まだ早い
「……まだ、いる」
ノアの震えた声が、成埜の地の朝に落ちた。
リオは魔人から目を離さないまま、小さく問い返す。
「ノア?」
けれどノアは、すぐには言葉を継げなかった。
今、目の前にいる魔人よりも。
今、ここでリオと打ち合っているこの存在よりも。
もっと別の、もっと深く、
もっと異質な気配が、成埜の地の奥からこちらを見ている。
薄いのに重い。
抑え込まれているのに、底が見えない。
それは、ただ強いというだけではなかった。
格が違う。
ノアの光が、はっきりと強ばる。
「リオ様……」
「どうか、慎重に」
魔人が、その反応を見て口元を歪めた。
「気づいたか、小さき光」
リオの目が細くなる。
「何のことだ?」
魔人は答えなかった。
ただ、その時だった。
成埜の地のさらに奥――
林の影と、岩場の境。
その先の、まだ朝日が差し切らない場所から。
声がした。
「待て」
低く。
けれど、成埜の地そのものが喋ったように響く声だった。
「お前には、まだ早い」
その一言で、空気が変わる。
魔人の表情が、初めて明確に揺れた。
驚きではない。
従属の気配だった。
次の瞬間、魔人は反射的に半歩下がる。
リオの後方で、四天槍のひとりが喉を鳴らす。
「……何だ、今の」
サイラスの頬に、冷たい汗が伝う。
ゼルクは無意識に一歩前へ出かけて――止まった。
止まらざるを得なかった。
林の奥から現れた“それ”は、
見えた瞬間に身体が理解を拒むような圧をまとっていたからだ。
ゆっくりと、影が歩み出る。
人型。
だが、さっきの魔人とはまるで違う。
その輪郭は静かだった。
派手な威圧も、あからさまな殺気もない。
むしろ、あまりにも整いすぎている。
黒に近い深い灰の外套。
地脈の色を思わせる鈍い光を宿した肌。
顔立ちは人に近いのに、瞳だけが違った。
底がない。
そこにあるのは激情でも狂気でもなく、
ひどく冷えた知性だった。
そして、何より異様だったのは――
気配が薄いことだ。
ここに立っているのに、
今この瞬間まで、存在を“隠していた”。
ノアの光が、わずかに震える。
「……っ」
リオは魔人から視線を移し、現れた存在を見る。
「君も、喋るんだね」
その言葉に、現れた存在はごくわずかに口元を動かした。
「喋るとも」
「貴様らより、よほど長く考えてきた」
魔人が膝をつく。
騎士たちの空気が一気に凍りつく。
ゼルクが低く呟く。
「……魔人ではない」
ノアが、はっきりと言った。
「魔神……です」
その一言で、後方の王国兵が顔色を失う。
四天槍のひとりは、とうとうその場で膝を折った。
立っていられなかったのだ。
「魔神……!?」
「こんな場所に……!?」
サイラスの声もかすれている。
「あり得ん」
「王国の観測に、こんな存在が引っかからぬはずが……」
「抑えていたのです」
ノアの声は緊張で細い。
「魔気を……意図的に」
魔神は、ノアを見た。
「ほう」
「気づくか、穣天使」
その声音には驚きよりも、確認の色が強かった。
ノアの光がきゅっと縮む。
リオはその様子を見て、さすがに表情を引き締める。
「ノア」
「うん」
「これは、かなり危ない感じ?」
ノアは一瞬だけ言葉に詰まる。
答えたくない。
だが、誤魔化せない。
「……はい」
「かなり、では済みません」
騎士たちの間に、さらに緊張が走る。
魔神は、地を見て、空を見て、そして最後にリオを見る。
その視線は鋭いのに、不思議と急いでいない。
まるで何かを見定めるために、最初から来ていたような――
そんな目だった。
「何しに来た」
リオが問う。
魔神の返答は、ひどく簡潔だった。
「ここは、我らの土地だ」
リオの眉がわずかに動く。
「我らの?」
「そうだ」
魔神は静かに言う。
「地より生まれ、地に還るものの領域」
「人族ごときが、易々と名を与えてよい場所ではない」
