋々立ち上がった。
「夜も来るからね!」
「来る前提なのね」
「来るよ。絶対に」
にこにこと笑ったレオンの姿が、光の粒に包まれる。
次の瞬間、台所には私ひとりが残された。
さっきまで賑やかだった空気が、急に静かになる。
私は少しだけ口元を緩めてから、食器を片づけ始めた。
◆
レオンが無事に帰ったのを確認すると、私は自分の仕事に取りかかる。
刺繍と、裁縫。
自分で作った小物を丁寧に仕上げていく。完成品は月に二回やって来る行商人に買い取ってもらっていて、隣の大きな町、ノルフェリアでは評判も悪くないらしい。
もっとも、《不運の加護》は今日も絶好調だ。
持った瞬間に針が折れ、窓辺に置いた布は風に飛ばされ、鳥が落としていった木の実が洗濯物に直撃する。
(……はい、通常運転)
私は折れた針を拾い、飛ばされた布を回収し、木の実で汚れた洗濯物を洗い直した。
昔から、村の人たちは私と少し距離を取っている。
不運がうつる、と思われていたのだ。
それでも、いじめられたり、からかわれたりしなかったのは、きっとレオンのおかげだった。
いつも私のそばにいながら、「俺は幸運の男だから平気!」と笑って吹聴していた彼の存在が、私の居場所を守ってくれていた。
そして、そのレオンが勇者に選ばれたことで、「不運はうつらないらしい」という噂にも、妙な信ぴょう性が出てきた。
……とはいえ、人はそう簡単には変わらない。
相変わらず、村の人たちはどこかよそよそしい。
それでも私は、この村で暮らせることに感謝している。
不運の加護持ちの私を虐げなかったこの場所で、なるべく迷惑をかけずに生きていけるように。
そう考えて選んだのが、家でできる裁縫の仕事だった。
だから、レオンが一日二回も村に戻ってきていることは、誰にも知られていない。
本人も「報告したらアイリスとの時間が減る」と言って、王都への報告を頑なに拒んでいるらしい。
(……それは絶対に、報告すべき案件だと思うけど)
裁縫が一段落する頃には、すっかり夕方になっていた。
集中しすぎて、昼食を取り忘れていたことにようやく気づく。
空腹を覚えて夕飯の支度に取りかかった、そのとき。
コンコン、と玄関の扉が鳴った。
この家に来客があるのは珍しい。
警戒しながら扉を開けると、そこに立っていたのは村に住む青年、トムだった。
「……急に、どうしたの?」
私が問いかけると、トムはにやりと笑う。
人を見下すようなその笑い方は、子どもの頃から変わらない。村のガキ大将だった頃のままだ。
「よう。レオンがいなくなって、寂しくてたまらないんじゃないかと思ってさ」
「……あなた、不運がうつるからって、ずっと私を避けてたじゃない」
「あー、それな。レオンが勇者に選ばれたおかげで、“うつらない”って話になっただろ? だったらもう、遠慮してやる必要もねえと思ってよ」
(遠慮“してやる”……この言い草……)
トムは私の返事も待たず、ずかずかと家に上がり込んできた。
「ちょっと、勝手に入らないで」
「いいじゃねえか。どうせ一人なんだろ?」
彼は火にかけていた鍋を勝手に覗き込む。
「なんだよ、しけた飯だなぁ。まあ、できたてなら食ってやってもいいぜ?」
(今日は不運が少ないと思っていたけど……この男が来たことが、本日の不運かもしれない)
「ごめんなさい。帰ってくれる?」
「強がるなよ。ほんとは誰にも構ってもらえなくて寂しいんだろ?」
トムは鼻で笑った。
「レオンも薄情だよなぁ。勇者になった途端、村を出てさ。お前のことなんて、とっくに忘れてんじゃねえの? 今頃、都会の女にちやほやされて、いい気になってるんだよ」
負け犬の遠吠えだ。
そう思えば済むことだと、わかっている。
剣でも喧嘩でも、レオンに一度も勝てなかったトムの、どうしようもない劣等感の裏返し。
けれど――レオンのことを悪く言われるのだけは、どうしても我慢ならなかった。
「レオンをどうこう言う前に、自分の振る舞いを考えたら?」
私はトムの目をまっすぐ見た。
「女性の家に勝手に上がり込んで、人の料理に文句までつけるような人を、私は歓迎しない」
ぴしゃりと告げると、トムはふてくされたように口を閉じた。
私はさらに一歩踏み込んで、扉を指さす。
「帰って」
空気が張り詰めた、その瞬間。
「ただいま、アイリス!」
あまりにもタイミングの悪い、能天気な声が響いた。
トムは心底驚いたのか、腰を抜かしてその場にへたり込む。
そして――家の中にいるトムに気づいた途端、レオンの雰囲気が一変した。
蒼銀の瞳がすっと細められる。
さっきまでの人懐っこい空気が消え、台所の温度が一気に下がったような気がした。
「……なんで、こいつがいるの?」
低い声だった。
殺気すら帯びたその声に、私は思わず背筋を伸ばす。
(え……ふたりって、そこまで仲が悪かったっけ?)
