手合わせ
城門前の広場。
風がゆっくり吹いていた。
だが、リオとラルラゴのあいだだけは、風すら踏み込めないような重さがあった。
ほんの数歩。
それだけの距離なのに、誰も軽々しく近づけない。
ヴァルが酒瓶を揺らしながら、口元だけで笑う。
「いい顔になったな、リオ。」
「前より、ずっと静かだ。」
リオは視線を逸らさずに答えた。
「そっちも変わらないな。」
ヴァルは肩をすくめる。
「そりゃどうも。」
「変わらん方が都合がいい時もある。」
リュメリアが呆れたように言う。
「この人、ほんとに昔からこんな感じなのよ。」
「世界がどうなってても、自分の酒の味の方が大事。」
ヴァルは笑う。
「違いが分かる男と言ってほしいな。」
ノアは穣天使の姿のまま、リオの少し後ろに静かに浮かんでいた。
白金の羽が、ゆっくりと揺れている。
神々しい姿なのに、その視線だけはどこまでも優しかった。
その時だった。
ラルラゴが、低く口を開く。
「兵士ども。」
広場の端で立ち尽くしていた一般兵たちが、びくりと肩を震わせた。
ラルラゴの声は大きくない。
だが、地面の下から響いてくるような重さがあった。
「ここから去れ。」
沈黙。
兵士たちは誰も動けない。
ラルラゴは続ける。
「命が惜しいのならな。」
その一言で、空気が凍った。
次の瞬間。
兵士たちは一斉に後ずさる。
「た、退避だ!」
「全員下がれ!」
「急げ!!」
鎧の音が乱れ、石畳を鳴らしながら、彼らは一目散に逃げていく。
だが。
全員が逃げたわけではなかった。
広場の少し離れた場所に、なお立ったままの一団がいる。
この国の最上位騎士たち。
天槍騎士団・四天槍。
さらにその横に、黒銀の外套をまとった2人。
隣国から訪れていた
絶騎士団の団長ゼルク・アーヴェン
そして、その幹部
サイラス。
ヴァルがちらりと視線を流す。
「ほう。」
「まだ残るのがいるか。」
四天槍の1人、銀髪の女剣士がまっすぐ答える。
「ここで目を逸らしたなら。」
「私たちは、もう騎士を名乗れません。」
もう1人、長槍を持った大男も低く頷く。
「逃げる理由は分かる。」
「だが、それ以上に。」
目の前の2人を見る。
「見届ける理由がある。」
絶騎士団の団長ゼルクが、ゆっくり一歩前に出た。
鋭い目の男だった。
「……俺たちは。」
「この手合わせを見届ける必要がある。」
サイラスが小さく息を吐く。
「団長。」
「正気ですか。」
「冗談抜きで、余波だけで死にますよ。」
ゼルクは目を離さない。
「だから見るんだ。」
「この先、世界の強さの基準が変わるかもしれん。」
リュメリアが小さく笑った。
「へえ。」
「隣国の騎士にしては、ずいぶん鼻が利くじゃない。」
ゼルクは答えない。
ただ、ラルラゴとリオだけを見ていた。
その時。
ノアが静かに前へ出た。
穣天使の翼が、ゆるやかに広がる。
白金の光が広場を包んだ。
ゼルクが目を細める。
「……結界か。」
ノアは優しく言う。
「このままでは。」
「あなたたちは、余波だけで死にます。」
四天槍の1人が息を呑んだ。
「余波だけで……?」
ノアは頷く。
そして両手を重ねた。
白金の輪がいくつも浮かぶ。
空中に幾重もの紋様が広がっていく。
「異結界、展開。」
その声と同時に。
広場の外周に、透明な壁のようなものが立ち上がった。
1枚ではない。
重なる。
さらに重なる。
風の音が変わる。
空気の圧そのものが変わる。
サイラスが呟く。
「……とんでもないな。」
四天槍の女剣士も目を見開く。
「こんな精密な多重結界、見たことがない……」
リュメリアが横で笑う。
「優しいでしょ、この子。」
ノアは少しだけ振り返った。
その横顔には、穣天使としての静かな威厳があった。
「守ります。」
「ですが。」
少しだけ声が低くなる。
「結界の外には出ないでください。」
ゼルクが頷く。
「了解した。」
ノアは再び前を向く。
そして、リオの方を見た。
その視線はどこまでも柔らかい。
リオは小さく笑う。
「助かる。」
ノアがふわりと光る。
「ずっと、見ています。」
その一言に、ヴァルが小さく鼻を鳴らした。
「さて。」
酒瓶を軽く揺らす。
「舞台は整ったな。」
リュメリアも腕を組む。
「ほんとにただの手合わせなのよね?」
ラルラゴは答える。
「そうだ。」
短い一言。
だが、その圧だけで石畳がきしんだ。
リオは剣を持ち直す。
「本当に?」
ラルラゴを見る。
「殺す気はないのか。」
ラルラゴの目が、わずかに細くなる。
「ない。」
「だが。」
少し間を置く。
「加減もしない。」
ヴァルが楽しそうに笑う。
「それを“ただの手合わせ”と言い張るか。」
リュメリアが肩をすくめる。
「ラルラゴ基準では普通なんでしょ。」
ゼルクが、その会話を聞きながら低く呟く。
「化け物同士だな……」
サイラスが苦い顔をする。
「団長。」
「本当にここに残るんですか。」
ゼルクは静かに答える。
「残る。」
「この一瞬を見逃したら、一生後悔する。」
四天槍の大男も頷いた。
「同感だ。」
「騎士として、見届けなければならん。」
広場の中心。
リオが、ゆっくり剣を構える。
呼吸は静か。
だが、その静けさがかえって恐ろしい。
ラルラゴはまだ何も持たない。
ただ立っているだけ。
それだけなのに、周囲の空気がわずかに沈んで見えた。
リオが低く言う。
「剣は抜かないのか。」
ラルラゴが答える。
「まずは。」
「お前から来い。」
沈黙。
風が止む。
誰も喋らない。
ノアの結界の内側だけが、異様な静けさに包まれていた。
リオは目を閉じる。
1度だけ、深く息を吸う。
そして、目を開く。
その瞳には、もう迷いがない。
「……じゃあ。」
「行くぞ、ラルラゴ。」
ラルラゴの口元が、ほんのわずかに動く。
「ああ。」
その瞬間。
リオの姿が消えた。
四天槍の1人が叫ぶ。
「消え――」
言い終わる前に。
広場の中央で、空気が裂けた。




