空の入口
風の足場に立つその存在は、しばらく何も言わなかった。
白と銀の翼。
鋭い爪を持つ脚。
人型に近いのに、地上のどの種族とも決定的に噛み合わない輪郭。
その背後では、薄い雲がねじれるように渦を巻いていた。
空そのものが、その一体を中心にして層を組み替えているようにも見える。
リオは、息を浅く整えながら相手を見上げる。
さっきまでの戦いとは、明らかに空気が違った。
重いわけじゃない。
圧迫されるわけでもない。
なのに、少しでも気を抜けば、自分の立ち位置そのものがずらされそうな不安定さがある。
上を取られている。
ただそれだけで、こんなにも感覚が狂うのかと思った。
空の存在が、ようやく口を開く。
「地のガイア」
「その者を、なぜここへ連れてきた」
ザルクスは、面倒くさがるように首を鳴らした。
「言っただろ」
「見せに来た」
「何を」
「こいつが、どこまで届くか」
その答えに、空の存在はわずかに目を細める。
「未熟だ」
「そりゃそうだ」
と、ザルクス。
「でも、未熟なうちから面白い」
リオは横目でザルクスを見る。
「本人の前でそういう言い方する?」
「する」
「だって事実だし」
空の存在の視線が、改めてリオに落ちた。
風がその視線に引かれるように、リオの周囲で向きを変える。
「リオ」
「……何」
「お前は、空をどう見る」
妙な問いだった。
リオは少しだけ眉を寄せる。
「どう、って」
「広いとか」
「高いとか」
「自由だとか」
「地上の者は、だいたいそう言う」
ザルクスが小さく鼻を鳴らす。
「空野郎どもらしい質問だな」
リオは数秒だけ考えた。
それから、正直に答える。
「嫌いじゃない」
「でも、好きって感じでもない」
空の存在の目が、わずかに動く。
リオは続けた。
「綺麗だとは思う」
「でも、いま見えてる空は」
「綺麗っていうより、ちょっと怖い」
沈黙。
次の瞬間、空の存在の口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
でも、人の笑みとは少し違う。
「正直だな」
「嘘つく意味ある?」
と、リオ。
「ない」
空の存在はあっさり言った。
「そして、悪くない答えだ」
ザルクスが肩を揺らす。
「ほらな」
「お前が褒められたわけじゃないだろ」
「俺の見る目が褒められたんだよ」
「うざいなあ」
風が、また一段だけ高く吹いた。
空の存在は、少しだけ高度を落とす。
それでも地には降りない。
風の輪を足場にしたまま、リオとの距離だけを縮める。
「我が名は」
「セラフィス=ルーガ」
「副翼と名乗ったな」
と、ザルクス。
「そうだ」
「じゃあ本隊じゃねえのか」
「貴様ごときに、本隊が出る必要はない」
ザルクスが楽しそうに笑う。
「言うねえ」
「でもお前、俺のこと“ごとき”って言ってる割には、昔から何回も顔見せに来てるよな」
セラフィスの翼の先が、わずかに揺れた。
「観測だ」
「地の魔神が何を企んでいるか」
「そして、何を育てているのかを見るために」
「育ててる、か」
ザルクスがリオを見る。
「ずいぶん気に入られてるじゃねえか」
「嬉しくないな」
セラフィスは、その返しに少しだけ興味を持ったようだった。
「なるほど」
「お前は、まだ自分の値を知らぬか」
「知らないよ」
リオは即答する。
「知ってるなら、もっと楽してる」
ザルクスが吹き出す。
「そりゃそうだ」
セラフィスは、そこで片翼をわずかに広げた。
その瞬間、周囲の風向きが一斉に変わる。
上へ流れていた風が、横へ折れる。
横風が、足元へ沈む。
背後から吹いていた冷気が、今度は前方から頬を裂くように流れてくる。
リオの足が、半歩だけずれた。
「っ」
地面は動いていない。
でも、地面に立っているという感覚だけが薄くなる。
セラフィスが静かに言う。
「空の入口では、まず“立つ”ことを試される」
「地の者は、自分が地に立っていると思い込みすぎる」
ザルクスが、面白そうに顎をしゃくる。
「始まったな」
「挨拶だよ、リオ」
「挨拶が重いんだよ……!」
リオは、足裏の感覚を探る。
風の向きが複数ある。
それに引っ張られて、重心が勝手にずれる。
でも、さっきよりは分かる。
空気の層。
どこが流れていて、どこがぶつかっていて、どこが裂け目になっているのか。
圧戰の感覚が、自然と指先へ上がってくる。
ザルクスが低く言った。
「やれ」
「まずは、空の層を一回切ってみろ」
「簡単に言うな」
「簡単だ」
「お前の親父側は、こういう見えねえもんを断つための力だろ」
セラフィスの目が細まる。
「……親父側、だと?」
「あ」
と、ザルクス。
「余計なこと言った」
と、リオ。
「ほんとだよ」
セラフィスは、その一言を逃さなかった。
「そうか」
「その者、やはり混ざっているのだな」
「答える義理はない」
ザルクスの声が、少しだけ低くなる。
「ならば」
セラフィスは、もう一段だけ高度を下げた。
「試すだけだ」
次の瞬間。
リオの前方三メートルの空間が、ぐにゃりと折れた。
見えない壁でも出たのかと思った。
だが違う。
空気の層そのものが、縦に折り畳まれている。
そのまま踏み込めば、身体ごと軌道を奪われる。
首から上だけ別方向へ持っていかれてもおかしくない。
「うわ、嫌な感じ」
「だろ?」
ザルクスは笑う。
「だから空野郎どもは嫌なんだよ」
リオは、そこでゆっくり右手を上げた。
圧真では足りない。
押しても沈めても、この相手は“そこにある空気”そのものを支配している。
必要なのは、より細く、より鋭く、空気と空間を一本の線で抜く力。
圧戰。
頭の奥で、その名前がもう自然に座り始めている。
リオが目を細める。
「……見えた」
「何が」
と、ザルクス。
「切れる場所」
セラフィスの表情が、初めてわずかに動いた。
リオは一歩だけ踏み込む。
空の入口。
まだ本当に入ったわけじゃない。
でも、今ここで最初の刃を通せるなら、先へ行ける気がした。
「やってみる」
右手を、静かに横へ払う。
風が鳴る。
空の層が、一枚だけ裂けた。
その瞬間、セラフィスの背後の雲が真っ二つに割れ、遅れて高い空から光が落ちた。
ザルクスの口元が、深く吊り上がる。
「そうだ」
「それでいい」
セラフィスの翼が、今度は明確に開く。
「ならば」
「入口は越えた」
その声とともに、周囲の風が一斉に牙を剥いた。
リオの髪が浮く。
足元の砂が舞う。
空の領域が、ようやくこちらを敵として認めたのだと分かった。
セラフィス=ルーガが、静かに言う。
「次は」
「立ったまま、落ちずにいられるかを見よう」
リオは、口元だけで笑った。
「やってやるよ」
空の入口は、いま開いた。
そして次の瞬間にはもう、戦いの中にいた。