動揺しながらも、あまりの迫力に、私は咄嗟にトムの前へ出てしまった。
だってレオンは、腐っても勇者。
本気になれば、力の差は歴然なのだ。
「ト、トムはね、マリエさんの伝言を届けに来てくれたのよ」
我ながら、苦しい嘘だった。
レオンはぴくりと眉を動かす。
それから、ゆっくりとトムの前に歩み寄った。
腰の聖剣を抜き、切っ先をぴたりとトムの額に向ける。
「今日ここに来たこと、誰かに喋ったら」
静かな声だった。
静かすぎて、かえって怖かった。
「叩き切って、魔獣のエサにするからな」
トムは真っ青になり、何度も何度も頷いた。
そして転がるようにして玄関から逃げていく。
……トムが消えたあとも、レオンは私の顔を見ようとせず、じっと立ち尽くしていた。
気まずさを覚えながら、私はそっと声をかける。
「レオン?」
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。
「……なんで、あいつをかばうの?」
絞り出すような声だった。
蒼銀の瞳は怒りに燃えていて、まるで別人のようだった。こんなレオンは、見たことがない。
後ずさりしそうになる体を、ぐっと踏みとどまらせる。
(……って、なんで私が怒られてるみたいになってるのよ)
そう思うと、だんだん腹が立ってきた。
勝手に上がり込んできたのはトムなのに、どうして私がこんな目で見られなければならないのか。
「ねぇ、私、なにか悪いことした?」
私はレオンの目をまっすぐ見つめる。
「勝手に家に上がってきたのはトムで、私はそれを追い返そうとしただけ。なのに、どうしてあなたに睨まれなきゃいけないの?」
「アイリス、俺は――」
「怒りたいのはこっちよ。私が悪いことをしたなら教えて。……自分がどんな目で私を見てるか、気づいてる?」
レオン自身、自覚がなかったのだろう。
私の言葉に、彼の体がびくりと揺れた。
「今日は、帰って」
国のために戦ってくれている人に、こんなことを言うなんて、バチが当たりそうだと思った。
それでも。
私だって、レオンに睨まれてショックだったのだ。
冷たく突き放して、背中を向ける。
――その瞬間、大きな手が、そっと私の肩を引き寄せた。
「ごめん」
ぽつりと、泣き出しそうな声。
「……アイリス、ごめん。許して」
壊れ物を包むような優しさで抱きしめられているのに、レオンの腕はびくともしない。
触れている場所から、じんわりと熱が伝わってくる。
そのぬくもりに引き寄せられるように、私の頬も自然と熱くなった。
「さっき、アイリスがトムをかばったのが嫌だった。俺の味方をしてくれなかったのが……すごく、悲しかった」
言葉を震わせ、幼い子どものようにすがるレオン。
その姿に、私は肩の力が抜けていくのを感じた。
呆れる気持ちと一緒に、どこかホッとしたような安堵が胸に広がる。
思えば彼は、私が何を言っても怒ったことなんてなかった。
あんなふうにぶつかったのは、きっとこれが初めてだ。