その言葉の端々には、はっきりとした知性があった。
ただ喋れるのではない。
考えている。見ている。測っている。
ノアの光が、今度は明確に焦りを帯びる。
「リオ様……!」
「この者、危険です」
「天階の基準では、もはや測れません……!」
リオが、ほんの少しだけ振り返る。
「どのくらい?」
ノアは答えるのをためらった。
だが、目を逸らさずに言う。
「国の設定している天階分類では……おそらく外です」
「強いて近い表現をするなら……」
「天階レベルⅧに届いていても、おかしくありません」
その言葉に、後方の騎士団から明確な動揺が漏れた。
「Ⅷだと……?」
「そんなもの、記録にも……!」
「あり得るわけが――」
「あり得るから、目の前にいるのです!」
ノアが珍しく強い声を出した。
その一喝に、騎士たちが言葉を失う。
ノアはすぐにリオへ向き直った。
「リオ様」
「いったん退きましょう」
その声は懇願に近かった。
「今ここで無理にぶつかる必要はございません」
「相手の正体も、目的も、まだ不明です」
「どうか……」
リオは魔神を見た。
魔神は動かない。
魔人も膝をついたままだ。
なのに、場の主導権は完全にあちらにある。
普通なら、退く。
情報を持ち帰るべきだ。
騎士団を含め、ここにいる全員の安全を考えれば、それが合理的だ。
リオは、ほんの少しだけ黙った。
そして。
不意に、笑った。
「……いや」
ノアの光が止まる。
リオは、心の底から不思議そうに言う。
「なんでか分からないけど」
剣の柄に触れる手に、迷いはなかった。
「いける気がする」
その一言は、軽かった。
無謀な強がりみたいに聞こえてもおかしくないほど、さらりとしていた。
けれど。
その笑みを見た瞬間、
ノアの胸がきゅっと鳴った。
焦っていたはずなのに。
危険だと分かっているのに。
その姿が、どうしようもなく眩しく見える。
自分の知らない自分の力に触れてもなお、
前を向いて笑える。
そんなリオを見てしまうと、
止めたい気持ちと同じくらい、
信じたい気持ちが溢れてしまう。
ノアの光が、ほんのりと赤みを帯びる。
「……もう」
小さく漏れたその声は、誰にも聞こえないくらいだった。
リオが振り向く。
「ノア?」
ノアは、やわらかく揺れた。
「……分かりました」
「お供いたします」
その返答には、諦めではなく、はっきりとした意志があった。
リオは少しだけ嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
後方では、騎士たちが完全に息を呑んでいた。
ゼルクですら、今のやり取りには目を離せなかった。
退くべき敵を前にして、
怯えではなく、笑う。
そしてその笑みを受けて、
穣天使が従う。
四天槍のひとりが、かすれた声で呟く。
「……これが」
「オルビス・ノヴァの、長……」
サイラスも、わずかに目を見開いたまま言葉を持てずにいた。
魔神は、その一部始終を静かに見ていた。
そして、初めて少しだけ興味を深めたように目を細める。
「退かぬか」
「はい」
リオは穏やかに答える。
「せっかく来たしね」
「愚かだな」
「そうかもしれない」
リオは笑ったまま言う。
「でも、そういう時に分かることもある気がするんだ」
成埜の地の風が、強く吹く。
朝の光の中、
魔神と魔人、
そしてリオとノアが向かい合う。
まだ誰も知らない。
この戦いが、ただの討伐でも、ただの遭遇でもなく、
もっと大きな何かの入口になっていることを。
けれど今は、そんなことはどうでもよかった。
ただ、目の前の敵がいる。
そして自分は、
なぜだかそれを越えられる気がしている。
リオはゆっくりと剣を構えた。
「じゃあ――」
その声は静かだった。
けれど、そこにある熱だけは、
誰の目にもはっきり見えていた。




