第31話:『特上カルビの祝祭、あるいは新しい放課後の始まり』
魔導キャンピングカー『トリオ・ハウス』が、崩壊した不夜城のハイウェイを駆け下り、エターナル・ランドの新たな広野へと差し掛かった頃、周囲の景色は劇的な変化を遂げていた。
かつての毒々しいネオンや、終わらない残業を強いる灰色のアスファルトは完全に消え去り、そこには地平線の彼方まで続く瑞々しい緑の草原が広がっていた。
空はどこまでも高く、どこまでも青い。
現実世界の月曜日の朝に漂うような、あの憂鬱
な空気はここには微塵も存在しなかった。
ナツキは、窓から流れ込んでくる爽やかな風を吸い込みながら、大きな腹を揺らしてハンドルを軽く叩いた。
「おいおい、見ろよこの景色。まるで会社を無断欠勤して、誰もいない海へドライブにでも来ちまったような気分だぜ。」
その声には、長年彼を縛り付けていた社畜としての強迫観念が、微塵も混ざっていなかった。
キャンピングカーを小高い丘の上に停車させると、ナツキは運転席から勢いよく飛び出した。
「さあて、お待ちかねの『定時退社パーティー』といこうじゃねえか。マルモ、準備はいいか。」
「ガッハッハ。いつでもよかばい。おいたちの胃袋は、もうとっくに臨戦態勢たい。」
マルモがトリオ・ハウスの後部ハッチを開け、巨大なポータブルコンロと、特製の鉄板を豪快に地面へと引っ張り出した。
彼の相棒である鉄パイプは、今や完全に最高級のトングとしてその役割を全うしようとしている。
マルモが指先を軽く鳴らすと、かつて総支配人の防壁を焼き尽くした漆黒の焔が、鉄板の下で優しく、しかし極めて均一な熱量を持って燃え上がった。
「ナツキ、例の『特上カルビ』ば早く出すたい。この鉄板の温度は、今まさに肉の脂を最高に引き出す『230℃』に達したばい。」
「おうよ。待たせたな。」
ナツキが管理者権限のパネルを空中に呼び出し、共有インベントリの最深部から、厳重に保管されていたアイテムを取り出した。
それは、見事な霜降りが網の目のように入った、異世界のものとは思えないほど美しい極上の牛肉だった。
現実世界では、到底サラリーマンのお小遣いでは手の届かないような、最高級の肉塊。
「よし、焼くばい。」
マルモがトングで肉を挟み、熱せられた鉄板の上へと滑らせた。
ジゥゥゥゥゥッという、鼓膜をこれ以上ないほど幸福に震わせる音が草原に響き渡る。
同時に、肉の表面のタンパク質とアミノ酸が熱によって反応し、あの暴力的なまでに食欲をそそる芳醇な香りが、周囲の空気を一瞬で支配していった。
「……素晴らしいね。この香気の拡散速度と、脂が爆ぜる音の周期。僕の演算によれば、この肉が口の中でとろける確率は100%だ。」
カズヤがホログラムの眼鏡を指でクイと押し上げながら、珍しく少年のように目を輝かせて鉄板を覗き込んでいた。
彼の前には、端末の演算によって正確に導き出された、数種類の秘密のタレが並んでいる。
現実世界の有名店の隠し味をベースに、この世界のハーブを独自の比率で調合した、まさに「論理の結晶」と呼ぶべき特製ダレだった。
「カズヤ、僕の分の肉は、もう少しレアの状態で止めてもらえると助かるよ。その方が、噛んだ瞬間に肉汁が効率よく広がるからね。」
ユタカが白銀の芯を傍らに置き、冷えたグラスを両手に持って笑った。
かつて冷徹な暴君と呼ばれ、他者と食事を共にする時間さえも無駄だと切り捨てていたテニスプレイヤーは、今やこのバカバカしくも愛おしい宴の、中心に座っていた。
「よかばい。ユタカ、まずはこの一切れを食うてみんね。表面はカリッと、中はジュワッたい。」
マルモが絶妙なタイミングで焼き上げたカルビを、ユタカの皿へと放り込んだ。
ユタカがそれを箸で持ち上げ、カズヤ特製のタレにたっぷりと浸してから、口へと運ぶ。
次の瞬間、ユタカの目が見開かれた。
「……美味しい。肉の脂が、タレの酸味と絡み合って、噛む必要がないくらいに溶けていく。こんなに美味しいものを食べたのは、生まれて初めてかもしれない。」
