王都を歩く、名を変える前に
ギルドマスタールームを出る頃には、城の中の空気も少しやわらいでいた。
重く閉ざされていた扉の向こうに、再び広い回廊が伸びている。
高い窓から差し込む光が、白い石床の上に長く落ちていた。
ヴァルが先に歩き出し、肩越しに振り返る。
「ずっと部屋の中ってのも息が詰まるだろう」
「せっかくだ。外を見に行こうじゃないか」
リュメリアも静かに頷いた。
「ええ。今の王都を見ておくのは悪くないわ」
ラルラゴは何も言わず歩き出す。
ノアはいつものようにリオの肩に寄り添い、小さくやわらかな光を揺らしていた。
リオは廊下の先を見つめ、それから静かに頷く。
「そうだね」
「俺も、この国の今を見ておきたい」
城を出ると、王都の空気が一気に押し寄せた。
人々の声。
行き交う荷車の軋み。
遠くで響く金属音。
焼きたてのパンの香りと、土と石の匂い。
リオは足を止めずに、そのすべてを目で受け取っていく。
王都は活気に満ちていた。
だが、それは表側だけを見ればの話だった。
城に近い通りは整えられている。
商店は並び、人々の服にも色がある。
子どもたちが走り、商人たちが声を張り、衛兵たちが道の脇を見回っている。
けれど、少しずつ奥へ、少しずつ外れへ進むにつれ、その景色は変わっていった。
石畳は割れ、壁は剥がれ、道端に座り込む者の姿が増える。
建物と呼ぶにはあまりにも心許ない板張りの小屋。
痩せた犬。
伏せた目。
疲れ切った顔。
そして、まだ幼い子どもが、空の器を抱えたまま黙って座っていた。
リオの歩みが、ほんのわずかに鈍る。
その視線の先を、ノアも見た。
「……リオ様」
リオはすぐには答えなかった。
ただ、その景色から目を逸らさなかった。
華やかな王都の中に、こんなにもはっきりと切り分けられた場所がある。
生きているだけで精一杯の人々が、確かにここにいる。
やがて、リオが静かに言う。
「あるんだな」
ヴァルが隣に並ぶ。
「何がだ?」
「こういう場所が」
リオの声は穏やかだった。
「どれだけ時が流れても、なくならないものなんだね」
リュメリアが少しだけ目を伏せる。
「国があっても、秩序があっても、全部が均等に救われるわけじゃないから」
ラルラゴは短く言った。
「それが現実だ」
リオはしばらく何も言わない。
目の前を、小さな子どもが一人、裸足で駆けていく。
その後ろ姿を見送りながら、胸の奥に鈍い痛みが沈んでいくのを感じていた。
悲しい。
その一言では足りないほど、静かなやるせなさだった。
しばらく歩いたあと、リオがふと顔を上げた。
「……そういえば」
ヴァルが横目で見る。
「今度は何だ」
「ひとつ、気になっていたことがあるんだ」
その言葉に、リュメリアがわずかに首を傾げる。
「聞くわ」
リオは歩きながら、前を見たまま口を開いた。
「アストラ・エクリプスっていうSSSギルドの名前、思ったより浸透していないんだね」
ヴァルの足がほんの少しだけ緩む。
リオは続けた。
「城の騎士団の人たちも、みんなの姿を見ても特別な反応をしていなかった」
「もっとこう……伝説を見るみたいな空気になるのかと思っていたよ」
リュメリアとヴァルが一瞬だけ視線を交わす。
それに答えたのは、ラルラゴだった。
「理由はある」
リオが視線を向ける。
ラルラゴは変わらぬ低い声で続けた。
「我々は、SSSというランクに固執していなかった」
「……固執していなかった?」
「興味もなかった」
ラルラゴは淡々と言う。
「強さの証明として使うつもりもなければ、誇示するつもりもなかった」
ヴァルが肩をすくめる。
「実際、あってもなくても大差なかったからな」
「俺たちは好きに動いて、好きに戦って、好きに生きていただけだ」
リュメリアが静かに補足した。
「けれど、その“好きにやっていた”結果が問題になったのよ」
リオが目を細める。
「問題?」
「私たちの存在が、冒険者全体の基準を引き上げすぎたの」
リュメリアの声は静かだった。
「SSSというランクが、本来の到達点ではなく、“私たち基準の異常な到達点”として扱われ始めた」
ヴァルが苦笑する。
「要するに、こっちとしては普通にやってただけなんだが」
「周りからすると、“SSSならこのくらいできるだろ”の基準が壊れちまったわけだ」
「そのせいで」
ラルラゴが言う。