「……私も、冷たいこと言ってごめんね」
そう言って、私はそっと彼の頭を撫でた。
レオンは私の肩口に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
◆
仲直りした私たちは、いつも通り一緒に夕飯を囲んだ。
ついさっきまでの気まずい空気は、もうどこにもない。
食後、帰り際のレオンがぽつりと言った。
「……明日の朝は、来られないかも」
彼は勇者で、国の命を受けて魔王軍と戦う身だ。
来られない日があるのは、当たり前のこと。
わかっている。
でも、毎朝顔を合わせるのが日常になっていた今、その一言は、ほんの少しだけ胸を締めつけた。
(……寂しいと感じるのは、わがままよね)
私は胸の奥に寂しさを押し込めて、いつもと変わらない笑顔でレオンの背中を見送った。
――翌朝。
村に、小さな騒ぎが起きた。
「トムのやつ、夜中に森で足を滑らせて、骨を折ったらしいぞ」
その話を聞いた瞬間、私はまばたきをひとつして、静かに口を結んだ。
脳裏によみがえる、昨夜のレオンの一言。
『明日の朝は、来られないかも』
(……あれって、もしかして、そういうこと? まさかね? いや、でも……)
もちろん、レオンがそんなことをする人じゃないと信じている。
信じているけれど。
あの怒りに燃えた瞳を思い出すと、「レオンならやりかねない」という妙な説得力だけは、どうしても否定しきれなかった。
(……勇者の力って、そういうことに使っていいものなのかしら)
それからもレオンは、朝と夜、変わらず姿を見せ続けた。
けれど、ふと気がつけば、彼の体には以前よりも明らかに傷が増えていた。
誰と旅をしているのか。
どんな街に行って、どんな魔物と戦っているのか。
本当は聞きたいことがたくさんあるのに、レオンは決まってこう言うのだ。
「俺の話より、アイリスの話が聞きたい」
私はその言葉を、ずっと尊重してきた。
限られた魔力をすべて転移魔法に費やしてまで、毎日顔を見せてくれる。
それだけで十分なのだと、自分に言い聞かせて。
でも、最近の彼は、明らかに疲れていた。
食卓でうたた寝をする回数が増えた。
利き腕に巻かれた包帯は、日を追うごとに厚くなっていく。
パンを持つ指先にまで細かな傷が増えた。
それなのに彼は、「平気平気」と笑うばかりで、何ひとつ話してはくれない。
そんな夜、寝台の中で、どうしても考えてしまう。
(……もしかして、私の不運が、レオンにうつったんじゃないの?)
「不運はうつらない」。
そう言われるようになったのは、レオンが勇者に選ばれたからだ。
けれど、本当にそうなのだろうか。
人々は「勇者に選ばれた」と喜ぶ。
けれどその使命は、彼にとって逃げることのできない過酷な鎖なのではないか。
もしそれを運んだのが、ほかならぬ私だとしたら。
そう思うと、背筋がひやりと冷たくなった。
日に日に増えていく傷と疲労に、私の胸はざわつき続けた。
(レオンは……本当に、無事に魔王を倒せるの?)
