頭角を表す
グロウ=ザルハドの足元から滲んだ黒が、ゆっくりと、だが確実に大聖堂の床を侵していく。
白い石は、染まるというより――沈み始めていた。
重い。
ただ立っているだけなのに、空間そのものが下へ引かれていくような圧がある。
リオは、その圧を真正面から受けながら、ゆっくりと息を吐いた。
剣を抜かない。
今は、違う。
前にダンジョンで思い出しかけた感覚が、もう身体の奥で確かに脈打っている。
剣で斬る前に、この世界での“本来の自分”が何をしていたのか。
その断片が、今はっきりと、指先の向こうに集まり始めていた。
グロウが一歩、踏み出す。
その瞬間。
大聖堂の床が、音もなく割れた。
砕けたのではない。
“割れるべき線”だけが突然現れたかのように、白い石床が幾筋にも走り、亀裂がリオへ向かって押し寄せる。
「っ!」
リオは横へ跳ぶ。
だが遅い。
亀裂は地を走っているのではなく、意思を持つ蛇みたいに追ってきていた。
「おいおい、開幕から嫌らしいな」
柱のそばでザルクスが笑う。
「黙ってろ!」
リオが着地しかけた場所の床が、今度は内側から盛り上がる。
黒い槍のような土塊。
いや、土ではない。
鉱石と骨と魔気を無理やり圧縮したような、重い槍群。
それが十、二十と一斉に噴き上がった。
リオは半歩だけ前へ出る。
避けるのではなく、踏み込む。
右手を軽く開き、正面へかざす。
その瞬間、空気がきしんだ。
噴き上がった槍群のうち、真正面の五本だけが、唐突に沈む。
まるで上から見えない巨手で押さえつけられたように、黒槍が途中で頭を垂れ、床へ叩きつけられた。
「……ほう」
グロウの片眼が細まる。
リオはその隙間を縫って距離を詰める。
速い。
自分でも、今の踏み込みの軽さに少し驚いていた。
剣を持たない方が、身体の“芯”が前へ出る。
そんな感覚がある。
グロウの腕が横薙ぎに来る。
黒褐色の外殻に覆われた腕は、人の形をしているのに、質量だけが魔獣じみていた。
当たれば終わる。
そう分かる。
だがリオは下がらない。
左手を振る。
グロウの腕の軌道、その“通るはずだった場所”だけを、ほんのわずかに捻じ曲げる。
ぶん、と鈍い音。
腕はリオの顔の前をかすめたはずなのに、次の瞬間には大聖堂の柱を削っていた。
「……空間の噛み合わせを」
グロウが低く呟く。
「未完成だが、悪くない」
「そっちはどうだ」
リオが息を整えながら返す。
「地面と仲良しすぎだろ」
「我は地の底に近い」
グロウの声が沈む。
「貴様らのように、地の上だけで生きてはおらぬ」
次の瞬間。
大聖堂の空気が、一段、落ちた。
「――っ」
リオの膝が沈む。
重い。
今度はただの圧ではない。
身体の内側にある血や骨まで、下へ引かれている感覚。
息を吸うだけで肺が重い。
「どうした、リオ」
ザルクスが笑う。
「もう終わりか?」
「うるさい……!」
リオは歯を食いしばる。
この感覚、嫌いじゃない。
苦しい。
けれど、こういう理不尽の中でこそ、自分の何かが噛み合う。
前にダンジョンで、剣を捨てた時。
あの時もそうだった。
追い込まれた瞬間、身体の方が先に“こっちだ”と教えてきた。
今も同じだ。
リオは、重圧の中であえて一歩踏み出した。
もう一歩。
さらにもう一歩。
グロウの片眼が、初めて明確に揺れる。
「何」
「これくらいで止まるなら」
リオが低く言う。
「たぶん、ザルクスのライバルなんて無理だよ」
ザルクスが腹を抱えて笑う。
「ははっ!」
「言うようになったじゃねえか!」
「黙ってろ!」
重圧がさらに強まる。
石床が悲鳴を上げる。
リオの足首が沈む。
膝も軋む。
それでも、リオの右手はゆっくりと持ち上がっていく。
思い出せ。
剣の前。
魔術の前。
術式のもっと前。
自分はどうやって、理不尽を殴っていた?
