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光を抱く土地

成埜の地に吹く風は、戦いの熱を少しずつさらっていった。


魔神の残した気配は、もう薄い。

魔人とともに退いたその圧も、今は地の奥へ沈むように消えつつある。


けれど、土地そのものは静かだった。


あまりに静かで、

ついさっきまでここで命のやり取りがあったことが、むしろ場違いに思えるほどだった。


リオは、断崖の向こうをもう一度見たあと、ゆっくりと息を吐いた。


「……少しだけ、見ていってもいいかな」


ゼルクが視線を向ける。


「追わないのですか」


「うん」

リオは頷いた。

「今は、追わない方がいい気がする」

「なんとなくだけど」


サイラスが低く問う。


「勘、ですか」


「たぶん」

リオは少し笑う。

「でも、今のところ俺の勘、そこまで悪くない気がするんだ」


その言葉に、四天槍の一人が複雑そうな顔になる。


さっきまでの戦いを見たあとでは、

その“勘”という言葉すら軽く扱えない。


ノアがやわらかく光を揺らした。


「私も、深追いはおすすめいたしません」

「今はまだ、この土地を見る方が大切かと」


リオは成埜の地の奥を見渡した。


広い。

ただ広いだけではなく、

どこを見ても、まだ人の色に染まりきっていない。


草原の緑も、

岩肌の鈍い灰色も、

遠くの水辺にきらめく朝の光も、

どれも王都の外にあるありふれた自然より、少しだけ濃く見えた。


「……綺麗だな」


ぽつりと漏れた声に、

騎士たちもつられるように周囲を見る。


ゼルクが静かに頷く。


「ええ」

「危険な土地ではあるのでしょうが……それだけではないようだ」


少し進むと、足元の草むらがかさりと揺れた。


四天槍のひとりが身構える。


だが、飛び出してきたのは小さな魔虫だった。


透けた羽を持ち、草の露を舐めるように動く、手のひらほどの小さな存在。

魔気はある。

だが敵意はない。


リオは少しだけしゃがみ込む。


「魔虫、か」


ノアの光が、ほんのわずかにやさしく揺れた。


「はい」

「このあたりの魔気に適応して生きているのでしょう」


魔虫は逃げもしない。

ただリオたちを見て、少し触角を揺らしたあと、また草の中へ戻っていった。


その先では、小型の魔獣が二頭、水辺で身を寄せ合うように寝そべっていた。

狼に似た姿だが、角が短く枝分かれしている。

こちらに気づいても、唸ることなく、ただ耳を動かすだけだった。


「襲ってこないんだな」

リオが呟く。


「ええ」

ノアが答える。

「この土地に満ちる魔気は濃いですが、常に暴れているわけではありません」

「奪い合いより、共存に近い均衡があるのかもしれません」


「共存、か」

リオはその言葉を繰り返した。


さらに少し歩けば、

岩の隙間に、甲殻の硬い小さな魔物がじっと潜んでいる。

林の縁には、羽のある小獣が枝を渡る。

遠くには大きな影が見えたが、こちらへ来ることなく、群れごと草原の奥へ移っていった。


敵意がないわけではないのかもしれない。

けれど少なくとも、この瞬間の成埜の地には、

ただ“殺し合いだけの土地”ではない呼吸があった。


リオは足を止め、風に揺れる草原を見た。


「……なんか、いい土地だな」


ノアがそっと問い返す。


「良い、ですか?」


「うん」

リオは頷く。

「危ないし、変な気配もあるし、さっきみたいなのまで出る」

「でも、それだけじゃない」

「自然と、魔と、ちゃんと一緒にある感じがする」


ゼルクがその言葉を聞いて、少しだけ目を細める。


サイラスもまた、成埜の地を見渡していた。


「人にとって未開拓でも」

「この土地そのものには、すでに流れがある……ということか」


「そんな感じ」

リオは笑う。

「無理やり塗り替えるんじゃなくて、うまく付き合えたら面白そうだ」


四天槍の一人がぽつりと漏らす。


「……拠点にするには、厄介で」

「同時に、これ以上ない土地かもしれん」


断崖絶壁の高台。

広い草原。

自然の水辺。

魔気に適応した生き物たち。

そして奥に眠る、まだ見えない何か。


たしかに厄介だ。

だが、それ以上に可能性がある。


リオはふっと笑う。


「うん」

「そう思う」


しばらく、誰も大きな声を出さなかった。


風が草を撫で、

鳥とも魔鳥ともつかない声が遠くで鳴き、

