戻りはじめる感覚
成埜の地を渡る風が、ぴたりと止んだ気がした。
魔神は動かない。
魔人もまた、主の背後で膝をついたまま沈黙している。
それなのに、場を満たす圧だけがじわじわと増していく。
ノアの光は、なおも強張っていた。
焦っている理由は、敵が強いからだけではない。
目の前の魔神が危険なのは、たしかだ。
だが本来のリオであれば、恐れるほどの相手ではないことも、ノアは知っている。
もし、ほんの半分でも。
いえ、半分に届かずとも、失われた感覚をしっかり取り戻せれば――
この程度の魔神、問題にならない。
問題は、今のリオがまだ戻りきっていないことだった。
力そのものが無いのではない。
眠っている。
繋がりが不完全なのだ。
だから怖い。
勝てるはずの者が、勝てる形に届いていない。
その途中で強敵にぶつかることが、何より怖かった。
そしてもう一つ。
仮に、この場でノア自身が前へ出れば――
この魔神を退けることはできる。
迷いなく、圧倒できる。
それもノア自身、よく分かっていた。
けれど今、前に立っているのはリオだ。
ノアは、自分の内にある焦りを押し込み、ただ小さく呼んだ。
「……リオ様」
リオは剣を構えたまま、前を見ている。
「うん」
「どうか、ご無理だけは……」
その言葉の続きを、ノアはうまく言えなかった。
退いてください、とはもう言えない。
止められないことを、さっきの笑顔で知ってしまったからだ。
リオは、少しだけ口元をやわらげた。
「大丈夫」
その一言が、なぜか妙に落ち着いて聞こえた。
魔神が、ゆっくりと片手を上げる。
「来ぬのなら、こちらから行く」
声は低い。
冷たい。
だが、その奥にはたしかな殺意があった。
次の瞬間、地面が裂けた。
轟音と共に、成埜の地の土がめくれ上がり、巨大な岩槍が幾重にも突き出す。
一直線ではない。
逃げ道を塞ぎ、空間ごと噛み砕くような軌道だった。
騎士たちの顔色が変わる。
「まずい!」
「リオ様――!」
リオは剣を抜いた。
一閃。
突き上がる岩槍のひとつが断たれる。
だが二本、三本、四本と続く。
「っ……!」
速い。
いや、速いだけではない。
地形そのものが敵意を持って噛みついてくるようだった。
リオは地を蹴る。
かわし、斬り、身を捻る。
だが、完全には追いつかない。
剣で応じるには、攻撃の数が多すぎる。
「リオ様!」
ノアの声が鋭く響く。
その瞬間だった。
リオの中で、何かがまたひとつ噛み合った。
剣を握る手は、そのまま。
けれど意識の中心が、そこから少しずれる。
違う。
そこじゃない。
もっと、内側。
もっと深いところに、
戦うための“別の呼吸”がある。
リオの足元に、淡い術線が走る。
前より広い。
前より自然だ。
線ではなく、流れ。
流れではなく、場。
朝の光の中に薄く浮かぶそれは、まるで現実の上にもう一枚、夢の地図が重なったみたいだった。
「……あ」
リオは自分でも気づく。
今度は、考えている。
ほんの少しだけだが、さっきの偶発とは違う。
触れた感覚を、掴み直している。
岩槍が迫る。
リオは剣を振る――寸前で止めた。
代わりに、左手を横へ払う。
空気が、ずれた。
突き出してきた岩槍の群れが、
リオの身体ではなく、何もない横の空間へ吸われるように軌道を変える。
轟音。
地面が爆ぜ、土煙が上がる。
後方で、四天槍のひとりが声もなく後ずさった。
「今のは……」
「逸らしたのか?」
「いや、空間ごと……」
サイラスが低く呟く。
「剣ではない」
「もう、剣に依存していない……」
ゼルクの目が鋭く細まる。
その言葉通りだった。
リオは剣をまだ持っている。
だが、戦いの中心はもうそこにはない。
魔神の目が、わずかに変わる。
初めてだった。
あの冷えた知性の奥に、明確な警戒が浮かんだのは。
「……戻り始めたか」
魔神が低く呟く。
リオはその言葉を聞き逃さなかった。
「戻る?」
だが、問いに答える代わりに、魔神は一歩踏み出した。
地が沈む。
その足元から、濃密な魔気が輪のように広がり、
周囲の石も土も草も関係なく呑み込みながら、巨大な圧となってリオへ迫った。
今度の攻撃は広い。
避けるだけでは意味がない。
リオは剣を見た。
次いで、自分の手を見た。
それから、ふっと息を吐く。
「……やっぱり」
そう呟いて。
剣を、下ろした。
騎士たちの空気が凍る。
「剣を……!?」
「まさか、捨てたのか……!?」
違う。
捨てたのではない。
手放したのだ。
今この瞬間、自分に必要なのはそっちではないと、
身体の方がもう知っていた。
剣先が地に触れる。
同時に、リオの周囲に、薄い夢色の術式が幾重にも走った。
前よりも多い。
前よりも滑らかだ。
現れては消え、消えては現れる幾重もの術線が、
リオを中心に静かに回転し始める。
ノアの光が、歓喜に震える。