「ガッハッハ。そうやろうもん。おいたちの『強火』は、絶望だけじゃなく、最高の幸福も作り出せるたい。」
マルモが嬉しそうに自身の太い腹を叩き、ナツキとカズヤの皿にも次々と黄金色の肉を並べていった。
「うおぉっ、マジで美味めぇ。タレのニンニクの利き具合が、戦い疲れた身体の細胞一つ一つに染み渡るようだわ。」
ナツキが二重顎を激しく揺らしながら、肉と白飯を交互に口へ放り込んでいく。
「僕の計算に狂いはなかったね。この世界の酸味成分は、牛肉のオレイン酸と結合することで、旨味を通常の2.4倍に増幅させるんだ。」
カズヤもまた、いつもの冷静な表情を少しだけ崩し、上品に、しかし確かなスピードで肉を咀嚼していた。
4人は、お互いの顔を見合わせながら、キンキンに冷えた飲み物のグラスを高く掲げた。
カチン、とガラスが触れ合う小気味よい音が、静かな草原の空へと響き渡る。
「総支配人の撃破に、そして俺たちの、本当の定時退社に……乾杯だ。」
ナツキの音頭に合わせ、全員がグラスを飲み干した。
喉を突き抜ける爽快感とともに、これまで背負ってきた現実世界のストレスや、異世界での激闘の疲労が、すべて洗い流されていくような感覚があった。
宴が始まってから数時間が経過し、山のようにあった特上カルビの在庫がすべて4人の胃袋へと収まった頃、草原の向こうからは、穏やかな夕暮れの光が差し込み始めていた。
燃えるような茜色の光が、トリオ・ハウスの車体を優しく包み込んでいく。
カズヤが、食後のコーヒーを片手に、草原の彼方を見つめながらふと呟いた。
「……そういえば、総支配人を倒したことで、この世界のシステムはどう変化したんだろうね。僕の端末を見る限り、OSの暴走は完全に停止しているけれど。」
その言葉に、ユタカが自身の傍らにある白銀の芯に手を当てた。
「きっと、本来の形に戻ったんだと思う。誰かを閉じ込めるための牢獄ではなく、現実世界で傷ついた人たちが、もう一度自分を取り戻すための……本当の『放課後』の場所に。」
「ああ、そうだな。」
ナツキが草の上に大の字になって寝転がり、満足げに鼻を鳴らした。
「おじさんは消えちまったが、あいつが遺したこの世界は悪くねえ。俺たちがこうして、何にも縛られずにバカ笑いできる場所をくれたんだからな。少しだけ、感謝してやってもいいかもな。」
「そうたいね。あのおじさんも、いつか現実世界で、旨か肉ば誰かと一緒に食えればよかばってん。」
マルモが遠い空を見上げながら、優しく微笑んだ。
4人はしばらくの間、何も語らずに、ただ静かに夕日が沈んでいく光景を眺めていた。
それは、現実世界では決して味わうことのできない、贅沢で、そして何よりも「無駄」な、しかし彼らにとって最も必要な時間だった。
やがて、空に最初の星が瞬き始めた頃、ユタカがゆっくりと立ち上がった。
「さて、そろそろ行こうか。僕たちの旅は、まだここで終わりじゃないんだろう。」
「おうよ。この広大な世界には、まだまだ俺たちの知らない『バグ』や、面白いアトラクションが転がってるはずだからな。」
ナツキがどっしりとした身体を起こし、衣服についた草を払いながら不敵に笑った。
カズヤが端末をスマートにポケットに収め、マルモが鉄板を手際よく片付けていく。
4人は再び、魔導キャンピングカー『トリオ・ハウス』へと乗り込んだ。
ナツキがイグニッションキーを回すと、エンジンがこれまで以上に力強く、そして心地よい重低音を響かせて咆哮した。
フロントガラスの向こうには、夜の帳が下り始めた未知の荒野が広がっている。
「さあ、次のセットを始めよう。お前ら、ラリーの準備はいいか。」
ユタカの言葉に、3人の大人が力強い笑声で応えた。
トリオ・ハウスのヘッドライトが、暗闇を真っ直ぐに照らし出し、車体は漆黒の焔を吹き上げながら、新しい明日へと向かって力強く発進した。
大人の放課後は、どこまでも、いつまでも続いていく。




