廃・中和式
裂けた空の層の向こうで、雲が真っ二つに割れたまま、しばらく閉じなかった。
光が一本、落ちている。
風はまだ暴れている。
でも、その中心でリオだけは、不思議なくらい静かだった。
セラフィス=ルーガの目が、細くなる。
「入口を……一度で」
「だから言っただろ」
ザルクスが笑う。
「見どころあるって」
「見どころ、だと」
セラフィスの声が低くなる。
「その者は、ただの同行者ではないな」
ザルクスが、ここでわざとらしく肩をすくめた。
「あ、言ってなかったか」
リオが横目で嫌な予感を覚える。
ザルクスはにやりと笑った。
「仲間って言ったけど、ちなみに」
「うちのリーダーな」
沈黙。
空の風が、ほんの一拍だけ遅れた。
セラフィスの瞳が、はっきりと揺れる。
「……何」
「何って?」
ザルクスは楽しそうだった。
「言葉通りだよ」
セラフィスは、今度こそ真正面からリオを見る。
その視線の温度が変わった。
ただの若造。
ただの新顔。
ただのザルクスの連れ。
その見方が、今ここで音を立てて崩れたのが分かる。
「ラルラゴを、超える者か」
その問いは低かった。
だが、その中にはただの驚きではなく、警戒と、理解したくない納得が混ざっていた。
ザルクスが笑う。
「そりゃ、リーダーだもんな」
リオが眉を寄せる。
「お前さ」
「なんでそういう言い方で火に油注ぐの」
「面白いから」
「最悪だな」
セラフィスの翼が、そこでさらに開く。
風が変わる。
今度は“流れ”ではない。
圧縮だ。
上から落ちる風。
横から押し込む風。
足元を払う風。
それが一つ一つ別の意思を持っているみたいに、リオへ殺到する。
「っ!」
リオの髪が浮く。
視界の端が軋む。
空の入口の試しではない。
セラフィスは本気を出し始めていた。
「ならば」
「見せてもらおう」
その声が響くと同時に、空の層が三重に折れた。
上。
右。
正面。
違う位置から、違う速度で、違う風圧が来る。
しかも見えている軌道と、本当に通る軌道が一致していない。
リオは反射で圧戰を振るった。
一本。
裂く。
上の風層が切れる。
二本目。
横を断つ。
右の圧縮が薄くなる。
三本目――
「……っ」
遅い。
正面から来た見えない塊が、リオの胸元をかすめた。
ぐらり、と身体が持っていかれる。
後退。
だが、転ばない。
ザルクスが後ろで笑う。
「いいねえ」
「今のでも落ちねえか」
「見てるだけかよ!」
「今はな」
セラフィスは、もう笑っていなかった。
「不完全」
「だが、危うい」
「褒めてるのか?」
と、リオ。
「警戒している」
セラフィスははっきりと言う。
「地の魔神が」
「ラルラゴが」
「その若さの者をリーダーとする理由が、少しだけ見えた」
その言葉に、リオの胸の奥が熱くなる。
でも同時に、違和感もあった。
今の戦いは、圧真でも圧戰でも対応できている。
だが、それだけでは足りない気がする。
空の層を切る。
風を読む。
それは確かに父側に近い。
絶彗呪結を張れば、正面からの災厄は拒める。
それは母側に近い。
でも――
「違う……」
リオの口から、小さく声が漏れる。
ザルクスの目が、少しだけ細くなる。
「ん?」
セラフィスの風が、また一段強くなる。
だが、リオの意識は別のところに触れ始めていた。
父じゃない。
母じゃない。
もっと曖昧で、もっと気味が悪い、でも確かに自分のものだと分かる何か。
相反する二つを、無理やり一つへ通した時にだけ生まれる感覚。
魔と聖。
相殺ではない。
融合でもない。
もっと、捨てるような。
削るような。
混ざりきらないまま、世界の側を狂わせるような――
「……これ」
頭の奥で、知らないはずの術式名が浮かぶ。
リオの瞳がわずかに揺れる。
「……廃」
セラフィスの風が、そこで一瞬だけ乱れた。
ザルクスの口元がゆっくり吊り上がる。
「お」
リオは、右手も左手も上げない。
ただ、目の前の空間へ意識を差し込んだ。
父側の圧。
母側の定め。
その両方を、正しく使わない。
綺麗にも混ぜない。
むしろ、互いを傷つけ合わせるように、一瞬だけ噛み合わせる。
「……中和」
その瞬間。
セラフィスの正面にあった風層が、音もなく腐った。
「――何」
空気の色が変わる。
透明だったはずの風が、わずかに灰色を帯び、そこだけ空の支配から外れたみたいに崩れ落ちる。
リオの喉から、はっきりと言葉が落ちた。
「廃・中和式」
ザルクスが、楽しそうに声を漏らす。
「やっぱり出たか」
セラフィスの表情が、初めて完全に変わる。
「それは……!」
今度はセラフィスの翼の先から放たれた風刃が、リオへ三本飛ぶ。
リオは避けない。
代わりに、その前方へ“廃・中和式”をもう一度差し込む。
風刃が、そこで形を失った。
切れるのではない。
弾かれるのでもない。
ただ、“空の術式として成立できなくなる”。
セラフィスが、明らかに一歩退く。
「馬鹿な」
「魔と聖を、あの形で……」
リオ自身も、息を呑んでいた。
分かる。
これは父の力でも、母の力でもない。
その両方を持ってしまった“自分”だからこそ噛み合う、歪な術だ。
完成された奇跡じゃない。
むしろ、綺麗じゃない。
だからこそ強い。
ザルクスが低く笑う。
「それだよ、リオ」
「それがお前自身の術だ」
リオの頭の奥に、さらに別の言葉が落ちる。
術式名ではない。
もっと現象に近い。
その結果、世界に起こる“形”の名前。
堕使。
その一語と同時に、廃・中和式で崩れた風層の奥から、黒白の羽根のようなものが一瞬だけ生まれた。
天使にも見える。
魔にも見える。
でも、どちらでもない。
落ちる光。
堕ちた使い。
矛盾したまま成立した、異形の一瞬。
セラフィスの顔色が、そこで変わった。
「……堕使、だと」
リオは、自分でもその言葉に息を止めた。
「……知ってるのか?」
セラフィスは答えない。
代わりに、翼を大きく広げた。
風が荒れ狂う。
だがもう、さっきまでの“試し”ではない。
明確な警戒。
いや、畏れに近いものが混ざっている。
ザルクスは、その反応を見てにやりと笑った。
「なるほどな」
「お前ら、そっちは知ってんのか」
「地のガイア……!」
セラフィスの声が低くなる。
「なぜ、それを今ここで」
「今ここで出るのが、おもしれーからだろ」
「貴様……!」
リオは、まだ前を見たまま、小さく息を整えた。
胸が熱い。
頭も少し痛い。
でも、今までのどの力よりも、“自分のもの”に近い。
父の断つ力。
母の定める力。
そのどちらでもない。
そのどちらも持ってしまった、自分だけの術。
「……リオとして、か」
思わず、そう呟いていた。
父の記憶じゃない。
母の面影でもない。
今のこれは、自分が取り戻し始めている**“リオの戦い方”**そのものだ。
ザルクスが、楽しそうに、それでいて少しだけ懐かしそうに笑う。
「そうだ」
「やっと、お前本人が戻ってきた」
空の入口で。
風の層が乱れ。
空の副翼が初めて本気で構える中。
リオは、ようやく“自分自身”の術へ手をかけ始めていた。




