空の副翼
その言葉が落ちた瞬間だった。
セラフィス=ルーガの周囲で、空の層が一気に反転した。
上にあったものが下へ落ちる。
下にあったものが横へ裂ける。
ただ風が荒れたのではない。
空間そのものの上下左右が狂わされたのだ。
「――っ!」
リオの足元の感覚が消える。
立っているはずの地面が、一瞬だけ地面ではなくなる。
身体が浮く。
だが次の瞬間には、真横へ叩き落とされるような圧が来る。
「ちっ……!」
リオはとっさに圧真を足元へ流した。
踏みしめるのではない。
“自分のいる一点だけ”に重さを押し戻す。
岩肌が砕ける。
靴底の下で石が悲鳴を上げる。
それでも、崖の縁へずらされかけた身体がぎりぎりで止まった。
セラフィスの声が、上から降る。
「見えているだけでは足りぬ」
「空は、読むものではない」
「支配するものだ」
「うるさいな……!」
リオが顔を上げる。
セラフィスは、もう先ほどの位置にはいなかった。
左にいる。
そう見えた次の瞬間には右にいる。
上空に浮いた白銀の影が三つに増え、四つにずれ、また一つになる。
全部本物ではない。
でも、全部偽物とも言い切れない。
「面倒くせえだろ?」
と、ザルクスが笑う。
「だから俺は空野郎ども嫌いなんだよ」
「笑ってる場合かよ!」
「笑ってる方が見える時もある」
「意味わかんねえよ!」
だが、その雑な助言が、ほんの少しだけリオの呼吸を戻した。
見ろ。
追うな。
位置じゃなく、噛み合いのズレを見ろ。
圧戰は、空気の層を切り抜く術。
だったら、風の流れではなく、流れが噛み合っていない場所を捉えればいい。
リオは、目を細めた。
三つに見える影。
そのうち二つは、風が滑らかすぎる。
空に馴染みすぎている。
一つだけが違う。
ほんのわずかに、風の層へ“乗っている”。
空を支配しているのではなく、空へ足を掛けている違和感がある。
「あそこか」
右手を上げる。
圧戰。
だが、今度は切るだけじゃ足りない。
相手はもう、こちらの父側を読んでいる。
なら――
セラフィスが、その挙動を見て翼を払った。
一挙に風が来る。
無数の風刃。
一枚一枚が、首を刎ねるための薄い処刑刃みたいな精度を持っている。
リオは避けない。
「また、あれか」
セラフィスの声に、明確な警戒が混じる。
「そうだよ」
リオは低く言った。
「今の俺には、これが一番しっくりくる」
両手ではない。
今度は左手だけを軽く開く。
父側の圧を、あえて前には出さない。
母側の定めを、あえて形にはしない。
二つを“術”として組み立てる前の、さらに手前。
ぶつかり合う直前の、不安定な混同だけを相手の風層へ差し込む。
「――廃・中和式」
空の刃が、リオの目の前で一斉に鈍る。
消えない。
弾かれもしない。
ただ、“刃であること”が弱まる。
風刃の輪郭がぼやけ、何枚かが途中で崩れ、何枚かがただの突風へ変質する。
セラフィスの瞳が揺れる。
「また……!」
その一瞬の揺れを、リオは見逃さなかった。
右手。
圧戰。
今度は二本。
交差するように振るう。
見えない刃が、セラフィスの左右の翼端をかすめた。
裂ける。
だが、深くはない。
それでも十分だった。
セラフィスは完全に距離を取る。
上へ逃げる。
だが、その逃げ方に、さっきまでの余裕はない。
高みに戻ったセラフィスは、しばらく黙ってリオを見下ろしていた。
やがて、静かに言った。
「……認めよう」
ザルクスが眉を上げる。
「お、珍しい」
「認めるの早くね?」
「黙れ」
セラフィスは、もう一度リオを見る。
「今の貴様を、侮った」
「入口は越えたな、リオ」
リオは息を整えながら笑う。
「勝ちでいいのか?」
「完全な勝ちではない」
セラフィスは答える。
「だが、ここでこれ以上続ければ、我にも損が出る」
ザルクスが吹き出す。
「十分だろ」
「空野郎がそこまで言うなら」
セラフィスは無視した。
「その術は」
「空も、地も、快く思わぬ」
「だが、最も恐れるのは――上だ」
その一言を残し、セラフィスの周囲へ風が集まる。
今度のそれは逃走のための層だ。
リオにも分かる。
「また来る」
セラフィスは言った。
「次は、入口では済まさぬ」
「いいよ」
と、リオ。
「次は、こっちももっと戻してる」
セラフィスの口元が、ほんのわずかに動く。
「ならば楽しみにしていよう」
次の瞬間、空の副翼は風へ溶けた。
白銀の羽根だけを数枚残して、雲の向こうへ消える。
静寂。
上へ流れていた風が、少しずつ地上のものへ戻っていく。
リオは、その場で長く息を吐いた。
「……勝った、か」
「勝ったな」
ザルクスが横へ並ぶ。
「完全じゃねえけど、向こうが引いた時点でお前の勝ちだ」
リオは、しばらく空を見ていた。
圧真。
圧戰。
絶彗呪結。
廃・中和式。
堕使。
父でも母でもない。
でも、父と母を持ってしまった自分だからこそ出せる術。
「……やっと、か」
「ん?」
と、ザルクス。
「ちょっとだけ」
リオは自分の手を見た。
「自分の戦い方に近づいた気がする」
ザルクスは、それを聞いて少しだけ懐かしそうに笑った。
「そうだ」
「やっと、お前本人が戻ってきた」
⸻
帰還は、思ったより静かだった。
第一区へ戻った頃には夜も深く、中央広場の喧騒は少し引いていた。
だが、残っていた者たちの視線が、二人を見つけた瞬間に止まる。
ゼルク。
サイラス。
ヴァイス。
ミア。
ノア。
それぞれの目に、違う種類の変化があった。
“強い人を見る目”ではない。
もう少し、重い。
「この人は、ここからさらに離れていくのかもしれない」
そんな予感を含んだ目だった。
リオはそれに気づいて、少しだけ居心地が悪くなる。
「……なんか見られてる」
「そりゃそうだろ」
と、ザルクス。
「空の副翼とやり合って帰ってきたんだぞ」
「しかも勝って」
「勝ち切ってはない」
「そういうところも含めて、お前っぽい」
ノアが、一歩前へ出て一礼する。
「お帰りなさいませ、リオ様」
その声は、いつもと同じなのに、ほんの少しだけ深かった。
リオは小さく頷く。
「ただいま」
ヴァイスは静かに膝を折る。
ミアは少しだけ目を赤くして、でもちゃんと笑った。
ゼルクは何も言わず、ただ一度だけ深く頷いた。
以前の“見極める目”じゃない。
認めた者の目だ。
ザルクスが、その空気ごと楽しそうに見渡す。
「ほらな」
「また変わっただろ」
「なにが」
「みんなのお前を見る目」
リオは、それにすぐ返せなかった。
自分が変わったから、周りの目も変わる。
当たり前のことなのに、少しだけ遠くへ来た気がした。
その夜、空の入口を越えたリオは、確かに一段、別の場所へ足をかけていた。