「……ああ」
その声は、感嘆だった。
「リオ様……」
懐かしい。
まだ完全ではない。
けれど、確実に戻ってきている。
あの頃の。
夢の中で、幾度も見たリオの戦い方が。
魔神の圧が来る。
リオは、今度は両手を使った。
右手で引き、
左手で押す。
ただそれだけの動きで、
押し寄せた魔気の濁流が真ん中から裂ける。
「な……」
魔神が初めて、はっきりと息を乱した。
裂けた圧の中心を、リオが一歩で抜ける。
速い。
いや、速いというより――
距離の意味が薄くなる。
夢の中を渡るように、自然に、そこにいる。
掌が魔神の胸元へ届く。
直撃の寸前、
魔神が咄嗟に防壁を展開する。
黒い地脈めいた壁。
分厚く、重く、圧倒的な魔気の壁。
だが、リオの掌が触れた瞬間。
それは内側から音もなく崩れた。
「っ――!」
魔神の体が、大きく後ろへ滑る。
地面が抉れる。
岩が砕ける。
それでも辛うじて踏み止まり、魔神は大きく距離を取った。
成埜の地に、沈黙が落ちる。
騎士たちは、もう声すら出なかった。
さっきまで見ていた戦いとは、完全に別物だった。
剣技ですらない。
魔術とも言い切れない。
だが超常というには、あまりにも自然に使われている。
まるで、世界の繋がり方そのものを少しだけ知っている者の戦いだった。
四天槍のひとりが、その場で崩れるように片膝をつく。
「……無理だ」
誰に向けた言葉でもなかった。
「こんなもの……」
「敵に回せるわけがない……」
サイラスは目を見開いたまま、低く言う。
「昨日の手合わせがどうこうという話ではない」
「そもそも、比べること自体が違っていたのか……」
ゼルクは、ようやく理解しかけていた。
リーダーの格。
その言葉の意味を。
前に立つ者とは、
強い者のことではない。
周囲の理解が追いつかない場所へ、自然に先に立ってしまう者のことを言うのかもしれなかった。
前方では、魔神がリオを見ていた。
その瞳にあった余裕は、もうない。
冷たい知性はそのままだ。
だがその奥に、はっきりと別の色が混じっている。
警戒。
いや――
悟り。
このままでは、勝てない。
それを、魔神自身が理解した目だった。
リオは、少し不思議そうに自分の手を見ていた。
「……なんか」
「分かってきたかもしれない」
その声は、ひどく穏やかだった。
ノアは胸の奥が熱くなるのを感じながら、それでも必死に表情を保つ。
まだ全部ではない。
まだ戻りきっていない。
それでも、ここまで届く。
もしこの感覚をもっと深く掴めば――
その先は、もう言うまでもなかった。
魔神が、静かに姿勢を正す。
そして、初めて敵意とは別の声音で言った。
「……なるほど」
「そういうことか」
リオが顔を上げる。
「何が?」
魔神は答えない。
ただ、口元だけをわずかに歪めた。
「今日はここまでとしよう」
騎士たちの空気が揺れる。
「退くのか……!?」
「魔神が……!」
魔人が驚いたように顔を上げた。
「退く、だと……?」
魔神はそれを一瞥し、低く告げる。
「次は、別の形で会おう」
その言葉は、誰に向けたものか分からないようでいて、
はっきりとリオへ届いていた。
意味深だった。
まるで、この遭遇そのものが通過点にすぎないとでも言うように。
リオは眉をひそめる。
「待って」
だがその瞬間、魔神の周囲を濃い魔気が包み込む。
地と溶けるように、
影の方へ沈むように、
その存在感が急速に薄れていく。
魔人もまた、従うようにその後ろへ下がる。
「また会おう、人の子」
最後に残ったのは、その声だけだった。
そして次の瞬間には、
成埜の地の朝には、風の音しか残っていなかった。
沈黙。
長い、長い静寂。
リオはしばらくその場に立ったまま、
魔神が消えた方向を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……逃げられた、のかな」
ノアは、まだ胸の高鳴りが収まらないまま答える。
「はい……」
「ですが……」
そこで言葉を切る。
まだ今は、全部を言うべきではない気がした。
リオはそんなノアを見て、少し笑う。
「でも、なんとなく分かった気がする」
「何がですか?」
ノアが問う。
リオは、自分の手をもう一度見た。
「剣じゃない方の“俺”」
「まだうまく言えないけど、そっちが少しだけ」
ノアの光が、やわらかく揺れた。
「はい」
その短い返事には、
安堵も、喜びも、どうしようもないときめきも、全部混ざっていた。
後方では、騎士たちがまだ動けずにいた。
誰もすぐには近づけない。
今見たものを、
どう理解してよいのか、
まだ身体の方が納得していないからだ。
成埜の地の風が、また吹き抜ける。
戦いは、終わった。
だが終わったはずなのに、
何かはむしろ、ここから始まったような気がしていた。