答えは、言葉より先に指先へ来た。
“落とす”
ただそれだけだった。
リオは、持ち上げた右手を、真っ直ぐグロウへ向けて振り下ろした。
その瞬間、大聖堂の中央に見えない断層が走る。
グロウの周囲の空間が、半瞬だけ上下にずれた。
「――!」
遅れて、圧が落ちる。
上からではない。
四方からでもない。
“そこに立っている”という事実だけが重くなったように、グロウの巨体が一気に床へ沈んだ。
どんッ!!
石床が陥没する。
黒い泥輪が乱れ、グロウの片膝が初めて地についた。
ザルクスの笑みが、そこで少しだけ深くなる。
「それだよ」
「そういうのだ、リオ」
グロウは沈んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
怒っている。
だが、それ以上に――喜んでいるようにも見えた。
「……なるほど」
「未熟」
「だが、確かに“あれ”の側だ」
「あれ?」
リオが眉を寄せる。
「まだ知る必要はない」
グロウが立ち上がる。
「今の貴様では、知ったところで器が割れる」
「言うね」
リオは少しだけ笑う。
「事実だ」
グロウの背後で、今度は黒い層が縦に裂けるように立ち上がる。
「だが、見誤っていた」
「ザルクスが、ただの駒を置くはずがなかった」
ザルクスが鼻で笑う。
「当たり前だろ」
「俺が拾うのは、いつだって面倒なやつだけだ」
「それは知っている」
グロウはそう返すと、もう一度だけリオへ視線を定めた。
「若造」
「何」
「今の貴様には、まだ勝てる」
「だが、数年後の貴様には……わからん」
その言葉と同時に、グロウの足元の泥輪が一気に広がった。
まずい、とリオの身体が先に反応する。
踏み込む。
だが、遅い。
黒い泥ではない。
あれは、地の下へ通じる“口”だ。
グロウの輪郭が、その中へゆっくり沈み始める。
「待て!」
リオが叫ぶ。
グロウは最後に、割れた仮面のような顔のまま、静かに言った。
「この地は見られている」
「羅螺蘭様の名を、軽く扱うな」
「そしてザルクス」
「ん?」
「次は、お前一人の時代ではない」
「知ってるよ」
ザルクスは笑った。
「だから面白いんだろ」
グロウの片眼が、ほんのわずかに細まる。
それが笑みに近かったのか、敵意の残滓だったのかは分からない。
次の瞬間、その巨体は音もなく黒へ沈み、跡形もなく消えた。
静寂。
大聖堂の中に残ったのは、割れた長椅子と、陥没した床と、まだうっすらと残る重圧の余韻だけだった。
リオは、その場でしばらく立ち尽くしていた。
息が少し荒い。
でも、不思議と悔しさより先に、身体の奥が熱かった。
「……逃げた?」
「半分正解」
と、ザルクス。
「またそれかよ」
ザルクスは柱から離れ、陥没した床を覗き込んだ。
「ありゃ、逃げたっていうより“今回はここまで”ってやつだな」
「様子見だよ、様子見」
「でもまあ、お前のことはかなり気に入ったはずだぞ」
「嬉しくねえ」
「そうか?」
ザルクスが笑う。
「俺は嬉しいけどな」
「お前がやっと、剣以外の顔をちゃんと出し始めたの」
リオは、自分の手を見る。
さっき確かに使った。
剣ではない、自分の戦い方。
まだ断片。
まだ名前も、理屈も、全部は戻っていない。
でも、戦えた。
ラルラゴと手合わせした時とも違う。
ダンジョンで一瞬だけ思い出した時とも違う。
今のは、確かに自分の意思で掴みにいった感覚だった。
「……ザルクス」
「ん?」
「お前、最初からこうなるって分かってた?」
「まあな」
「腹立つ」
「褒め言葉として受け取っとく」
リオは少しだけ笑って、それからまた大聖堂の奥を見た。
高い天井。
まだ誰の祈りも染み込んでいない壁。
その中央で、自分は今、分類不能の存在と戦った。
そして勝った、とまでは言えない。
でも、確かに通じた。
「それが、それだ」
リオが小さく呟く。
ザルクスが吹き出した。
「お、気に入ったか」
「ちょっとだけな」
二人の笑い声が、高い大聖堂の中へ静かに広がっていく。
だがその奥で、残された気配はまだ消えていなかった。
羅螺蘭。
深環の外縁。
ザルクスと対立する三つの勢力。
成埜の地の開拓は、もう地上の話だけでは終わらない。
地下も、外も、過去も、全部がこちらへ寄ってきている。
そしてその中心に、今――
リオが、立ち始めていた。




