穣天使の飛翔
城壁都市は、夕暮れの光に染まっていた。
草原の向こうに見えていたあの街は、近づいてみると想像以上に大きかった。
高い石壁。
その内側に立ち並ぶ尖塔。
中央には、まるで城のような巨大な建造物が見える。
風に揺れる旗。
鐘の音。
人の気配。
リオは街を見上げたまま、小さく息を吐いた。
「……夢の中とは思えないな。」
ノアが肩の上で、ぴこっと光る。
リオは少し笑った。
「お前もそう思うか?」
ノアはふわふわと浮き上がり、リオの顔の前を一周した。
どこか落ち着かない。
いつもより光り方が強い。
リオは眉をひそめる。
「どうした?」
ノアは返事の代わりに、ふっと距離を取った。
肩から離れ、胸の前で止まる。
そして。
小さく震えた。
「……ノア?」
その次の瞬間だった。
ノアの光が、すうっと細く伸びた。
まるで糸がほどけるように。
淡い光の粒が空中で集まり、形を変えていく。
リオの目が見開かれる。
「……は?」
小さな光だったはずのノアが、みるみる輪郭を持つ。
羽音。
光の膜。
そこに現れたのは――
魔虫。
細く、鋭く、美しい。
ただの虫ではない。
羽の一枚一枚に文様が刻まれ、淡い光を放っている。
それは、どこか神聖でありながら、異形でもあった。
リオが呆然と呟く。
「……魔虫?」
ノアは空中で一瞬だけ静止した。
リオを見た。
その小さな姿のまま、何かを確かめるように。
そして次の瞬間。
一気に飛び上がった。
「お、おい!」
リオが思わず手を伸ばす。
だがノアは止まらない。
まっすぐ上へ。
風を切って。
雲へ向かって。
その速度は、今まで肩に乗っていた小さな存在のものではなかった。
「あいつ……!」
リオは目を細めて空を見上げる。
ノアの姿はあっという間に小さくなっていく。
やがて。
空の高い場所で。
弾けた。
眩い光が広がる。
白金色の閃光。
一瞬、空そのものが割れたかのように見えた。
リオは息を呑む。
「……っ。」
その光の中で。
ノアの姿が変わる。
魔虫の輪郭が溶ける。
羽が広がる。
腕が生まれる。
脚が伸びる。
そして――
穣天使。
かつての本来の姿。
巨大で、神々しく、圧倒的に美しい。
空の高みに現れたその存在は、都市全体を見下ろせるほど大きかった。
白い翼が幾重にも広がる。
黄金の輪が背後に浮かび、空気が震える。
その姿を見た瞬間、リオはただ立ち尽くすことしかできなかった。
「……ノア。」
声にならない。
穣天使となったノアは、一瞬だけこちらを見た。
それだけで十分だった。
リオにはわかった。
あれは、間違いなくノアだ。
だが次の瞬間。
穣天使の姿は再び光に包まれた。
一瞬。
本当に一瞬。
そして。
消えた。
いや。
消えたのではない。
とんでもない速度で、街の中央――城の方角へ飛んだのだ。
ドンッ、と遅れて空気が鳴る。
雲が裂ける。
街の上空へ一直線。
リオは小さく笑った。
「……なるほどな。」
ノアが何をしに行ったのか。
リオは剣を肩に担ぎ、ゆっくり歩き出す。
「あいつらに知らせに行ったんだろうな。」
風が草原を揺らす。
リオは空を見上げる。
もうノアの姿は見えない。
「ノア・・どこへ行ったんだ。」
風が吹く。
城門が近づいてくる。
その先で、何かが始まる気がした。
その頃。
城の最上階。
重い扉に閉ざされた円卓の間。
三つの影があった。
長い髪を揺らし、窓辺に立つ女。
腕を組み、静かに座る巨体の男。
そして、酒瓶を片手に椅子にもたれかかる男。
その窓を。
白金の光が切り裂いた。
三人の視線が一斉に向く。
窓の前に降り立ったのは――
穣天使。
女が目を見開く。
「……ノア?」
酒瓶を持った男が、口元をわずかに上げる。
「ほう。」
巨体の男だけは、黙ったままだった。
ノアは息を整えることもなく、まっすぐ告げた。
「……見つけました。」
空気が止まる。
「リオを。」
沈黙。
最初に口を開いたのは、酒瓶を持つ男だった。
「……は?」
女も眉をひそめる。
「何を言ってるの?」
ノアは繰り返す。
「リオです。」
「確かに、この目で見ました。」
巨体の男が、低い声で言う。
「……ありえん。」
女が一歩前に出る。
「待って。」
「おかしいでしょ。」
「リオが消えてから、まだ五年よ?」
酒瓶の男も笑みを消す。
「そうだ。」
「五年だ。」
「五年で、どうしてあいつがここに来る。」
ノアは静かに答える。
「分かりません。」
「でも、見間違いではありません。」
女が言う。
「姿は?」
「本当にリオだったの?」
ノアは迷わず頷く。
「はい。」
「剣も。」
「気配も。」
「目も。」
「間違いなく、リオでした。」
巨体の男がゆっくり目を開く。
その声は静かだった。
「……夢記録か。」
ノアがそちらを見る。
女の眉が動く。
「まさか。」
酒瓶の男が低く笑う。
「なるほどな。」
「そういうことか。」
だが女はまだ納得しない。
「待ってよ。」
「それでも早すぎる。」
「五年よ?」
「いくら夢記録でも――」
そこでノアが、静かに言った。
「彼は。」
「もう、昔のリオではありません。」
沈黙。
「どういう意味だ。」
ノアはゆっくり答える。
「話し方も。」
「立ち方も。」
「剣を持つ姿も。」
「まるで、長い年月を生きた後のようでした。」
女の目が見開かれる。
酒瓶の男が呟く。
「……時間が、噛み合っていない。」
巨体の男だけが、静かに立ち上がった。
「案内しろ。」
ノアが頷く。
女がまだ言う。
「本当にリオなら……」
少し息を呑む。
「どうして今なの。」
巨体の男は短く答えた。
「行けば分かる。」




