成埜の地へ
小さな城の廊下は、朝の光を受けて静かだった。
昨夜の賑わいが嘘のように、石造りの通路にはまだ眠りの余韻が残っている。
扉の向こうに仲間たちの気配はある。
けれど、それをわざわざ起こすほどのことでもない――そう思えるくらいには、リオの足取りは軽かった。
「成埜の地、か」
小さく呟きながら、階段を下りる。
王から与えられた未開拓地。
まだ何も始まっていない、自分たちの土地。
その名前を口にするだけで、胸の奥が少しだけ熱くなった。
見に行くだけのつもりでもいい。
様子を確かめるだけでもいい。
けれど、そこに魔気が現れたとなれば話は別だ。
むしろちょうどいい、とさえ思えた。
「最初の見学にしては、ちょっと派手だけど」
そう苦笑しながら、リオは城の正面玄関を抜ける。
外には、先ほどの使者がすでに待っていた。
朝の空気は冷たく、吐く息がまだ少し白い。
「リオ様!」
「待たせたね」
リオは軽く手を上げる。
「案内は途中までで大丈夫だよ。たぶん場所は分かる」
使者は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに姿勢を正した。
「さ、左様でございますか」
「では、街道を外れた先の丘を越えれば、成埜の地の境に出ます」
「現在は周辺に王国の見張りも数名配置しておりますが、深追いはしておりません」
「うん、それでいいと思う」
リオが頷く。
「無理をして怪我をされても困るし」
使者は、その言葉にわずかに目を丸くした。
こんな場面で、まず見張りの兵の心配をするのか、とでも言いたげだった。
「……では、どうかお気をつけて」
「ありがとう。行ってくる」
そう言って歩き出した、その時だった。
後ろから、ぱたぱたと軽い音が近づいてくる。
「リオ様」
聞き慣れた声に、リオが振り返る。
そこには、小さな光を揺らしながらノアが浮かんでいた。
「ノア?」
リオが目を瞬く。
「起きてたの?」
「途中で気づきました」
ノアは少しだけ胸を張るように光を弾ませる。
「リオ様が、お一人でどこかへ向かわれる気配がしたので」
「気配って分かるものなんだ」
「分かります」
ノアはやさしく答えた。
「特に、リオ様のことは」
その言葉に、リオは少しだけ照れたように笑う。
「そっか。でも、みんなはまだ寝てるんじゃない?」
「はい」
ノアは頷く。
「ですので、起こしませんでした」
「……それで来てくれたんだ」
「はい」
ノアはまた、ふわりと揺れた。
「ご一緒しても、よろしいですか?」
リオは一瞬だけ考える。
けれど、その答えは最初から決まっていた。
「もちろん」
「むしろ、来てくれて嬉しいよ」
ノアの光が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
使者はそのやりとりを見て、なんとも言えない顔で一歩下がった。
朝から、伝説の一角と、その肩に寄り添う小さな光の存在に挟まれているのだから無理もない。
「では……」
使者が小さく咳払いする。
「私はここで」
「うん」
リオは頷いた。
「何かあったら、無茶だけはしないでね」
「は、はいっ!」
見送る使者を背に、リオとノアは王都の朝の道へ歩き出した。
朝の王都は、夜とはまた違う顔をしていた。
店を開ける準備をする商人。
通りを掃く人々。
焼きたてのパンを並べる露店。
眠そうな顔で荷を引く若者。
まだ夜の酒が少し残っていそうな酔客が、ふらふらと路地へ消えていく。
昨夜、自分たちが歩いた通りも、今は静かな始まりの色をしていた。
リオはその景色を眺めながら言う。
「同じ場所なのに、夜と朝でずいぶん違うんだな」
「人の営みが切り替わる時間ですから」
ノアが答える。
「王都は、止まらずに巡っているのでしょう」
