知らない自分の力
成埜の地へ足を踏み入れてから、しばらく。
最初に現れたのは、草陰から飛び出してきた四足の魔獣だった。
灰褐色の体毛。
低く唸る喉。
牙を剥き、一直線にリオへ飛びかかってくる。
「速いですね」
ノアが小さく言う。
「うん。でも――」
リオは足を止めない。
抜き放った剣が、朝の光を一瞬だけ反射する。
次の瞬間には、魔獣の体がそのまま横へ流れていた。
遅れて、斬られたことに気づいたように地を転がる。
リオは一度だけ剣を振って血を払うと、そのまま前へ進んだ。
「……これじゃないな」
ノアが問い返す。
「違う、と仰いますと?」
「さっきの魔気の感じと違う」
リオは前方を見たまま言う。
「今のは、ただこの辺をうろついてた個体って感じがする」
「王国側に流れてきてる本体は、たぶん別にいる」
ノアは、なるほどと頷くように光を揺らした。
「はい。私も、そう感じます」
それからも、何体か魔獣は現れた。
茂みの奥から跳ぶ獣型。
岩陰から這い出る甲殻型。
低木ごと突っ込んでくる角持ちの中型種。
けれど、どれも長くは保たない。
リオが剣を一閃するたび、
あるいは半歩だけ身体をずらして刃を通すたび、
魔獣たちは次々と地に伏していった。
ゼルクたち騎士団の一行は、少し後方からその様子を見ていた。
誰も口を挟まない。
ただ、見る。
リオの歩き方。
剣の抜き方。
無駄のない間合い。
魔獣を斬った直後に、もう次の気配へ意識を移しているあの静けさ。
四天槍の一人が、ごく小さく息を呑む。
「……速い」
サイラスは目を細めたまま、低く返した。
「いや」
「速いだけではない」
ゼルクもまた、何も言わず見ていた。
その視線の先で、リオはまた一体、魔獣を剣一本で沈める。
血が飛ぶより前に、もう戦いが終わっているような斬撃だった。
リオは剣を軽く払って鞘へ戻し、小さく首を傾げる。
「やっぱり、これらの個体じゃないのは確実だな……」
「はい」
ノアがそっと答える。
「魔気の中心は、もっと奥です」
少しだけ風が変わる。
土の匂いの奥に、まだ別の濃さがある。
その時だった。
ノアが、少しだけ言いづらそうに光を揺らした。
「……リオ様」
「ん?」
リオが歩きながら応じる。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか……?」
「いいよ」
リオはあっさり答える。
「何?」
ノアは一拍ためてから、慎重に口を開いた。
「昨日、ラルラゴ様とお手合わせをされた際……」
「なぜ、剣のみだったのでしょうか?」
リオがぴたりと足を止める。
「……ん?」
ノアは続けた。
「先ほども、魔獣をわざわざ剣で始末されておりましたので……」
「え?」
リオは本気で分かっていない顔をした。
「だって、これしか使えない……」
そこまで言ったところで、ノアの光が慌てたようにぶわっと揺れた。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「きっと深い理由があるのですよね!?」
「私ったら、大変失礼なことを……申し訳ありません……!」
「いや」
リオは少し困ったように笑う。
「そうじゃなくて」
そのやりとりは、後ろをついてきている騎士団一行にも、しっかり聞こえていた。
四天槍の一人が、思わず隣へ顔を向ける。
「……なんの話だ?」
「分からん」
別のひとりが低く返す。
「だが、ノア様の反応からして、ただ事ではないな」
サイラスも眉を寄せる。
ゼルクだけが黙って続きを待っていた。
リオはノアを見た。
「ノア」
「今の話、どういう意味?」
ノアはおずおずと答える。
「はい……その……」
「“夢導魔術”を、お使いにならなかったので……」
「……ん?」
リオが固まる。
「なに?」
「夢導……何?」
ノアの光が、今度は恥ずかしそうに揺れた。
「“夢導魔術”です……」
「そのお姿、ノアはとても好きなのでございます……」
最後の方は、少しだけ小さかった。
