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考える価値はある

ラルラゴの短い一言をきっかけに、止まっていた足がまた動き出す。


王都のざわめきは変わらず続いていた。

石畳を打つ靴音。

荷車のきしみ。

露店から漂う香ばしい匂い。

通りすがる人々の笑い声と、どこか遠くで鳴る鐘の音。


さっきまで少し重たかった空気が、いつの間にかまた街の熱に溶けていた。


ヴァルが両手を後ろで組みながら、いかにも楽しそうに言う。


「よし。そうと決まれば、まずは腹ごしらえだな」


「名前を決めるにも、空腹ではろくな案が出ない」


リュメリアが呆れ半分に目を細める。


「あなたは満腹でもろくでもない案を出すでしょうに」


「失礼な」

ヴァルは胸に手を当てる。

「私はいつだって感性で生きている」


「それを世間では適当と言うのよ」


「ひどいなあ」


そのやりとりに、リオは小さく笑った。


「でも、少し安心した」


ヴァルが振り向く。


「何がだ?」


「こうして歩いていると、さっきまでの話が嘘みたいで」

リオは露店の並ぶ通りへ目を向ける。

「みんな、ちゃんと普段通りなんだなと思って」


ノアが肩の上でやわらかく揺れる。


「普段があるというのは、とても大切なことです」


「そうだね」

リオは静かに頷いた。

「たしかに」


ちょうどその時、焼き串の香りが風に乗って流れてくる。


肉の脂が炭に落ちて、じゅっと弾ける音。

甘辛い香辛料の匂い。

その場にいるだけで食欲を刺激してくる、実に罪な匂いだった。


ヴァルがぴたりと足を止める。


「まずはあれだな」


「早いね」

リオが少し笑う。


「こういうのは早い者勝ちなんだ」

ヴァルは真顔で言う。

「人生も露店も、迷ってる間に美味いものは消える」


「たまに妙にそれっぽいことを言うのね」

リュメリアが呆れたように返す。


店主は一行を見るなり、ぎょっとした顔になった。

だが次の瞬間には、背筋を伸ばして慌てて頭を下げる。


「お、お客様……!」


ヴァルがにやりと笑う。


「串、5本。いや、10本にするか」


「最初から多いな」

リオが言う。


「どうせ無料だろう?」

ヴァルは当然のように返す。

「王からいただいた権利は、使うためにある」


リュメリアが淡々と口を挟む。


「無駄遣いしなければ、ね」


「私はいつだって有意義に使っている」


「今のところ説得力はないわ」


そんなことを言っている間にも、香ばしく焼き上がった串が次々と並べられていく。

ヴァルは最初の一本を受け取るなり、ためらいなく齧りついた。


「うむ。美味い」


「語彙が死んでるよ」

リオが穏やかに突っ込む。


「美味いものの前では誰だってこうなる」


リオも一本受け取り、ひと口齧る。

炭火の香りと肉の旨味が口の中に広がり、思わず目を細めた。


「……これは、たしかに美味しいね」


ヴァルが得意げに笑う。


「だろう?」


「お前が作ったわけじゃないでしょう」

リュメリアが即座に切る。


ノアには、店主が恐縮しきった様子で果汁を薄く冷やした飲み物を小さな器に入れて差し出した。

ノアはぺこりと丁寧に頭を下げる。


「ありがとうございます」


ラルラゴは何も言わず串を受け取り、静かに食べていた。

その姿が妙に自然すぎて、リオは少しだけ目を丸くする。


「……ラルラゴも、こういうの食べるんだね」


ラルラゴは一瞬だけ視線を向けた。


「食う」


「いや、そうなんだけど」

リオは少し笑う。

「なんとなく、仙人みたいに霞だけで生きてそうな雰囲気があったから」


ヴァルが盛大に吹き出した。


「霞で生きるラルラゴ!