「巡る、か」
リオは小さく笑う。
「そう聞くと、オルビス・ノヴァって名前、ちょっとしっくりくるね」
「はい」
ノアの声は嬉しそうだった。
「とても、良いお名前です」
王都を抜けるにつれ、人の数は少しずつ減っていった。
石畳はやがて土の道に変わり、
店の軒先は畑へ、
喧騒は鳥の声へと移っていく。
背後の城壁が小さくなっていくのを見ながら、リオは胸の内で不思議な感覚を覚えていた。
昨日までは、あんなにも遠かったものが、
今はもう自分の足で向かう場所になっている。
それが王国から与えられた土地であり、
これから何かを始める場所なのだと思うと、
道の先が少しだけ違って見えた。
「成埜の地って、どんな場所なんだろうな」
リオが呟く。
ノアも前方へ視線を向ける。
「まだ、誰の色にも染まっていない土地……かもしれません」
「誰の色にも、か」
「うん」
リオは頷く。
「それはちょっと、いいな」
しばらく進むと、道の脇に王国兵が二人立っているのが見えた。
簡素な鎧に槍を持ち、周囲を警戒していた兵たちは、こちらに気づくと一瞬で姿勢を正した。
「リオ様!」
「ノア様も……!」
「おはよう」
リオが手を上げる。
「この先で合ってるよね?」
「は、はい!」
兵のひとりが緊張した声で答える。
「この丘を越えた先より、成埜の地の外縁です!」
「昨夜から今朝にかけて、魔気の濃淡に揺らぎがあり、断続的に複数反応を確認しております!」
「複数、か」
リオは丘の向こうを見る。
朝日を受けたその先には、まだはっきりとは見えない広い土地が広がっているはずだった。
「見た限りでは、天階ⅢからⅣ相当の個体かと……!」
兵は言いながら、喉を鳴らす。
「我々では追跡も深追いも危険と判断し――」
「うん、それで正しいと思う」
リオは落ち着いて頷いた。
「ありがとう。ここから先は俺が見るよ」
兵たちはほっとしたような、かえって緊張したような顔になる。
ノアが小さく光を揺らした。
「ご安心ください」
その一言だけで、兵たちの肩から少し力が抜けた。
リオは丘へ向かって歩き出す。
草を踏む感触が変わる。
風の匂いが変わる。
王都の近くではたしかに感じていた人の気配が、ここから先では急に薄くなっていく。
丘を登るにつれ、空気そのものが少しずつ乾いて、濃くなる。
「……変わってきた」
リオが小さく言う。
「はい」
ノアも静かに応じる。
「魔気が、地に沈んでいます」
それは露骨な圧ではなかった。
むしろ静かで、じわじわとまとわりつくような気配だった。
人の整えた土地ではない。
まだ野が野のままである場所。
獣も、魔物も、この地を誰のものとも思っていない。
丘の頂に差しかかったところで、リオは足を止めた。
その先に、成埜の地が広がっていた。
朝日に照らされた、広い、広い土地。
手つかずの草原。
ところどころに生えた林。
岩肌の見える斜面。
遠くに霞む水辺。
そして、その静けさの奥にたしかに潜んでいる、異質な気配。
リオは思わず息を呑む。
「……すごい」
王都とはまるで違う景色だった。
人の都合で切り分けられていない、むき出しの大地。
何もないようでいて、何かが始まる前の気配だけは満ちている。
「ここが……成埜の地」
その名を、初めて本当の意味で口にした気がした。
ノアも静かに見つめている。
「広いですね」
「うん」
リオは頷く。
「広い」
「……なんか、わくわくするな」
ノアの光がふわりと揺れる。
「はい。少し、分かります」
リオはその土地を見つめたまま、腰の剣へ手を添える。
わくわくする。
それは、この先に何があるか分からないからだ。
自分たちのものになる土地なのに、まだ何も知らない。
その最初に待っているのが魔獣だというのも、妙にそれらしかった。