リオは数回まばたきをしたあと、率直に言った。
「知らないんだけど」
沈黙。
今度はノアの方が固まる番だった。
「…………えっ」
「いや、えっ、じゃなくて」
リオは本当に困った顔になる。
「俺、その名前、初めて聞いた」
「夢導魔術って何?」
ノアの光が、あわあわと揺れ始める。
「あ、ああ……!」
「そ、そうでした!」
「リオ様はこの世界での過去のお記憶が……まだ……!」
「うん」
リオは頷く。
「ない」
「た、大変失礼いたしました……!」
ノアはしょんぼりしたように光を縮めた。
「わ、私、てっきり当然ご存じのものと……」
「いいよ」
リオは苦笑する。
「むしろ気になる」
「教えて、ノア」
ノアは一度深呼吸するように光を整えた。
「あ、はい」
少しだけ真面目な調子に戻って、説明を始める。
「リオ様は、異形スキル《夢記録》を駆使し、何度も夢の中へお入りになっておりました」
「そして、その夢の中で、非常に長い歳月をお過ごしになりました」
リオの目が少し見開く。
後ろの騎士たちの空気も、静かに変わる。
ノアは続けた。
「その過程で得られた複数の魔術技のひとつが――」
「“夢導魔術”でございます」
「夢の中で……」
リオは呟く。
「魔術を?」
「はい」
ノアは頷くように光を揺らす。
「さらにリオ様は、《夢記録》の最中に“停止時能力向上”を重ねて発動させる方法まで編み出されました」
サイラスが、後方で息を止める。
四天槍のひとりが低く呟いた。
「二重……発動?」
ゼルクの目が、わずかに細くなる。
リオはそんな後ろの反応に気づかぬまま、ただノアの言葉だけを追っていた。
「え」
「何それ」
ノアはさらに言う。
「時間の止まった側で積み重ねたものと、夢の中で積み重ねたもの」
「リオ様は、その二つを重ねておられました」
「……ちょっと待って」
リオが眉を寄せる。
「それ、俺がやったの?」
「はい」
ノアはきっぱり言った。
「リオ様が、自ら」
「そんな無茶苦茶なことを?」
「はい」
「見事に」
リオはしばらく黙った。
自分で聞いておいてなんだが、まったく覚えがない。
なのに、ノアは少しも冗談を言っているようには見えない。
「……で、その、夢導魔術っていうのは」
ノアの光が、少しだけ嬉しそうに揺れる。
「夢の記録世界で積み重ねた魔術式を、現実側へと導き出して行使する技法です」
「通常の魔術とは構築の癖が異なり、夢で得た術式を、“記録”から引き出すように展開されます」
リオは完全に分からない顔になった。
「ごめん」
「半分くらい分からない」
「だと思いました……!」
ノアが少し慌てて言う。
「ええと、簡単に申しますと……」
「リオ様は、“夢の中で完成させた魔術”を、現実でも使えるのです」
リオは、数秒止まった。
「……は?」
「はい」
ノアはこくりと頷く。
「そのお姿は、本当にお見事で……」
「ノアは、とても好きなのでございます……」
最後だけ、また少し照れたように小さくなる。
リオはますます混乱した。
「いやいやいや」
「そんなすごそうなもの、俺ほんとに使えるの?」
「使えます」
ノアは即答した。
「いや、でも知らないんだけど?」
「お記憶が戻れば、きっと自然に……」
「戻る前に使いたい場合は!?」
ノアの光が、ぴたりと止まる。
後ろで聞いていた騎士たちも、思わず息を呑む。
リオは真顔だった。
「どうやって使うの?」
その問いは、思いのほか素直で、
そして少しだけ少年みたいだった。
ノアは、しばらく言葉を探すように揺れたあと、やわらかく答える。
「……たぶん」
「感覚で、思い出す方が早いかもしれません」
「感覚」
リオが繰り返す。
「はい」
ノアは頷く。
「リオ様の中には、もうあるはずですから」
成埜の地の風が、ふたりの間をすり抜ける。
まだ姿を見せない魔気は、たしかに奥でうごめいていた。
そして今、
リオの知らない“自分の力”もまた、
同じようにその内側で、静かに眠っているのかもしれなかった。