これまで何度も「大丈夫」と笑ってきた彼の顔が、今日はやけに遠く感じる。
怖かった。
このまま彼が無理を続けたら。
私に会いに来るために魔力を使い果たした、その帰り道に何かあったら。
ある日突然、あの笑顔が二度と見られなくなったら。
考えるだけで、手が震えそうになる。
「来ないで」と言えば、レオンはきっと首を横に振る。
彼はいつだってそうだった。
どれだけ疲れていても、「アイリスに会いたい」と笑って、ここに戻ってきた。
だからこそ――言うなら、彼が頷くしかない言い方を選ばなくてはいけない。
悩みに悩んだ末の、ある日の夕食時。
美味しそうにごはんを頬張るレオンに、私は意を決して口を開いた。
「レオン。旅が終わるまで……もう、ここには来ないで」
レオンの手が、止まる。
「……なんで、そんなこと言うの?」
彼の声が震えた。
「こないだアイリスの横でうたた寝しちゃったから? それとも、すぐ帰らずにわがまま言ったから? あっ……食費!? 俺、けっこう稼いで――」
「嫌なの!」
必死に理由を探すレオンの声に、私は重ねるように言い放った。
レオンが、息をのむ。
「勇者が毎日村に入り浸ってるなんて知られたら、私のせいで魔王討伐に失敗したって言われる。そんなの、恥ずかしくて……いやなの……!」
――嘘だ。
本当は、あなたが心配なだけ。
私の不運があなたを蝕んでいる気がして、怖くてたまらないだけ。
でも、そう言えばレオンはきっと「アイリスのせいじゃない」と笑って、明日もここに来てしまう。
だから私は、いちばん醜く聞こえる言い方を、わざと選んだ。
私らしくない語気だったのだろう。
何かを言いかけたレオンは、潤んだ瞳でじっと私を見つめた。
傷だらけの手が、少しだけ伸びる。
けれど、その手は私に触れる寸前で止まった。
「……わかった」
消えそうな声だった。
「アイリスが、そう言うなら」
その日、私たちは一言も交わさないまま別れた。
そして翌日から、私の“希望”を汲むように、レオンは本当に姿を見せなくなった。
朝、台所の空間が歪むことはない。
夜、扉の前で彼の声が響くこともない。
静かになった食卓を前にして、私はようやく思い知った。
拒絶したのは自分のくせに、気づけば頭に浮かぶのは、いつもレオンのことだった。
レオンのいない食卓は、空気までしんと静まり返っているようだった。
朝食を作っても、「おはよう」と笑う声はしない。
夜になっても、台所の真ん中に光が弾けることはない。
私はそのたびに、自分がどれだけ彼に救われていたのかを、嫌というほど思い知らされた。
◆
季節は巡り、風に冷たさが混じるようになった、ある日の夕暮れ。
突然、家の中に転移魔法の光が溢れた。
弾かれるように居間へ駆け込んだ私が見たのは――血に染まったレオンと、彼を必死に支える数人の男女だった。
「ここどこ!? 王宮じゃないの!?」
「ったく、このバカ! 魔王を倒したら即王都に転移するって話だったのに、勝手に座標を変えやがって!」
赤髪の美女剣士が、意識のないレオンの額を軽くはたく。
その仕草には、苛立ちと心配が入り混じっていた。
「再転移には時間がかかるわ……こいつの今の魔力量じゃ、どのみち無理よ」
ローブ姿の魔導士が、額を押さえて唸る。
魔王を、倒した?
何が起こったのか理解するより先に、血まみれのレオンの姿を前に、私の思考は止まっていた。
(なんで……こんな……)
レオンは長椅子に横たえられ、目を閉じたまま動かない。
「……レオン?」
ぽつりと零れた私の声に、全員の視線がこちらを向いた。
ようやく私の存在に気づいたらしい。
もう一度名前を呼ぶと、レオンの指先がわずかに動いた。
それは笑みとも苦痛ともつかない、あまりにかすかな反応で。
そこに、いつもの彼の面影はなかった。
私は震える体を押し殺しながら、血まみれの彼にそっと寄り添う。
どんなときも、彼は隣にいてくれた。
泣いた日も、笑った日も。
私が不運に落ち込んでいた日でさえ、レオンだけはまっすぐに笑ってくれた。
『俺は幸運の男だから』
そう言って、ずっと。
(私が……あのとき、“もう来ないで”なんて言ったから……)
(私が、不運の加護なんて持っているから……!)
ふと目に留まったのは、血で汚れた布の隙間。
彼の胸元で揺れる、見覚えのある布細工だった。
幼い頃、拙い手つきで縫って渡した、小さなお守り。
形は不格好で、刺繍の糸もまばら。
それでもレオンは「これがいい」と笑って、ずっと首から提げていてくれた。
こんなになってもまだ、彼の胸元にあった。
周囲の声が、遠く霞んでいく。
私はそのお守りを両手で包み込み、目を閉じた。
そして、強く、強く願う。
(この身にどれだけ不運が降りかかってもいい)
だから。
(レオンを、助けて……!)