この土地だけが持つ静かな広がりが、一行を包んでいた。


やがてノアが、空を見上げて言う。


「リオ様」

「そろそろ戻られますか?」


「うん」

リオは頷いた。

「みんなにも話したいしね」

「ヴァルたち、起きたらたぶん騒ぐだろうし」


その光景が目に浮かんだのか、ノアの光が少し楽しげに揺れる。


「はい」

「きっと、とても騒がしくなります」


ゼルクが一歩出る。


「我らも、いったん王都へ戻ります」

「……本日のことは、それぞれ胸に持ち帰らねばなりません」


「うん」

リオが頷く。

「また話そう」


その“また”に、騎士たちの空気が少しだけ和らぐ。


昨夜の勧誘の返答は、まだ保留のままだ。

けれどその保留は、もう昨日までの保留ではない。


そんな空気だけを残して、

一行は成埜の地の外縁へ戻り始めた。


そして。


丘の手前まで戻ったところで、ノアがふわりと前へ出る。


「では、ここからは私が」


リオが目を瞬く。


「ん?」

「どうするの?」


ノアの光が、朝日の中で静かに強くなる。


「少しだけ、急ぎましょう」


その瞬間だった。


光が、弾ける。


小さな光だったノアの輪郭が、一気に広がる。

やわらかな輝きが幾重にも重なり、

空気の中で羽の形を描き出す。


騎士たちが息を呑む。


「……っ」

「これは――」


ノアは、その場で静かに形を変えていく。


小さな寄り添う光ではない。


より神々しく、

より清らかで、

より威厳を帯びた姿。


穣天使第二形態。


淡い金と白を溶かし合わせたような羽が、幾重にもひらく。

その一枚一枚が術式そのもののようにきらめき、

羽ばたきひとつで、周囲の空気が透き通っていく。


リオが思わず見上げる。


「……ノア」

「綺麗だな……」


ノアの頬が、ほんの少しだけ染まったように見えた。


「ありがとうございます……」


その声は、いつものやわらかさのままなのに、

姿だけがひどく神秘的だった。


ノアは羽を広げ、一行を包むように前へ出す。


「皆さま、少しだけ失礼いたします」


次の瞬間、

光の羽がひらりと降りる。


一枚。

二枚。

幾重にも。


それらは布のようにやわらかく、

だが結界のように確かに一行を包み込んだ。


リオは、やさしい温かさに包まれるのを感じた。


「これ……」


「ご安心ください」

ノアが微笑む。

「揺れません」


「揺れる予定があるの?」

リオが聞いた、その直後だった。


世界が、伸びた。


景色が線になる。

風が遅れる。

音が追いつかない。


騎士たちが何か言いかけた顔のまま固まり、

次の瞬間には、もう別の景色の中にいた。


――光の速度。


それは誇張ではなく、

本当に、移動という概念を置き去りにする速さだった。


成埜の地の朝靄が消え、

丘が消え、

王都の外縁が流れ、

城壁が近づく。


いや、近づくというより、もうそこにある。


一瞬。


本当に一瞬ののち。


ノアの羽が静かに閉じる。


そこはもう、小さな城の正面だった。


朝の門前。

ついさっき出たばかりのはずの場所。


リオが数回まばたきをする。


「……え?」


四天槍の一人が、その場で膝から崩れた。


「今のは……移動か……?」


「いや、もう何なんだ……」

別の者が顔を覆う。


サイラスですら、口を閉じたまま空を見上げていた。

ゼルクだけがどうにか立っていたが、その表情は完全に固まっている。


リオは、そんな騎士たちを見てからノアを見る。


「ノア」

「はい」


「今の、すごすぎない?」


ノアは少しだけ照れたように羽を揺らした。


「少しだけ、急いだだけでございます」


「少し……?」

と、騎士たちの誰かが虚ろな声で呟く。


リオは思わず笑ってしまった。


「いや、うん」

「たしかに、今日はもう“少し”の基準が分からなくなってきたな」


ノアの羽が、嬉しそうにやわらかく揺れる。


小さな城の上には、穏やかな朝の光が降っていた。


けれど、その光の下に戻ってきた一行の中には、

成埜の地で見たもの、感じたもの、そしてまだ言葉にならない何かが、確かに残り続けていた。


次にこの扉を開けた時、

また何かが大きく動く。


そんな予感だけを抱えたまま、

リオは小さな城を見上げた。

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