それは見たいな」


「見たくないわよ」

リュメリアが呆れたように言う。


ラルラゴはわずかに眉を寄せただけだったが、リオにはその反応が少しだけおかしくて、また笑みがこぼれた。


露店通りを抜ける頃には、リオの手にはいつの間にか焼き菓子まで乗っていた。


「それ、誰が渡したんだ?」

ヴァルが覗き込む。


「さっきのおばあさん」

リオは少し困ったように笑う。

「“持っていきな”って」


「気に入られたな」


焼き菓子は外側がかりっとしていて、中はほろりと崩れた。

素朴な甘さが口に残る。


リオは通りを見渡しながら呟く。


「王都って、思っていたより賑やかなんだね」

「もっと張り詰めた場所なのかと思ってた」


「表通りはそうでもない」

リュメリアが答える。

「人は、暮らしの隙間にちゃんと楽しみを作るものよ」


「そうだな」

リオは遠くを見るように言った。

「生きることだけでいっぱいでも、笑う瞬間はあるんだろうね」


その言葉のあと、一行は少しだけ人通りの多い広場へ出た。


噴水を囲むように露店が並び、楽器を鳴らす者、即興で踊る子ども、果物を積み上げる商人、昼間からすでに出来上がっている酔客までいる。

街の熱気が、渦を巻くみたいに集まっていた。


ヴァルの目がきらりと光る。


「よし、次は酒だ」


「でしょうね」

リュメリアがため息をつく。


「せっかく無料だぞ?」


「あなたの頭の中では、その言葉がかなり大きいのね」


「大きいとも」

ヴァルは胸を張る。

「王の厚意を無駄にしない。実に礼儀正しい」


「理屈が無茶苦茶だよ」

リオが苦笑した。


それでも結局、一行は広場脇の酒屋台に立ち寄ることになった。

冷えた果実酒に、香草を利かせた軽い蒸留酒、泡立つ麦酒まで並んでいる。


ヴァルは迷わず一番大きな杯を取る。


「これだ」


ラルラゴは無言で濃い色の酒を選び、

リュメリアは香りだけ確かめてから薄い果実酒を手にした。


「リオは?」

ヴァルが聞く。


リオは並んだ酒瓶を見回し、少し考える。


「じゃあ、それと同じのを」

と、リュメリアの持つものを示した。


「堅実だなあ」

ヴァルが笑う。


「外したくないだけだよ」


一口飲んでみると、思った以上に飲みやすかった。

軽い甘みのあとに、果実の酸味がすっと抜ける。


「……これは好きかもしれない」


「でしょう?」

リュメリアが少しだけ得意げに言う。

「あなた、変に強い酒よりそのくらいの方が合う気がするわ」


ノアはまた小さな器で、果汁と蜜を混ぜたものをもらっていた。

光が心なしか嬉しそうに弾んでいる。


「王都の皆さま、とてもお優しいですね」


「いや」

ヴァルが杯を揺らしながら笑う。

「たぶん“王の客人に無礼があってはならぬ”の方だ」


「言わなくていいところを正直に言うんじゃないわよ」

リュメリアが呆れる。


「だが半分は本当だろう」


「半分で済めばいいけどね」


忙しい通りの中を、食べて、飲んで、歩きながら、会話はまた自然と名前の話へ戻っていった。


ヴァルが焼き串の最後の一本をひらひら振って言う。


「で、新しい名だ」


「リオが言い出した以上、最初の案くらい出してもらおうじゃないか」


「いきなりだね」

リオは少し笑う。


「こういうのは勢いが大事なんだ」

ヴァルは断言した。

「考えすぎると、大体つまらなくなる」


「それはあなたの癖でしょ」

リュメリアが返す。


リオは少しだけ空を見上げた。

王都の空は高く、雲がゆっくり流れている。

けれど視線を下ろせば、華やかな広場のすぐ先に、疲れた顔の人々がいる。

笑い声と、やるせなさと、食べ物の匂いと、石畳の熱。

全部が一緒くたになったこの街が、今は妙に胸に残っていた。


「……過去を飾る名前じゃなくて」

リオはゆっくりと言う。

「これからの人たちのために使える名前がいいんだよね」


「そうだ」

ラルラゴが短く言う。


「なら」

リオは少し考えた。

「“星”とか“天”とか、そういう遠いものだけじゃなくて……もっと地に足がついた感じがいいのかもしれない」


リュメリアが興味深そうに目を細める。


「続きを聞かせて」


「まだ形にはなってないけど」

リオは歩きながら言葉を探す。

「俺たちが何者だったかを示すより、これから何をするかが伝わる名前」

「誰かを見下ろすんじゃなくて、手を伸ばせるような名前」


ヴァルが珍しく黙って聞いていたが、やがて杯を傾けて笑った。


「いいな」

「お前、そういう時だけ真っ直ぐすぎて眩しい」


「そうかな」


「そうだ」

リュメリアが静かに頷く。