――その祈りに応えるように。
お守りが、淡い光を帯びはじめた。
柔らかな光は揺らめきながら広がり、レオンの全身をそっと包み込む。
今にも消えてしまいそうだった呼吸が、少しずつ深く、穏やかになっていく。
私はぽかんと立ち尽くした。
パーティーの人たちもまた、目を見開いて言葉を失っている。
魔力の気配に誰よりも敏感なはずの彼らでさえ、この現象がなんなのか、すぐには理解できないようだった。
「……今の、何……?」
赤髪の美女剣士が、息をのんで呟く。
光が静かに収まると同時に、視線が一斉に私へ注がれた。
「あなた、レオンの恋人よね?」
「こ、恋人というわけでは……」
「じゃあ婚約者?」
「それも違います……」
「えっ、違うの?」
なぜか全員に驚かれた。
驚きたいのは私のほうである。
その中で、レオンに治癒魔法をかけていた女性が、真剣な顔で私を見つめた。
白い外套をまとった、落ち着いた雰囲気の人だ。
仲間たちから“賢者様”と呼ばれていた彼女は、私の手元のお守りと、私自身を交互に見た。
「あなた、今の力はいったい何のギフトなの?」
「ギフトは、その……《不運の加護》というものでして……」
そう告げた瞬間、場の空気がざわりと揺れた。
(やっぱり……私のせいで、レオンはこんな……)
自責の言葉を口にしかけた、そのとき。
「違うわ。それは大きな誤解よ」
強い声が、私の思考を遮った。
賢者様は、興奮を抑えきれない様子で私に歩み寄る。
「古い文献でしか読んだことがないけれど、間違いない。《不運の加護》は本来、“周囲の人間から災厄を遠ざける”最大級の守護系ギフトよ」
「……守護系?」
「そう。あなたがそばにいたから、レオンは今日まで生きてこられたの」
意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
私が?
レオンを?
「そんな……私なんて、ただ、そばにいただけで……」
「ええ。そばにいるだけで守れるの。それがどれほど破格のことか、わかる?」
賢者様は、私の手の中にあるお守りへ視線を落とした。
「もちろん、代償はあるわ。周囲に降りかかるはずだった災厄が、“ちょっとした不運”に姿を変えて、加護の持ち主に集まってくる。転んだり、物が壊れたり、火が焦げたり、布が破れたり……思い当たるでしょう?」
思い当たることしか、なかった。
焦げたパン。
川に落ちた洗濯物。
折れた針。
割れた食器。
倒れた水桶。
虫に食われた薬草。
今までずっと、私を苦しめてきた小さな不運たち。
それがもし、誰かに降りかかるはずだった災厄の代わりだったのだとしたら。
私が針を折った日、どこかでレオンの剣は折れずに済んだのだろうか。
私が転んだ日、彼は致命傷を避けられたのだろうか。
私のエプロンが焦げた朝、彼は炎の魔物から逃れられたのだろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「《不運の加護》はあまりに希少だから、神殿の神託でも“不運”としか伝わらないの。だから昔から、ずっと誤解されてきた」
賢者様の声が、少しだけ柔らかくなる。
「そして、あなたが渡したそのお守りは、加護を遠くまで届ける媒介になっていたのよ」
「これが……?」
私は手の中のお守りを見つめた。
不格好で、古くて、何度も繕った布細工。
レオンがずっと大切にしてくれていたもの。
「魔王の最後の一撃、本当なら即死だったはずよ。急所を逸れたのは偶然じゃない。ずっと、あなたの想いがレオンを守ってきたの」
真実を告げられても、私はまだ信じきれずにいた。
けれど。
手の中で温かく光ったお守りの記憶と、穏やかさを取り戻したレオンの呼吸だけが、静かな確信を胸に落としてくれる。
(私の“クソギフト”が……ずっと、レオンを守ってた……)
空気が落ち着き、魔力の波も静まった頃。
レオンのまつげが、ふるりと揺れた。
「……アイリス……」
弱々しい声で名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
レオンが、ゆっくりと目を開いた。