「冒険者たちの評価にも、ランクアップにも、悪影響が出始めた」
リオは静かに聞いていた。
「……つまり」
「SSSという言葉そのものが、普通の基準ではなくなってしまったということか」
「そういうこと」
リュメリアが頷く。
「届くはずの者まで届かなくなる。測れるはずの者まで測れなくなる。そんな歪みが出たの」
ノアがやさしく光りながら続ける。
「だから、王から直々にお願いがあったのです」
「私たちの名と、SSSという存在そのものを、記録の表から消してほしい、と」
リオはわずかに息を止めた。
「王が……直接?」
「ええ」
リュメリアが答える。
「王個人の都合ではなく、この大陸の均衡のためにね」
ヴァルが笑う。
「もっとも、俺たちは本当に興味がなかった」
「名誉だの伝説だの、そういうものにしがみつく気もなかったしな」
「だから承諾した」
ラルラゴが短く言う。
「その結果」
リュメリアが周囲の町並みに視線を向ける。
「今では私たちを見ても、気づく者は少ない」
「知っているのは?」
リオが問う。
ヴァルが答えた。
「この大陸と、この王国周辺の国々、その上に立つ者たちだけだ」
「王、王族、国の中枢、ごく一部の最上位層。だいたいそのあたりだな」
リオは静かに頷いた。
「なるほど……」
その一言には、納得もあったが、少しだけ寂しさも混じっていた。
自分たちが積み上げてきたものを、自分たちの意思で消した。
それは誇りがないからではなく、誇りに執着しなかったからできたことなのだろう。
リオはしばらく黙って歩く。
町の喧騒の中、風だけが少しやわらかく吹き抜けた。
それから、ふっと口を開く。
「……でも」
ヴァルが振り向く。
「でも?」
リオは前を向いたまま、小さく笑った。
「これから、俺たちはまた長い時間を一緒に過ごすことになるんだろう」
誰も遮らない。
リオは静かに続ける。
「本来なら、この世界にはいないはずだった俺が、こうして戻ってきた」
「なら、ひとつの区切りとして考えてもいいのかもしれない」
リュメリアが目を細めた。
「区切り?」
「うん」
リオは頷く。
「心機一転、というやつだね」
ヴァルの口元がゆっくり上がる。
「……まさか」
リオはようやくみんなの方を見た。
その表情は穏やかで、けれどどこか新しい風を含んでいた。
「ギルドの名前、変えてみないか」
一瞬。
本当に一瞬だけ、全員の足が止まった。
町の喧騒が、遠くに引いたように感じられる。
ヴァルが先に笑った。
「はは……」
「なるほど。そう来たか」
リュメリアも驚いたように目を瞬かせる。
「あなた、本当にそういうところがリオね」
「変かな」
リオが穏やかに聞く。
「変ではない」
ラルラゴが即答した。
その答えの早さに、ヴァルが横で笑う。
「おい、少しは考えたふりをしろ」
「必要ない」
ラルラゴは短く返す。
「悪くない提案だ」
ノアが嬉しそうに光を弾ませた。
「素敵だと思います」
「新しい時代に、新しい名を」
「とても、リオ様らしいです」
リオは少し照れたように笑う。
「まだ思いつきだよ」
「思いつきでそんな大事な話を出すのが、お前らしいんだ」
ヴァルが楽しそうに言う。
「だが、嫌いじゃない」
リュメリアは少しだけ遠くを見るように目を細めた。
「アストラ・エクリプスという名は、たしかに私たちの歴史そのものだわ」
「でも、今の私たちは“その続き”でもあり、“その先”でもある」
リオが静かに頷く。
「そう」
「消えた名を取り戻すんじゃなくて、その先に進むための名前があってもいいと思ったんだ」
その言葉に、風がまたひとつ通り抜けた。
遠くで、誰かの笑い声が響く。
道端では、小さな子どもがパン屑を大事そうに抱えて歩いていた。
リオはその姿を見てから、ゆっくりと言う。
「どうせなら」
「これからの俺たちの名前は、過去を飾るためじゃなくて」
「これから出会う人たちのために使えるものがいい」
ヴァルが笑みを深くする。
「いいじゃないか」
リュメリアも頷いた。
「ええ、面白くなってきた」
ラルラゴは短く言う。
「考える価値はある」
ノアは静かに、けれど確かな喜びを滲ませた。
「はい」
王都のざわめきの中で。
過去を消した者たちが、今度は未来の名を考え始める。
それは小さな会話だった。
けれどその瞬間、アストラ・エクリプスという長い歴史の先に、確かに新しい頁がめくられた。