「見学ついでに、ちょっとやり合ってみるか」
リオは笑う。
その時だった。
丘の下、成埜の地と王国側の境目に近い場所に、見慣れた影がいくつも立っているのが目に入った。
甲冑の輪郭。
揃った立ち姿。
張り詰めた気配。
リオが目を細める。
「……あれ?」
ノアも気づいたらしく、光が小さく揺れる。
「騎士団の方々、でしょうか」
どうやら、そうだった。
天槍騎士団。
四天槍。
そして、絶騎士団の団長ゼルク・アーヴェンと、サイラス。
昨日、ノアの勧誘に対して返答を保留にした者たちが、そろって境のあたりに立っていた。
こちらに気づいたゼルクが、一歩前へ出る。
「おはようございます、リオ様」
その呼びかけは、昨日よりもずっと静かで、ずっと整っていた。
リオは少し驚きながら、丘を下りていく。
「えっと……みんな、どうしてここに?」
ゼルクはまっすぐに答えた。
「王国兵より報を聞きつけ、先に参りました」
サイラスが後を継ぐ。
「昨夜の件につきましては、まだ返答を保留とさせていただいております」
四天槍の面々も、無言のまま一礼する。
ゼルクはそのまま続けた。
「ですが」
「オルビス・ノヴァの長として立たれるリオ様が、どのように動かれるのか」
「そのご判断と、ご実力を、この目で拝見したく、皆で参りました」
リオは、ぱちりと目を瞬いた。
「……俺?」
どうにもまだ、その立場に自分が結びつかない。
ラルラゴではなく、自分。
昨日から何度か感じていた違和感を、また少しだけ思い出す。
だが、ゼルクたちの目は本気だった。
試すような目ではない。
見極めるための、真っ直ぐな目だ。
サイラスが静かに言う。
「昨日のあの場で、我々は見ました」
「ですが、戦場でのご判断はまた別です」
「保留のままにしておくには、惜しすぎる」
と、四天槍のひとりが低く続ける。
別のひとりも頷く。
「ゆえに、見届けに来ました」
リオは少しだけ困ったように笑った。
「なんだか、思っていたより大ごとになってきたな……」
ヴァルやリュメリアなら、きっと面白がるだろう。
ラルラゴなら「そういうものだ」とだけ言うかもしれない。
ノアがやわらかく光る。
「リオ様らしいです」
「それ、どういう意味?」
リオが小さく笑う。
ゼルクは一歩引いた。
「ご安心ください」
「我々は手を出しません。あくまで見届けるのみです」
サイラスも続ける。
「王国側の境は、我々が抑えておきます」
つまり、存分にやれということらしい。
リオは成埜の地を振り返る。
朝日に照らされた広い土地。
その奥に蠢く、まだ姿を見せない魔気。
そして背後には、自分の動きを見ようとしている騎士団たち。
なんだか急に、舞台が整いすぎてきた。
けれど。
「……まあ、いいか」
リオは小さく息を吐くと、剣の柄に手を添えた。
「見学のつもりだったけど」
「せっかくだし、ちゃんと見てもらおうかな」
その声に、ゼルクたちの空気がわずかに引き締まる。
ノアは、嬉しそうに光を弾ませた。
「はい」
その瞬間だった。
成埜の地の奥――林と岩場の境あたりで、ぴり、と空気が震えた。
ノアの光が一瞬だけ鋭く収束する。
「リオ様」
「うん、分かる」
風向きが変わる。
草が揺れる。
地の奥から、確かな魔気が立ち上がってくる。
ひとつではない。
複数。
それも、少しずつこちらへ近づいていた。
リオは剣の柄を握る。
鞘の中の重みが、今度ははっきりと頼もしく感じられた。
昨日、たった1日で何もかもが変わった。
そして2日目の朝は、
どうやら静かな見学だけでは終わってくれないらしい。
リオは目の前の成埜の地を見据え、小さく笑った。
「……いいね」
「そうこなくちゃ」
その声には、もう完全に冒険者の熱が宿っていた。