「……っ、生きてて、よかった……!」
涙ぐみながら笑う私に、レオンはぼんやりとした目のまま言った。
「魔王、倒したよ」
私は何も言えず、ただ頷く。
そして、次の瞬間。
「だから……俺と、結婚して」
目覚めて早々、まっすぐな瞳で放たれた言葉に、私はぽかんと口を開けた。
「……は?」
「ずっと言おうと思ってたんだ。俺、アイリスが好きだ。子どもの頃から、ずっと。魔王を倒して、ちゃんと帰ってきたら言おうって決めてた」
「いや、あなた、さっきまで瀕死だったのよ?」
「でも生きてる」
「そういう問題じゃなくて」
「返事、聞かせて」
真剣な顔で見つめられて、言葉に詰まる。
胸が熱い。
嬉しい。
でも、あまりに唐突すぎて、心が追いつかない。
私は一度だけ深く息を吸って、そっと微笑んだ。
「……考えさせて」
「えっ!?」
レオンが絶望したような声を上げた瞬間、パーティーの皆さんが一斉に吹き出した。
「ぶはっ……ざまあないな、勇者様!」
「当然の報いよ! 無愛想なくせに、毎日どこかに消えるし!」
「こっちは干し肉ばっかり齧ってたのに、あんたひとりだけ肌つや良すぎるのよ! それ、アイリスさんの手料理でしょ!」
「だいたいなぁ。『旅が終わるまで来るな』って言われた次の日から、こいつ完全におかしくなったんだぞ」
「そうそう。飯もろくに食べないで、『旅が終わればまた会える。だったら最短で魔王を倒す』って、そればっかり」
「一日四回の転移魔法も、全部戦場に突っ込むようになったのよ。おかげで討伐計画が半年は縮んだけど、こっちの心臓は何度止まりかけたか……!」
「最後まで隠してたのもどうかしてるぜ。お前が最初からアイリスさんのことを話してれば、《不運の加護》のことだって――」
ドワーフらしき仲間がそう言いかけた瞬間、レオンの目つきが変わった。
「……てめぇら、なんでそんな親しげにアイリスの名前を呼んでるんだ」
「そこ!?」
「あと、なんでまだここにいるんだよ」
「お前が転移の座標を勝手に変えたんだろうが!」
仲間たちの声が見事に揃った。
あまりに理不尽な言いがかりに、私は思わず笑ってしまう。
そんなやり取りを少し離れて眺めながら、私はさっきのレオンの言葉を思い返した。
顔に集まった熱を逃がすように、そっと頬に手を当てる。
“考えさせて”としか言えなかったのは、あまりに唐突で、心の準備ができていなかったから。
でも。
「来ないで」というあの残酷なお願いを、彼はまっすぐに受け止めた。
命がけで旅を終わらせて、真っ先にここへ帰ってきてくれた。
その意味を、今、ゆっくりと噛みしめている。
胸の奥でざわついていたものが、少しずつ形になっていく。
(……この気持ちは、もう、疑うまでもないわね)
◆
それからほどなくして、王都では「勇者と、不運の加護の聖女」の物語が、あっという間に広まった。
演劇になり、絵本になり、吟遊詩人の歌になり。
世間はふたりを大きく取り上げた。
《不運の加護》は、いつの間にか《不運の聖女》などという、たいそう立派な呼び名に変わっていた。
しかし、当の本人たちはというと。
「アイリス、新刊あったよ! “不運の聖女”シリーズ、これで最新巻!」
「……勝手に絵本になってるんだけど。私、許可した覚えないんだけど」
人通りの少ない書店の二階席。
こっそり本を広げて目を丸くする私の隣で、レオンは楽しそうに笑っている。
その首元には、相変わらずボロボロのお守りがぶら下がっていた。
「実物のほうが、もっと可愛いし、優しいし……ずっと強いけどな。うちの聖女様は」
「……っ! からかわないで」
「からかってない。本気」
「そういうところよ、レオン」
頬を染めて拗ねる私を、レオンは嬉しそうに眺めている。
世間がどれだけ騒ごうと、私たちの日常は相変わらずだ。
笑って、拗ねて、ときどき喧嘩して。
それでも最後には、同じ食卓を囲む。
そんな毎日が、これからもゆっくりと続いていく。
……ちなみに。
「考えさせて」の返事が三日ともたなかったことは、ふたりだけの秘密である。
ありがとうございました!
他の作品も是非よろしくお願いします^^




