眠っていた術
魔人が、初めてはっきりと笑った。
「ほう」
「眠っているだけではないか」
その声には、侮りではなく愉悦があった。
目の前の敵が、まだ自分を知らない。
だからこそ面白い、と言わんばかりの笑み。
リオは剣を握り直す。
胸が少しだけ速く打っている。
怖さではない。
混乱でもない。
知らない自分に、今まさに触れかけている感覚。
それが、戦いの熱と混ざっていた。
「……ノア」
「はい!」
「あとで絶対、ちゃんと説明して」
「もちろんです!」
「できれば、簡単に」
「が、頑張ります……!」
そのやりとりに、後方の騎士たちですら一瞬だけ張り詰めた空気を緩めた。
だが次の瞬間、ノアの光がぴたりと止まる。
「……おかしい」
その声は、とても小さかった。
けれど、リオにははっきりと届いた。
「ノア?」
「いえ……」
ノアはすぐに言葉を飲み込む。
「リオ様、どうかお気をつけて」
それだけだった。
けれどノアの内側では、はっきりと警戒が膨らんでいた。
天階レベルⅣ相当――
王国兵の報告は、たしかに大きく外れてはいないはずだ。
だが、目の前の魔人がまとっている“術の質”が妙だった。
使っている魔気の流し方。
配下の魔獣を従える支配の仕方。
地と魔気の繋ぎ方。
どれも、天階Ⅳにしてはおかしい。
それに、魔人の左右に控えている二つの個体。
ただの従属魔獣に見える。
だが、見えすぎている。
まるで、わざとそこまでの存在に見せかけているような違和感。
魔気の輪郭が、不自然に曖昧だった。
強さが読めない。
そして何より――
あの魔人は、あまりにも流暢に話しすぎる。
本来、知性を持つ天階Ⅳ相当の魔人であっても、ここまで淀みなく言葉を操るものは稀だ。
さらに。
まだここには現れていないのに、
もっと別の場所から、薄く、だが鋭い気配が流れてくる。
まるで戦場の外から、こちらを見ている何かがいるような。
ノアの光が、かすかに揺れた。
「……まさか」
だが、今はまだ言わない。
言えば、余計な先入観になる。
まずは、目の前。
リオはそこまで深く考えず、ただ魔人を見据えていた。
「今ので終わりじゃないよね?」
魔人は答えず、片手を軽く上げる。
その瞬間だった。
左右に控えていた二つの個体が、ぬるりと前へ出た。
今までの魔獣とは違う。
片方は細長い四肢を持つ異様に痩せた獣型。
骨ばった身体に似合わず、足音がしない。
もう片方は、逆に重い。
甲殻とも岩肌ともつかぬ外殻を持ち、鈍重そうに見えるのに、その魔気がやけに薄い。
「……あれ」
リオが目を細める。
「なんだろう、嫌な感じだな」
ノアが即座に反応する。
「リオ様、どうかご油断なく」
「先ほどまでの個体とは、気配が違います」
後方の騎士たちも、それぞれに表情を強ばらせていた。
「今の二体……」
四天槍のひとりが呟く。
「何故だ、魔気の輪郭が読めぬ」
サイラスも低く言う。
「見せかけか、あるいは……隠されているのか」
ゼルクは黙っていたが、その目はさらに鋭くなっている。
リオは一度だけ剣を構え直した。
だが、次の瞬間。
細長い方が消えた。
「っ」
リオが反応するより早く、
真横――あり得ない角度から爪が走る。
踏み込みではない。
滑ったのでも、跳んだのでもない。
一瞬だけ、距離の“繋がり方”が歪んだように見えた。
リオは剣を上げて受ける。
火花。
重い。
痩せた見た目からは想像できないほど、爪に乗っている力が深い。
「リオ様!」
同時に、もう一体が正面から来る。
鈍いと見せかけて速い。
地面そのものが押し出しているみたいな加速だった。
左右からではない。
上と前。
タイミングも角度も、明らかに先ほどまでの魔獣と違う。
「……っ!」
リオは半歩だけ下がる。
だが、その瞬間、
頭の奥で、また何かがひっかかった。
剣で受ける。
避ける。
斬る。
その選択のどれでもない、
もっと別の“流れ”が、自分の中にある気がした。
見えない線。
触れたことのないはずの術式。
でも、身体のどこかはそれを知っている。
リオの足元に、淡い光が走る。
薄い。
