知っている者たちの笑い
小さな城の正面に立ったまま、しばらく誰も動けなかった。
ついさっきまで成埜の地の朝風の中にいたはずなのに、
今はもう、見慣れ始めた石造りの門と、静かな前庭が目の前にある。
光の羽をゆっくりと閉じながら、ノアは穣天使第二形態を解いていった。
神々しい光の輪郭がほどけ、
やがて、いつもの寄り添うような小さな光へと戻っていく。
リオはその様子を見ながら、小さく息を吐いた。
「……帰ってきたんだよね」
「はい」
ノアがやわらかく答える。
「無事に」
「“無事に”の途中経過がだいぶすごかったけどね」
リオは苦笑した。
背後では、騎士たちがまだ現実に追いつき切れていなかった。
四天槍のひとりがぼんやりと城門を見上げる。
「……本当に、戻ったのか」
「夢ではないだろうな」
と、別のひとりが答えるが、その声にも自信はない。
サイラスが低く息を吐いた。
「夢であってくれた方が、理解は楽だった」
ゼルクだけはどうにか表情を整えていたが、
それでも目の奥にはまだ濃い動揺が残っている。
リオはくるりと振り返った。
「ひとまず、中に入ろうか」
「たぶんもう、みんな起きてるだろうし」
その言葉に、騎士たちもようやく我に返ったように姿勢を正す。
「……失礼いたします」
ゼルクが短く言う。
「うん」
リオが頷いた。
「たぶん、こっから先はもっとややこしい話になると思うし」
「すでに十分ややこしいのですが」
サイラスが珍しく率直に返した。
リオは少し笑う。
「それはたしかに」
小さな城の扉を開けると、中には朝の静けさがまだ残っていた。
けれど、その静けさも長くは続かなかった。
廊下の奥から、
ぱたぱたと軽い足音、
続いて、いかにも寝起きではない大きな声が飛んでくる。
「おお、戻ったか!」
真っ先に現れたのはヴァルだった。
髪はやや乱れているが、目だけは妙に冴えている。
どう見ても、途中から完全に起き切っていた顔だ。
その後ろからリュメリアが現れ、
さらに遅れて、ラルラゴも静かに姿を見せる。
ヴァルはリオの顔を見るなり、にやっと笑った。
「朝からなかなか景気のいい散歩だったらしいな」
「散歩っていう規模じゃなかった気がするけど」
リオが言う。
「成埜の地で魔気観測、魔人出現、ついでに魔神まで出てきた」
リュメリアが淡々と補足する。
「報告だけ聞くと、だいぶ酷い朝ね」
四天槍たちが一斉にそちらを見る。
「なぜ、もう把握しているのだ……?」
と、ひとりが思わず呟く。
ノアが少しだけ胸を張るように光を揺らした。
「ご報告は必要ですので」
「ノア経由か」
リオが納得したように頷く。
「はい」
ノアはやわらかく答えた。
「一部だけですが」
ヴァルは腕を組みながら、面白そうにリオを見る。
「で?」
「どうだった、初日の成埜の地は」
「初日っていうか、二日目の朝なんだけど」
リオは軽くため息をつきながら答える。
「広かった。かなり」
「綺麗だったし、魔虫とか他の魔獣もいて、全部が敵って感じじゃなかった」
「でも、魔人がいて、さらに魔神がいた」
そこまでは普通だった。
けれど次の言葉で、ヴァルの目がわずかに細くなる。
「しかも、その魔神」
リオは少し首を傾げながら言う。
「なんか妙だったんだよな」
リュメリアの目が、すっと変わる。
ラルラゴは何も言わない。
リオはその気配に気づかないまま続ける。
「魔人も変だったし、魔神も変だった」
「強いのは強いんだけど、なんていうか……」
「“そういうふうに置かれてる”感じがしたっていうか」
ヴァルの口元が、ゆっくりと持ち上がる。
リュメリアは片手で口元を隠した。
ラルラゴだけは変わらぬ顔だったが、
目の奥にだけ、ごくわずかな理解の色が宿った。
リオが、その空気にようやく気づく。
「……何?」
誰も答えない。
代わりに、ヴァルがぷっと吹き出した。
「はは……っ」
「いや、すまん」
「それは、ちょっと駄目だ」
「何が?」
リオが眉をひそめる。
「いやあ」
ヴァルは笑いを堪えきれない顔で肩を震わせる。
「お前、その反応はずるいだろ」
「いやだから、何の話?」
リオは本気で分からない顔になる。
