穣天使(じょうてんし)・慈犁種(じりしゅ)
ギルドマスタールームの空気が、わずかに揺れた。
小さな魔虫の姿で浮かんでいたノアが、静かに前へ出る。
ヴァルが酒瓶を揺らしながら、にやりと笑う。
「リオ。」
リオが目を向ける。
「……なんだ。」
ヴァルは窓の外を顎で示した。
「見ていなさい。」
リュメリアも腕を組んだまま言う。
「瞬きしないことね。」
リオが眉をひそめる。
「何が起きる。」
ヴァルが笑う。
「起きるんじゃない。」
「終わるんだ。」
リオはまだ理解できない顔をしていた。
「……何を言ってる。」
サイラスが小さく息を呑む。
「その言い方……」
ゼルクも窓の方へ視線を向ける。
「一瞬で終わる、ということか。」
ヴァルが楽しそうに答える。
「そういうことだ。」
ノアは、ゆっくりと部屋の中央へ浮かぶ。
小さな光の粒が、静かに揺れる。
だが、その光の奥にあるものは、さっきまでとはまるで違っていた。
ノアが静かに言う。
「形態移行。」
一拍。
「《慈犁種》」
その瞬間。
部屋の光が変わった。
小さな魔虫の輪郭が、白金の火花になって弾ける。
羽が伸びる。
光が何層にも重なり、細い体が一気に組み変わる。
輪が生まれる。
翼が増える。
光の色が深くなる。
白金だったそれが、青白く、さらにその奥に淡い紫を帯びていく。
四天槍の1人が思わず椅子から腰を浮かせた。
「……っ!」
「また変わるのか!?」
サイラスが目を見開く。
「これで、まだ途中なのか……!」
ゼルクの額に汗がにじむ。
「圧が……増している。」
ノアの姿は、穣天使からさらに変質していた。
神々しい。
だが優しいだけではない。
そこには、刃のような静けさがあった。
翼の先端が細く鋭く変形し、背後に浮かぶ光輪は幾重にも重なり、まるで処刑具のような美しさを帯びている。
ラルラゴが、その姿を見て珍しく口を開いた。
「……ふ。」
部屋の全員が、思わずそちらを見る。
ラルラゴは腕を組んだまま、わずかに呆れたように言った。
「リオに、いい格好を見せたいのだな。」
リオが目を瞬かせる。
「……え?」
ラルラゴは続ける。
「あいつ。」
「気合いを入れすぎだ。」
リュメリアが吹き出した。
「やっぱりそう見える?」
ヴァルが腹を抱えて笑う。
「ははっ!」
「ノア、お前分かりやすすぎるぞ!」
ノアは一瞬だけ、ほんの少しだけ光を揺らした。
照れたのか、反応したのか分からない。
だが、その直後。
さらに巨大化した。
部屋の天井近くまで一気に膨れ上がり、翼が空間を埋める。
色も変わる。
白金。
青。
薄紫。
そして中心には、目が痛くなるほど鋭い純白。
リオは息を呑んだ。
「……ノア。」
その声には、驚きが混じっていた。
ずっと肩にいた、小さな家族。
その本当の力を、今初めて見ている。
ノアは振り向かない。
だが、その声だけはどこまでも柔らかかった。
「リオ様。」
「ご覧ください。」
次の瞬間。
ノアの姿が消えた。
ドンッ!!!
遅れて衝撃だけが残る。
窓が鳴る。
空気が震える。
サイラスが椅子を掴む。
「う、上だ!」
全員が窓の外を見た。
ノアは、もう王都の遥か上空にいた。
あまりにも速い。
目で追えない。
ただ、空に一本の光の線だけが残っている。
さらに上へ。
さらに高く。
雲を突き抜ける。
そして。
ノアが止まった。
世界の頂点に立つような高さで。
翼を広げる。
空が裂けるように開く。
リオが小さく呟く。
「……何をする気だ。」
ヴァルが笑う。
「だから言っただろ。」
「見ていなさい。」
リュメリアが静かに言う。
「瞬きしないで。」
ラルラゴは腕を組んだまま、窓の外を見ていた。
その目には、わずかな愉快さすらあった。
次の瞬間。
ノアが翼を閉じた。
その、一瞬後。
世界が光った。
――――。
音より先に、光が来た。
空。
地。
王都の壁。
遠くの平野。
さらにその向こうの外縁。
すべてが、真っ白になる。
白。
白。
白。
世界そのものが、光に呑まれた。
ほんの一瞬だけ。
だが、その一瞬で十分だった。
四天槍の1人が思わず目を覆う。
「うあっ……!」
サイラスが歯を食いしばる。
「な、何だこれは……!」
ゼルクも目を細め、窓辺を掴む。
「……見えない!」
リオも、思わず腕で目元をかばった。
ただの光じゃない。
圧がある。
浄化にも似た、だがそれ以上の何か。
世界そのものが、一度だけ“消毒”されたような、圧倒的な白。
そして。
光が引いていく。
少しずつ。
少しずつ。
視界が戻る。
輪郭が戻る。
空の青。
王都の壁。
外縁の平野。
その時だった。
四天槍の女剣士が、かすれた声を漏らす。
「……いない。」
サイラスが窓に手をつく。
「……全部。」
ゼルクの目が見開かれる。
「消えている……」
王都を包囲していたはずの魔獣の群れ。
空を埋めていた飛行型。
地を這っていた群れ。
外縁を埋め尽くしていた黒い波。
そのすべてが。
綺麗に。
跡形もなく。
消えていた。
リオは言葉を失う。
「……。」
ヴァルが酒瓶を揺らしながら笑う。
「終わったな。」
リュメリアも、小さく息を吐く。
「ほんと、一瞬。」
ラルラゴが静かに言う。
「気合いを入れすぎだ。」
その言葉に、空の高みから一筋の光が落ちてくる。
ノアだ。
部屋の前まで戻る頃には、すでに姿は穣天使から小さく縮まり、いつもの魔虫の形へ戻っていた。
ふわり。
何事もなかったように、リオの肩へ降りる。
部屋の中は静まり返っている。
誰も言葉を発せない。
ノアが、いつも通りの柔らかな声で言った。
「終わりました。」
沈黙。
リオはしばらく何も言えなかった。
そしてようやく、小さく呟く。
「……今の。」
「お前、いつも肩にいたやつだよな?」
ヴァルが吹き出す。
「ははっ!」
「その確認、今するのか!」
リュメリアも笑いをこらえる。
「分かるけどね、その気持ち。」
ノアは少しだけ光を揺らした。
「はい。」
「いつもの、わたくしです。」
サイラスが椅子にもたれたまま、呆然と言う。
「……あれで、いつもの。」
ゼルクが低く笑った。
「なるほど。」
「国家が余裕を見せるわけだ。」
四天槍の大男は、まだ青ざめたままだった。
「俺たちが死ぬ覚悟を決めていた外の脅威が……」
「今の一瞬で……」
ラルラゴは、もう興味を失ったように窓から目を外した。
「片付いた。」
「話の続きをするぞ。」
その一言で、また部屋の空気が変わる。
国家危機レベルの災害は、もう“済んだ話”として切り捨てられた。
リオは肩の上のノアを見る。
小さい。
可愛い。
いつもの光。
だが、その奥にあるものを今、はっきり知った。
リオはそっと指先でノアに触れた。
「……すごいな、お前。」
ノアは、嬉しそうに頬を赤らめながら光った。
「ありがとうございます…リオ様」
ヴァルがにやりと笑う。
「だから言ったろ。」
「見ていなさい、ってな。」