朝の陽に溶けそうなほど、頼りない。
だが確かに、それは術式の輪郭だった。
「――え?」
リオ自身が、一番驚く。
光は円ではなく、幾何ではなく、
まるで細い道筋が何本も折り重なって現れたような形をしていた。
その瞬間、世界の見え方が少しだけ変わる。
細長い個体の軌道が、遅く見えた。
重い個体の踏み込みが、先に読めた。
考えたわけじゃない。
身体が先に動く。
リオは剣を放した。
後方の騎士たちが、一斉に目を見開く。
「剣を――!?」
「何を……!?」
だが、リオはもう、剣を必要としていなかった。
右手を軽く上げる。
指先の先に、淡い光の糸が走る。
それは派手な魔術ではない。
轟音も、閃光もない。
ただ、空間に“通り道”が生まれた。
「……っ!」
細長い個体が、その道筋へ踏み込んだ瞬間――
身体が、ずれた。
いや、違う。
“そこにいた記録”ごと、横へ裂けた。
一拍遅れて、個体の胴が滑るように二つに分かれる。
「な……」
四天槍のひとりが声を失う。
もう一体が吠え、地を砕きながら突進する。
リオは、今度は左手を軽く振った。
光がまた一筋、走る。
今度は線ではなく、面に近い。
薄い膜のようなものが一瞬だけ空中に現れる。
突進してきた個体がそれに触れた瞬間、
その巨体が、まるで進行方向を見失ったように揺らぐ。
「ギ――!?」
リオはその懐へ、一歩だけ踏み込んだ。
そして。
触れるみたいに、掌を前へ出す。
音もなく、
重い個体の胸部に、内側から亀裂が走った。
外殻ごと、身体が崩れる。
鈍く、遅れて地へ伏す。
沈黙。
本当に、一瞬だった。
剣を使わなかった。
抜いたはずの剣は、地に落ちることもなく、最初の位置でただ静かに握られている。
だが戦いそのものは、もう終わっていた。
リオが、呆然と自分の手を見る。
「……今の」
「何したんだ、俺」
ノアの光が、震えていた。
驚きで。
懐かしさで。
そして、見惚れるような熱で。
「……ああ」
小さく、小さく漏れた声は、ほとんど吐息だった。
「それでございます……」
その光はやわらかく揺れながら、少し赤みすら帯びて見えた。
「夢導魔術の一系統……」
「リオ様……」
リオはまだ分かっていない顔で、振り返る。
「え?」
「今のが?」
「はい……!」
ノアは胸いっぱいに光を弾ませる。
「完全ではございません」
「ですが、確かに今……お使いになりました……!」
後方では、騎士たちの動きが完全に止まっていた。
ひとりは膝をつき、
ひとりは口を開けたまま閉じられず、
ひとりは剣に手をかけたまま、抜くことすら忘れている。
サイラスが低く呟く。
「何が……起きた」
四天槍のひとりが、震える声で返す。
「見えなかった……」
「斬ったのではない」
「だが、倒れている……」
ゼルクだけが黙っていた。
だが、その沈黙は最も重かった。
昨日のラルラゴとの手合わせとは、明らかに質が違う。
あの時は剣だった。
力だった。
超常ではあっても、まだ“戦い”として見えていた。
だが今のは違う。
理解より先に現象だけが結果へ辿り着いている。
これは、同じ土俵の強さではない。
リオは、前へ向き直る。
魔人はもう笑っていなかった。
さっきまでの余裕は消え、
その瞳の奥には、はっきりとした警戒が宿っている。
「……なるほど」
低い声。
「やはり、妙なものだ」
リオは少し困ったように言う。
「いや、そう言われても」
「今の、俺もよく分かってないんだけど」
「それが厄介だと言っている」
魔人は一歩前に出る。
「知らずに使う者ほど、扱いづらいものはない」
その言葉に、成埜の地の風が強く吹き抜けた。
ノアはまだ、リオを見つめたままだった。
懐かしい。
美しい。
そして、危うい。
忘れていたものが、感覚だけで戻り始めている。
それは喜びであると同時に、何かが大きく動き始めた証でもあった。
リオは自分の手をもう一度見てから、魔人を見据える。
「……うん」
「やっぱり、本番はここからっぽいね」
魔人の魔気が、さらに濃く膨れ上がる。
朝の成埜の地が、次の一撃を待つように静まり返った。