それを見たリュメリアも、とうとう吹き出した。
「だめ……っ」
「ごめんなさい、でも……」
「その顔で“なんか妙だった”は反則だわ」
サイラスが怪訝そうに目を細める。
「……何か、心当たりがおありなのですか」
ゼルクも、ヴァルたちの反応を見逃さなかった。
「知っているのか」
ヴァルはまだ笑っていたが、すぐには答えない。
リュメリアも、肩を揺らしながら息を整えている。
リオは完全に取り残された顔で、三人を見回した。
「待って」
「俺だけ分かってない感じ?」
「はい」
ノアが正直に答えた。
「リオ様と、私と、騎士団の皆さまは、まだ分かっておりません」
「そこは一緒なんだね」
リオが少しだけ安心したように言う。
「変なところで安心しないで」
リュメリアが笑いながら返した。
ヴァルはようやく笑いを収めると、目尻に浮いた涙を指で拭った。
「いやあ……」
「これはもう、かなり濃いな」
「濃い?」
リオが聞き返す。
「うん、濃い」
ヴァルは意味深に頷いた。
「成埜の地の魔気も、現れた相手も、お前の反応も、全部な」
「だから、何なんだよ」
リオが少しだけむっとする。
その様子がまたおかしかったのか、
リュメリアが再び笑いを噛み殺す。
ラルラゴが、そこでようやく口を開いた。
「ヴァル」
その短い一言だけで、ヴァルもリュメリアも少し空気を戻した。
「……分かってる」
ヴァルが肩をすくめる。
「今ここで全部言うつもりはない」
サイラスの目が鋭くなる。
「やはり、何かあるのだな」
「ある」
ラルラゴが短く答えた。
「ただし」
そのまま続ける。
「今はまだ、確信に足るものが足りない」
ゼルクは黙ってその言葉を受け止めた。
リオは完全に納得していない顔だった。
「ええと」
「つまり?」
ヴァルがにやりと笑う。
「つまり、お前はたぶん」
「自分で思ってるより、ずっと面白い場所に立ってるってことだ」
「全然説明になってない」
リオが即答する。
「説明したら面白さが減る」
「減らさなくていいから、ちゃんと教えてほしいんだけど」
「それは追々だな」
ヴァルはあっさり言う。
「ずるいなあ……」
リオがぼやく。
その反応がまた自然すぎて、
今度はゼルクたちですら、わずかに口元を緩めた。
ついさっきまで魔神と相対していた男が、
今は本気で会話の置いてけぼりを食っている。
その温度差が、妙に人間らしかった。
ノアがやさしく光を揺らす。
「でも、きっと」
「これから分かってまいります」
「うん」
リオは苦笑する。
「最近そればっかり聞いてる気がする」
リュメリアが、ようやく表情を整えながら言う。
「安心して」
「私たちも、全部が全部、今ここで断言できるわけじゃないの」
「ただ……少しだけ“らしい”と思っただけ」
「らしい?」
と、四天槍のひとりが反応する。
ラルラゴはそれ以上を語らない。
ヴァルも笑みを残したまま黙る。
リュメリアもまた、言葉を飲み込む。
その沈黙自体が、何より雄弁だった。
成埜の地で起きたことは、
ただの魔物討伐では終わらない。
そこに現れたものの正体も、
土地の違和感も、
リオの力の戻り方も。
ぜんぶがどこかで、ひとつに繋がり始めている。
まだ形にはなっていない。
けれど、古くからその流れを知る者たちにとっては、
もう十分すぎるほどに匂っていた。
リオだけが、それをまだ知らない。
そしてそのこと自体が、
ヴァルたちにはどうしようもなく可笑しかった。
「……とりあえず」
リオが少し諦めたように言う。
「先に、成埜の地の話をちゃんとするよ」
「そうしてくれ」
ゼルクが静かに頷く。
「今はそれが最優先だ」
「うん」
リオも頷く。
「土地のことも、奥の気配のことも、断崖のことも話したい」
「それに――」
そこで少しだけ言い淀む。
「なんか、あそこ」
「ただ危ないだけの場所じゃない気がするんだ」
その一言に、
ヴァルたちの笑みが、今度は少しだけ真面目なものへ変わった。
「そうだろうな」
ラルラゴが低く言う。
朝の小さな城の中で、
成埜の地の物語はまだ始まったばかりだということを、
その場にいた誰もが、少しずつ理解し始めていた。