「でも、それがいいのよ」


ラルラゴが、通りの向こう――さっき見た貧しい区画の方を一瞥する。


「なら、“導く”や“照らす”では弱い」


リオが見る。


ラルラゴは続けた。


「上から与える響きになる」


その一言に、リオははっとしたように目を瞬く。


「……たしかに」


「同じ地に立つ名がいい」

ラルラゴは言った。


「同じ地に立つ……」


その言葉が、リオの中で静かに沈んでいく。


ヴァルが笑う。


「なら、“歩く”とか、“共に”とか、その辺の匂いか?」


「雑ねえ」

リュメリアが言いつつも、少し考え込む。

「でも方向は悪くない」


ノアがやわらかく光った。


「寄り添う、という響きも素敵です」


「寄り添うか」

リオは小さく繰り返す。


その時、広場の端で子どもたちが追いかけっこをしていた。

服は古い。靴も揃っていない。

それでも、声だけは明るかった。


リオはその姿を見て、ふっと表情をやわらげる。


「……守る、でもないな」


「守るだけじゃ、届かない」


「一緒に進む、か」

リュメリアが呟く。


ヴァルが指を鳴らす。


「それだ」

「進む。歩く。共にある。悪くない」


「でも、まだ決め手に欠けるわね」


しばし、一行は賑やかな通りの中を歩きながら、それぞれに短い単語を出し合った。


「スタラ」

「少し過去寄りね」


「ノヴァ・ヴィア」

「綺麗だが、少し真っ直ぐすぎるか」


「アヴニール」

「響きはいいけど、少し繊細すぎるわ」


「クレスコ」

「悪くないが、やや硬いな」


「ルーチェ」

「綺麗だけど、光に寄りすぎるね」


ヴァルが「バッコはどうだ」と真顔で言い、

リュメリアに即座に却下され、

ノアが小さく光って笑い、

リオが声を立てずに肩を揺らす。


そんな忙しないやり取りの中で、ふと、リオが立ち止まった。


目の前には、さっき見た貧しい区画へ続く細い道。

その反対側には、今日も賑わう王都の大通り。

明るさと厳しさが、同じ街の中で隣り合っている。


リオはその境目を見つめながら、静かに口を開いた。


「――オルビス・ノヴァ」


一同が止まる。


ヴァルが片眉を上げる。


「ほう」


リュメリアが繰り返す。


「オルビス・ノヴァ……」


ノアの光が、ふわりと揺れる。


リオは少しだけ自分の中の言葉を確かめるように続けた。


「新しい世界、という意味に近いのかもしれない」

「でも、俺が思ったのはもっと大げさなものじゃなくて……新しい巡り、という感じなんだ」


風が、通りを抜けた。


露店の旗が揺れ、遠くで子どもたちの笑い声が弾ける。


「過去の名前をそのまま抱えて進むんじゃなくて」

リオは静かに言う。

「ここからまた始まるための名前」

「俺たちにとっても、これから出会う人たちにとっても、何かが動き出すような――そんな名がいいと思った」


ノアの光がやわらかく弾んだ。


「……素敵です」

「とても、広がりのあるお名前ですね」


ラルラゴは短く言った。


「悪くない」


「お、それはかなり高評価だぞ」

ヴァルが笑う。


リュメリアは静かに目を細める。


「ええ。いいわね」

「世界といっても、支配する響きじゃない」

「閉じた名前でもないし、過去だけに縛られていない」


リオは少しだけ照れたように笑う。


「思いついただけだけど」


「そういう一撃を出すのが怖いのよ、あなたは」

リュメリアが言う。


ヴァルは杯を軽く掲げた。


「では、決まりか?」


ラルラゴが頷く。


ノアも、嬉しそうに光を弾ませる。


「はい」


リオはみんなの顔を見た。


異論は、なかった。

いや、違う。

ただ納得しているというより、それぞれがちゃんとこの名の中に“これから”を見ている顔だった。


リオは小さく息を吸う。


「じゃあ」


「今日から、俺たちは――」


ヴァルが先に笑いながら言った。


「オルビス・ノヴァ、だな」


その声に、リュメリアもふっと笑う。

ノアは光を弾ませ、

ラルラゴは静かに目を閉じた。


王都の喧騒は相変わらず続いている。

焼き串の香りも、果実酒の甘い匂いも、貧しい路地の冷たい空気も、すべてそのままだ。


けれど、その中で確かにひとつ、新しい名が生まれた。


消された伝説の続きではなく。

これから誰かと共に歩くための、新しい巡りの名が。


オルビス・ノヴァ。


その名は、王都のざわめきの中へ静かに溶けながら、

確かに彼らの新しい始まりになった。

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